この文章は過剰な深読みとこじ付けで構成されています(正三角関係:唐松威蕃編)
はじめに
大阪まで舞台正三角関係を見に行ったのだが、内容の端々から福音書の登場人物や展開に準えていると思われる部分が見られたため、紐づけられそうな部分のみ個人的な解釈をしてみた。
まず言い訳から始まり恥ずかしいのだが、私は一度しかこの舞台を見ていないので聞き取れない台詞も覚えていない要素も理解していない場面も多く、以下に続く解釈は大体が自分の知っている範囲での新約聖書と宗教画に基づくこじ付けでしかない
正直自分でも深読みのしすぎだとは思っているけど、こうだったら面白いなぁ程度の解釈なので、暇なときにでも流し読みしていただけると幸いです。
そして本文に入る前に、キリスト教の聖典である新約聖書の構成を簡単に説明しておきたい。
新約聖書は「4つの福音書」「使徒言行録」「21通の手紙」「ヨハネの黙示録」で構成されている。
聖書と言われて思い浮かべる人が多いであろうイエスの誕生から磔刑、3日後の復活のエピソードが記録されたものこそが「福音書」だ。これにはマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネが記した4つのバージョンがあるのだが、正三角関係はヨハネの福音書からの引用が中心となっていたように思われる。このヨハネの福音書は使途ヨハネによって書かれた福音書で、他3つの福音書(共観福音書と呼ばれる)とは話の構成や筋が違い、立場が少し特殊な福音書でもある。
もう一つ、正三角関係内で何度か引用のあったヨハネの黙示録は、今後の世界に起こる死の災いや終末戦争、キリストの再臨、キリストによる地上の1000年統治を預言した新約聖書の最後を飾る書だ。これは使途ヨハネが書いた説とまた別のヨハネが書いた説があり、別のヨハネが書いた説がまあまあ有力だ。映画オーメンで一躍有名となった666という数字もこのヨハネの黙示録が初出であり、後世の終末思想や地獄観に多大な影響を与えている。
(ところで英会話教室でオーメンを見せられていた松本さんの幼い頃のエピソード凄い好き)
大体こんな感じで覚えてもらえればと思う。
新約聖書は旧約聖書と地続きであり旧約聖書からの引用がかなり多いので本来は旧約聖書に関しても知っていると尚素晴らしいのだが、そうすると終わりが見えないので割愛。
それで今回の私の解釈は基本的に福音書に沿っていくのだけれど、あくまでもそれはこの舞台の表向きの解釈でしかなく、実はヨハネの黙示録に沿った裏の解釈もあるのではないかと勝手に思っている。というのも威蕃が劇中で言った「キリストは敵国の神様だ」的な言葉(うろ覚え)がずっと引っかかっているからである。でも今回そこは敢えて捨てていこうと思う。これもきりがないから。
1.なんか不吉なヒキガエル
これは最もこじつけ臭い解釈となったのではじめに出してしまおうかと思う。
兵頭殺し裁判の中で、富太郎の善性を示すためになされた在良の供述、その中にヒキガエルが登場する。第一次世界大戦が終わり、束の間訪れた平和を喜ぶまだ若かりし三兄弟、戦勝を祝して花火を打ち上げんと意気込む富太郎に、威蕃がヒキガエルを一緒に打ち上げようと提案し、それに躊躇いを見せる富太郎の姿があったはずだ。
今の若い子にはグロすぎて信じてもらえないかもしれないが、ちょっと上の世代の人はヒキガエルに爆竹をくっ付けて爆殺する遊びをしていた人が結構多い。松本さんと同い年の私の兄も、やっぱり友人と一緒にそんなことをやっていたと記憶している。私はカエルが好きなので普通にショックだったが……
ので、少し上の世代の方々(特に男性)の少年時代の記憶と結びつき、苦笑を浮かべさせる、なんて観客から共感を得るシーンとして作用していたのではないだろうか。
