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スープを掬ったら、同時に火傷した。そういう憂鬱。(2/1夜)

スープを飲み干す、掬う、飲み干す、掬う。単純な作業の中で発生した不快な出来事、
熱湯とさして区別も付かないスープが左手の中指を包み込んだ。
こういう時、反射で動いて器を落としたり、悲鳴をあげなくなったことを
成長というなら、きっともう僕は大人になっているのだろう。
そう人生を振り返っていると、中指が段々痛くなってきた。
ここでようやくスープの抱擁から中指を救うことにしたのだが、
やはり人生を振り返っていたのがまずかったようで、既に手遅れだった。
大きく真紅の如く腫れ上がった中指を、シンクの流水で鎮めることにした。

火傷の痛みと、流水の冷たさが不快だ。
この不快感には既視感がある。
環境に恵まれているのにまともな結果が出せなかった時、
今日こそ何かやろうと思い立つも何もしなかった時、
周りが自分を置いてどこか遠くへ行ってしまったことを実感した時、
実態は様々だろうが、不快感の度合いで言えば、この火傷と同じくらいなのだろう。

少し前までは、私は自分の持つこのような憂鬱や不快感を、何か巨大で、絶望に値するようなことだと思っていた。
しかし実際は全くそんなことはないようで、
所詮、環境や人に恵まれた私の抱える憂鬱や苦しみなんていうものは、
“スープを掬ったら、同時に火傷した”ときの様な、矮小でありふれたものであると知ってしまった。“知ってしまった”というか、”実感してしまった”の方が近いだろうか。
でも結局は”知ってしまった”わけであるから、この違いは大したものではない。

世の中には様々な不幸があると聞いた。
親から虐待を受ける人、何年もした努力が報われなかった人、病気で生活が思うようにいかない人、いじめを受けてきた人。
私に彼らの苦しみや抱える憂鬱がわかるはずがない、なぜならそれらの不幸とは現時点で無縁だからである。だが彼らの苦しみと自分の不幸が同程度ではないことくらいわかる。
故に、恵まれた環境に置かれた私の持つ憂鬱や痛みなんてものは、
ニュートラルに見ても大したものではなく、
人間が絶望する理由にはならないと結論付けた。

その昔「人には人の地獄がある」といったある種の幸福論を見た時、便利な言葉だなと思った。これならどんな些細な苦しみでも絶望に直結させることができる。
誰もが一番可哀想な人になれる。
捻くれた私の目にその言葉は、贅沢で些細な苦しみを抱えた人間が、
自分の被害者意識を正当化しているようにしか見えなかった。だからこそ私は、自分が抱えている憂鬱や苦しみは、贅沢の上に成り立っていて、とても些細なものであると、自覚していたい。そして、その浅ましさを踏まえた上で、この些細な憂鬱を救いたいと思っている。

今も昔も作品の題材になるのはその”些細な憂鬱”だったのだが、最近までその共通点に気付くことができていなかった。
己の作品について最も雄弁に語れるのは自分であると自負していたが、
その私でもまだ自作について不解明なフロンティアが存在するなんて思っても見なかった。
恵まれている自分が、”憂鬱”や”痛み”を作品の題材として用いることへの
懐疑は常に付き纏っていたし、そんなありふれた題材であれば、自分が作品を作る必要もないだろうとも思っていた。
しかし、その苦悩は杞憂であったことに気付けた。これでまた一つ幸福へ近づくことができた。これはとても良いことだ。

私はまだ作品を作り続ける。
どうも最近は思春期の時に患った職業病が出て、インフルエンサーもどき”ななしき”としての活動ばかり先行してしまっているが、
そのうち作品制作も、コンテンツ制作も同じくらいの比重になるだろうと予測している。
“ななしき”でいることに不快感などはないが、
どうも最近は安定(停滞)期になったようで、
どうにも何事も上手く動かない。錆びついた脳の歯車を動かすため、
とにかく予定だけは入れる日々だ。
きっと来年二十歳になる前も同じことを言ってるのだろう。そう思うとこの一年も暗くて憂鬱だ。もし”ななしき”としてのコンテンツだけを見ている人がいたら、一回でも作品を見てほしいとは思う。
何かその創作活動に目的があるとすれば、それは“スープを掬ったら、同時に火傷した”ときの様な、些細な憂鬱に共感してくれる、いわば友達作りのようなものだ。

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