見出し画像

大陸人文明と島嶼系の日本文明の違い

この記事は、以下の2024-06-03のYOUTUBE動画、
「実は日本は『世界一』の大金持ち国家〜マネーと信用の仕組み〜|小名木善行」(希望の日本再生チャンネル)に対し、関連の自説をコメントしたものです。


【大陸人文明は狩猟採取の発達系文明】

 大陸人は、狩猟採取文明の上に、『眼前の限られた糧』を手にした群れが生残り、糧の被る他者をリセットし、繁殖した結果、現在存在する文明人です。
 そのため、手っ取り早く、労無く日々の糧を糧を手にする言語概念が発達し、その能力で他の群れを喰い物にする習性を持ってます。
 足りなければ、他者からせしめる言動が本能的に起動することを意識して付き合う必要があります。
 その方策として、①武力を使う、②宗教的権威を使う、③有利なルールを相手に被せる。この3つで、国際社会は機能しています。

 大陸で国家が発生したのは、農耕文明だけが定着し、その他の文明に必要な生産が発達すること無く、例えば穀物生産と人口に見合う調理文化に必要な燃料生産を自然からの狩猟採取のままにしたことで手近な樹木から伐採しても樹木が育つ迄ま期間の植林文化が定着せず、最初は夕立程度の局地的降雨の減少に始まり、表土が剥がされ、土砂が舞い上がる砂漠化を、農耕文明国家を砂漠に埋めることになったのです。
 この燃料生産問題を海に求めたのが、欧州の捕鯨産業であり、地下資源の石炭と石油生産で置き換わる迄は、元々の農耕適地を人類が砂漠化していたのです。
 彼等には、自分等以外は、マウント対象であり、内心は同格であってはなりませんし、ましやマウントされる立場に立つことは、しを意味するので
その心の奥底にある価値観(欲得と感情)を実現する目的で、概念を創設し、そのための、概念語を量産して来ました。
 それ等は、人類が創造した「言語空間」内の存在に過ぎず、「現実世界」の自然と符合しない限り、単に被せ物として機能させる手合いの存在なのです。