が、正三角関係において在良の口から度々ヨハネの黙示録の一節が語られるのを聞いたために、先ほど今回解釈するうえで捨てると宣言してしまったヨハネの黙示録のとある記述に思い至ってしまったのである。
ヨハネの黙示録16章はかの有名な「最後の審判」の章なのだが、13節からは世界を破滅へ導く世界終末戦争の話となる(これがハルマゲドンと呼ばれたりするのだが、実はハルマゲドン自体は決戦場の名前だったりする)。
ちなみに龍、獣、にせ預言者というのは、
・龍=父なる神の敵サタン
・獣=反キリスト(キリスト教に反対する者という意味ではなく、ここでは神の子キリストの真似事をする偽キリストという意味だ)
・にせ預言者=偽キリストを崇拝するよう人間たちを誘導する偽預言者
という悪の三位一体みたいなものである。
上を理解するにはキリスト教に存在する聖三位一体という神の持つ3つの位格(父・子・聖霊)を把握していることが前提となる。
つまり上記の文章をこれでもかと簡単に訳すと、三位一体の悪がカエルの姿をした悪霊を地上に送り出して、彼らは世界中の様々な国に散らばっては世界戦争を引き起こすため人間を扇動する、的なことを告げている。
深読みなのは重々承知だが、第一次世界大戦よりも苛烈を極める第二次世界大戦の訪れを知らずに束の間の平和を喜ぶ三兄弟の前に登場したあのヒキガエルは、これから起こる更なる悲惨な戦争の予兆のように思えた。偶然たった一つの要素が一致しただけとは言え、一人で勝手に薄ら寒い気分を味わったのだ。
2.序盤で示されたダヴィンチによる最後の晩餐
ここからは舞台正三角関係に登場する主要人物たちのキャラクター性の話となる。
幕が開けてからそう経たないうちに、教会の神父を中心として出演者たちの「最後の晩餐」の形が作られる。背景スクリーンには、ご丁寧にもレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が映し出されていた。
ダヴィンチの「最後の晩餐」と言えば、日本人でも知らない人はほぼいないだろう。その著名さゆえに登場人物の性質や関係性を示す際に引用しやすく、国内外ジャンルを問わず様々な作品でダヴィンチの「最後の晩餐」の構図が暗示的に使われている。
舞台正三角関係でもそれは恐らく同じで、あのときに最後の晩餐の配置についた威蕃、在良、そして兵頭は、自身のキャラクター性に近い使途の座る場所に位置していたと思われる。
3.正三角関係における最後の晩餐の配置
「最後の晩餐」では、イエスが処刑される前、イエスから奇跡を起こす力を与えられた弟子の12使徒(裏切りで有名なイスカリオテのユダは後々除外されるが、この時点ではまだ12使徒の一員である)とイエスとの間で催された最後の晩餐の風景が描かれている。この場面は内容の微妙な差異こそあれど、4つの福音書すべてに記載されている。
正三角関係では、主要な登場人物が下図の通り配置されていた。
威蕃が恐らくトマス※
在良がヨハネ
そして殺された兵頭がイスカリオテのユダである。
※「恐らくトマス」と書いたのは、威蕃が大ヤコブとも取れるような判別付け難い位置取りをしていたためだが、彼の見た目、人間性はトマスに近く、トマスのポーズにも意味が含まれているため、ほぼほぼ決め打ちでトマスとした。
この配置を目撃した当初、一瞬だけ「あれ?」と思った。そっちがヨハネなんだ、と。しかしこの配置で正解なのだ。だってヨハネは二人いても良いのだから。
上図のような登場人物の配置は、今回の舞台で役者の演じた一面でしかないという認識だ。
そもそも長澤まさみさんと竹中直人さんは、今回一人二役に挑戦している。在良がオモテならグルーシェニカがウラ、唐松兵頭がオモテなら盟神探湯(くがたち)検事はウラ、何かしらそういう意図があるのではないかと思っている。