【列島人文明は域内完結の摂理発達系文明】

 それに対し、日本人は、陸での狩猟採取に加え航海術を基にした漁労文化を持ち、足りぬを森の果樹で補うことで、リス的に果樹の種を生息域に食べては撒き散らし自然に農業が始まり定住化が強まり、世代を重ねることで定住が実現し、小さな群れが狭い津々浦々の生態系を利用した生業を通年で実現しました。農耕は人的労働と季節を読む暦の知識が必要ですが、果樹農牛生産は基本水やりが不要であり。倒れたり枯れない限り年々、予定する収穫が得られます。
 その本数次第で群れを支える糧の量が決まるので、自ずと植林文化も育まれ、その様な定住する群れが、列島には優位的に遺伝子をつないだのだと思われます。列島人は、農耕の前に植林文化を携えていたことから、縄文土器文化で使う燃料も困らなかったのかと思われます。
 縄文期に始まった水耕農業も、それで山には手を付けず、干潟の干拓を中心に行なわれ、その古代での最大の成功は奈良、大坂であり、その成功が大和朝廷につながりました。この時、その地の群れは、干潟の糧を失い、代わりに米を糧として貰うことで農耕に従事する様になったのです。
 関西だけでなく、各津々浦々でも、漁労と果樹農業に加え適地での水耕栽培文化が加わり、通年で糧がつながった範囲で群れの人口は決まりました。その過不足と全体的人口量の増加で、弥生時代と後続の大和時代(古墳時代)では、武力闘争も発生し易くなるが、大陸に比べ産業構造が多重化していた上に、津々浦々の生態系を把握していなければ、同等の人口を維持出来ない制約から、例え異種文化の群れに入れ替わっても、人口を減らし自滅する運命に見舞われたことで、縄文系文明はリセットされることなく、今日迄継承されたのだと思われます。
縄文文明は自然との対話で、その摂理を見出し、摂理に沿った行動を採った個体と群れの生残りと次世代へつながる確率が大きくなった文明でしたので、大切な「命題」「尊ぶこと」こと、人の手の及ばぬ、人の上(神)にある「摂理」を伝える地で祀り次世代に、それを由来として伝承する、『土地に貼った付箋紙』の如く、石碑や神社が建立される文化が拓けた。亡くなった先人の館や墳墓に立ち、先人ならどう理解するかを自問すると共に、共に集うものが理解を伝え合うことで、摂理に沿った文化は進展して行き、その各地で独立して存続した文化が次第に融合して、古代日本文明は生成された。
 摂理に向き合う文化故に、概念語は極めて少なく、それが今も、訓読み日本語として言語の根幹に座り、外来の大陸人創作の概念語は、学びの対象として刺さったものだけを纏う文明として、日本語と日本文明は発展して来たのです。
 神社の多くは氏神として祀られる面も多いが、その祀られる先人にすがるものが在ったからで、そこには、その由来に沿った伝承文化をより濃く伝承されるから、今日迄存続したのだと思います。月読と天照は「漁労対応から発した時間の刻み」と日光の照らす先が季節の刻みを示す「上(かみ)」の摂理として大切だったから、当時の記述文化の範囲で擬人的に描き、素戔嗚(スサノオ)は、人として生きるための「命題」としての技術を描くための擬人だったのだと私は思っています。編集者も博学では無く、当時の言語表現の範囲で、『神話』カテゴリーに分類された記述はなされたのだと考えています。
天上での素戔嗚の非行は摂理を説き、人の従うべき社会摂理を描き、八岐大蛇と草薙剣の逸話は、農業土木と共に、それに向けての敵対勢力との戦いと従属化を象徴しているのではと思います。

【日本人は外来概念を摂理と誤認し易い】

 日本人は、言葉でなく、自然に向き合うことで摂理を身に付け、それに沿った生業を営む前提で、被災時に偶々、出会い隣り合った者同士が、互いの不足する行為を補完し合う形で、自然に社会を作ってしまいます。その集合体が自然に国家を形成する稀有な武名の民族なのです。
 そのために、日本人は、他者に対し、同じ摂理に向かうと思い自己投影をしてしまいます。でも、その他者が大陸人の場合、狩猟採取型の刹那的な文明で動くことを理解しなければなりません。他者が提示するルールが、日本人が進む方向と同じ「摂理」に通じるのか? そして、ルールそのものに安定性があるのか?
その程度の思考は巡らして、先々の保険を打つことくらいは、する必要があります。

 日本人の資産は、消耗して行く地下資源取引で蓄えたものではありせん。人材資源の付加価値生産が大陸人比で勝っていたので現在は現在の大陸人ルールで実現しています。大陸人は、自らの利益がなくなればルールは変更してきます。「言語空間」を被せて「現状変更」の試みを力で行なう文明下にいます。
 平等、民主主義、人権、民族自決、自由貿易、捕鯨禁止、脱炭素、SDGs、昆虫食と表向き騙られる理想は、一見良さげな概念ですが、それを解く時の彼等は、自己利益を目指せる時のみに主張しています。人類を分けることで、マウントし自己利益を得る方策として言葉を弄します。
 資源と糧の量は、その獲得競争の勝者優先で分割され、他者はリセットされるのが大陸人ルールの根幹にあることを日本人は忘れてはなりません。

 日本文明で考えれば、SDGsなんて概念語は要りません。他者をリセットすることで生業を成立させる大陸人文明とは大きく異なり、基本は列島で完結する流通でも江戸期人口は賄える可能性はあるのです。最悪の前提でそこを見据えた上で、特定の民族がマウントで増殖し他者をリセットしないルールの国際社会に持って行くことは、日本文明にしか出来ないことだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?