が、残念なことに今回私がこの3人の内オモテとウラに関してなんとか噛み砕くことが出来たのは威蕃と兵頭、この2名だけである。在良がヨハネなことは一目瞭然なのだが、そのウラに当たるグルーシェニカは分からないことだらけどころか、どちらかというとヨハネの黙示録に行きあたってしまう。そのため自分の考えに全く確信が持てていないのだ。なので今回は威蕃と兵頭、そして富太郎にのみ言及しようと思う。
繰り返して申し訳ないが、私は一度しかこの舞台を見ていないので聞き取れない台詞も覚えていない要素も理解していない場面も多く、以下に続く解釈は大体が自分の知っている範囲での新約聖書と宗教画に基づく憶測でしかないので、そこは許していただけると嬉しい。
ちなみに永山瑛太さんは威蕃一人だけを演じていたが、威蕃は一人でオモテとウラの要素が十分出ていたので敢えてそうしたのだと思う。
そしてこの舞台、上記の通り中心人物達にオモテとウラの要素があるからこそ、裏表の無い富太郎がより一層光を放つのだ。
以下からは威蕃の持つオモテとウラについて自分の思ったことを記していこうと思う。
4.威蕃はトマスでありヨハネである
威蕃のキャラクター性=トマスと決めつけて話を進めよう。
まず使途トマスについて説明したい。ちなみに私のお気に入りの使途でもあるので長くなると最初に伝えておく。
ていうか最後の晩餐の絵を見て改めて思うけど、瑛太さん演じる威蕃の髪形がまんま最後の晩餐のトマスだな。
・使途トマスとは
トマスは12使途の一人で、カトリック教会からは「疑い深いトマス」とも呼ばれていたりする。福音書を読めば彼の若干空気の読めない疑問を呈する発言を度々目にし、「疑い深いトマス」の呼び名に納得すること間違いないのだが、究極はヨハネの福音書においてイエスが弟子たちの前に復活した姿を現す場面だ。トマスは一人だけこの現場に遅れて到着するため、復活したイエスが奇跡的な登場をした場面を直接見ていない。そのために言い放った台詞が下記の通りである。
その他弟子たちが揃いも揃って「イエス様が復活した!」って喜んでるのに本当に疑い深いなこの人!
しかも発言の通り、ちゃんとイエスの脇腹の槍傷に指を突っ込むのである。こいつ遠慮なさすぎだろ。それを許すのだからイエスはさすがに心が広い。その場面を描いた有名な絵画も存在する。人によっては「うっ……」となるかもしれないので、気になる方は「カラヴァッジョ 聖トマスの不信」で検索してみてほしい。
ちなみにこの後イエスから「心で私を信じられずに目で見たものしか信じられないの、不幸な奴だわ……」的な説教を遠回しに喰らってしまう。
ただこれだけだとなんだか信仰の薄い使途のイメージがついてしまいそうなので、命を擲つ覚悟でイエスに着いていく情熱的な姿も書かれていることを並記しておこう。キャラクターの立ち位置としては「聖書の読者に近い客観的な視点からイエスの奇跡を目撃する人物」として用意されている側面もありそうだ。
そんな疑い深いトマスだが、一転、ロシア正教会(ロシアで最も力のあるキリスト教の教派)ではこのような呼ばれ方もされている。
「研究を好むフォマ」
フォマはトマスのロシア語呼びである。主の奇跡ですらすぐには信じないほど疑い深い姿も、見方を変えれば「自分で見、触れてみなければ信じない」といういかにも研究者然とした姿に映る。唐松威蕃の人間性を表現するにこれほどピッタリな使途やはり他にいないと思う。
ここで突然話は変わるが、皆さまは「アトリビュート」という言葉を御存知だろうか。西洋絵画において“そこに描かれた聖霊や人物が何者であるか”を示すシンボルのことである。例えば、赤いドレスの上に青いマントを羽織った女性、さらに白い百合まで描かれていればそれは間違いなく聖母マリアある、そんな具合だ。
では使途トマスに話を戻そう。絵画で彼を描くときによく登場するアトリビュートがある。それが槍と曲尺(定規)だ。
曲尺(定規)に関してはなんかもう、そのまんま威蕃ぽさがあるじゃん。
と、急に投げっぱなしになってしまったが、そもそも使途トマスは「建築家」と「幾何学者」の守護聖人でもある。
幾何学と威蕃が専攻する物理学は、昔から切っても切れない関係だ。こじつけだと言われようが、やっぱり威蕃のキャラクター性はトマスなのではないかと思ってしまう。
私は正三角関係で威蕃の前に竹槍が登場したとき、ドキッともゾクッともつかない何とも言えない感覚を味わった。というのも、使途や聖人のアトリビュートに武器そのものや凶器となり得る道具が選ばれるとき、それはその人の死の原因となった凶器なのだ。そう、槍がアトリビュートのトマスは、槍を刺されて殉教している。正三角関係の威蕃に関しては竹槍は死に繋がらないが、彼が竹槍という道具に嫌悪感を示したり乱暴に投げ捨てたり(してたよね?)する場面を見て、聖書好きはそこに槍で殉教したトマスの像を重ねてしまったわけなのである。
竹槍が登場したのは、確か兵頭殺しの裁判の休廷と同時に、B29を突き落とさんと竹槍訓練を開始した場面だったと思う。うろ覚えでしかないが、竹槍で敵を「刺し殺せ」と叫ぶ人たちが、同時に兵頭殺しを裁こうとしている姿を眺める在良の姿と、戦争をしながら人を裁くことの意味を問う威蕃の言葉がとても印象的だった。
そして威蕃はそこで、竹槍よりも「E=MC²」、アインシュタインの提唱した質量とエネルギーの等価性を示す方程式を光の方程式と呼び、そこに日本を勝利に導く救いの光を見出すのだ。
そして私はこのときの彼に、洗礼者ヨハネというもう一つの姿を見た。
・洗礼者ヨハネとは
ご存知の方も多いかもしれないが、改めて説明すると福音書には二人のヨハネが登場する。一人は12使途のヨハネで、正三角関係の「最後の晩餐」の図では在良がこの使途ヨハネの席に座っていた。
もう一人のヨハネとは、洗礼者ヨハネだ。ヨハネの福音書においては第1章6節から登場する重要人物で、彼とイエスとの深い繋がりを理解しようとすると旧約聖書まで遡る必要がでてくる。ちなみに黙示録を書いたヨハネとは無関係だ。
洗礼者ヨハネはイエスの従兄にあたる人物で、イエスを洗礼する役目を担っている。ここで一つ知っていただきたいのだが、聖書では主(神)を「光」で表現することがほんっっとうに多い。光=主もしくは主の齎す恩恵(イエスもそれに含まれる)と捉えて遜色ないだろう。
そしてヨハネの福音書に洗礼者ヨハネが登場したとき、このような記述がされている。
「彼は光ではなかった。」というのは、光とは神であり、神の小羊イエスのことであるからだ。洗礼者ヨハネはあくまでも洗礼者、イエス(光)を洗礼することで彼が父なる神から祝福される下準備をし、イエスが父なる神の傍に向かうための道を用意する人なのだ。
正三角関係に宗教という形で分かりやすく登場する信仰対象はキリストだが、それはあくまでも在良のとっての信仰対象だ。富太郎も威蕃も、それぞれが宗教ではない別の何かに信仰を持っていたように思われる。威蕃の場合は、それが原子爆弾だったのではないだろうか。
威蕃は彼がそうと願う、日本を勝利に導く光となるであろう原子爆弾を完成させるために方程式を読み解き、核の光の証しに常に取り組んでいた。
「E=MC²」これはアインシュタインの提唱した世界でもっとも有名であり最も美しいとされる方程式で、悲しいことにこの美しい方程式は原子爆弾開発の土台となってしまったが、威蕃にとっては唯一日本を勝利に導く可能性を秘めた神の方程式に他ならない。
しかし劇中の会話からでも分かるように、方程式を用いて原子爆弾を作れたところでそれを打ち上げられなければ意味がない。日本を救う光にはなり得ず、ただの置物同然だ。しかしそこに、一筋の光が差し込んだ。それが富太郎という存在である。
もう一度、ヨハネの福音書に記されている洗礼者ヨハネについての記述を見てみよう。
ここに記される光こそが、原子爆弾を起爆させ神の光たらしめるための点火方法を唯一理解する富太郎(神の恩恵:小羊)であり、富太郎を威蕃にとっての神:原子爆弾へと導く役割を果たすのが威蕃(洗礼者ヨハネ)と読み取ることは出来ないだろうか。
と、ここまで書いていたらもう御察しだろうが、私は富太郎の立ち位置を福音書で言うところの「神の小羊」に重ねている。そして神の子羊とは、人の罪を背負って犠牲になる者のことだ。ここは間違えてほしくないのだが、富太郎はイエスではなく、あくまでも犠牲の小羊なのだ。そしてこの、人の罪を背負って犠牲となるべき小羊が、正三角関係では唯一生き残ってしまうからこそ、そこにとんでもなくブラックなシニシズムを感じて観劇後にゾッとしたのである。
しかしその辺の詳しい説明に関しては富太郎編で書いていくつもりだ。
威蕃の持つ洗礼者ヨハネの性質の話に戻ろう。
色々と照らし合わせてはみたが、しかしまだ根拠が足りないと思うので、次はダヴィンチの描いた最後の晩餐のトマスと、洗礼者ヨハネを見てほしい。
ポーズ似てるな、と思った人が多いと思う。というかこの人差し指を天に向けるポーズ自体、そもそもが洗礼者ヨハネを描く際の定番ポーズなのである。
ダヴィンチが最後の晩餐において何故このポーズをトマスに取らせたのか、という部分なのだが、ダヴィンチは絵の中に暗喩やジョークを仕込むのが好きな人なので、これに関してはダヴィンチと同じ工房にいた兄弟子ボッティチェリの聖三位一体を意識した説などがある。が、そこまで説明するのは難しいので、とりあえずダヴィンチは最後の晩餐においてトマスに洗礼者ヨハネを意識せざるを得ないようなポーズを取らせて洗礼者ヨハネのイメージを喚起した、ということだけ認識してほしい。
実を言うと、舞台のスクリーンにダヴィンチの最後の晩餐が映し出されたとき、私は「またダヴィンチ版か~!」と思ってしまった。色々なところでこの構図を見すぎて食傷気味だったからである。しかし、舞台上でトマスとヨハネの性質を行き来する威蕃を見た時、敢えてダヴィンチ版である必要があったのだと考えを改めた。またダヴィンチ版かとか思ってすみませんでした。
そんな感じで色々それっぽく、えらそ~~に書き連ねたわけなんですけど、ぶっちゃけ今から書くことが威蕃=ヨハネの一番の根拠なんすわ
イワンという名前は、ヨハネのスラヴ語読みである。
最初からそれを言え!!!!
正三角関係の要素の一つにもなっている「カラマーゾフの兄弟」だが、これを書いたフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは登場人物の名前に意味を持たせることが好きである、と私は思っている。何せ私が知るのは罪と罰だけなので確信を持って言うことはできないが、罪と罰に登場する人物も名前に随分意味が含まれていた。
そして正三角関係にカラマーゾフの兄弟の要素をつけ足し日本人名を上から付け直した野田秀樹さんだが、威蕃に関しては漢字を与えつつもわざわざロシア語名をそのまま使用しているのである。そこから威蕃という人物を読み取ってくれと言わんばかりじゃないか。言わんばかりなのよ、威蕃だけに。\ドッ!ワハハハ!/
というわけで長ったらしい威蕃=トマスであり洗礼者ヨハネである説はここで締めようと思う。兵頭と富太郎に関してもかなり色々思うところがあるので、まあぶっちゃけ全て深読みとこじつけの域を出ないが、それでも面白かったと思う人は兵頭編と富太郎編も待ってくれたら嬉しいです。それでは。
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