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政治に失望してしまいそうになったら

 しばらく調子が悪くてまとまったことが発言できなかった。また少しずつ書いていくのにあたり、まずは最近の政治のあり方を見て、失望してしまった人たちに声をかけることから始めたいと思う。

 様々な愚劣が生起する政治の領域において、真っ当であり続けようとするのなら、それはほとんど失意の連続になることが避けられない。この社会の不条理を深く直観し、変えようと切望している者ほどそのうねりを繰り返し受けるだろう。しぶきを浴びることもある。それが仲間や、味方だと思った人や党に由来するとき、打撃は大きい。

「投げ出すことは簡単だ」という言葉がある。安い言葉だ。けれどひとたび政治に深く関わったら、やめることも諦めることも容易じゃない。それはおそらく、自分が政治との関りを絶ってしまえば、置き去りにされた政治がいっそう暗い方へと引き寄せられていくであろうことを心のどこかで感じてしまうからだ。

 だから理不尽なものに出会ったら、醜いものを目にしたら、そこで感じたことを抱えたまま政治と関わり続ける道を歩んでいってほしい。そういう人たちがいることを、ぼくは現代のひとつの希望のように思う。

 この社会の否定性を何らかの形で胸に刻んでいるということがなければ、社会を良い方向に変えることはできない。抱えた嘆きの大きさは、未来への射程になる。もちろんその射程に応じた何かを放つことができるかはまた別の問題だ。それには深い洞察と、表現を放つための技術がいる。時には深海に潜るようにして言葉を探ることも必要になるのかもしれない。

 ぼくもなかなか口に出せなかったり、婉曲な触れ方しかできないことが多いけれど、いつか言いたいことがある。それは何かを暴露するようなことではなく、世代や未来に向かって呼びかけるような言葉になると思うけれど。

 新型コロナは日本の統治の崩壊を露呈してきたけれども、それは安倍以降9年の政治の結果、もっと言えば、バブル崩壊以降30年の衰退の結果であるわけで、今後はさらに多くの場面で悲惨なものが剥き出しになるだろう。そして自公はそれを押し通そうとするだろう。

 現状、見通しが決して明るくないのは、野党もまた「こうあるべきだ」という社会の姿を打ち出すことができず、票を求めてさまよっていることだ。社会に押しつぶされた人を置き去りにした抗争や場当たり的な思いつきの政策が行われることもある。そうすれば失望は加速する。

 だからそうならないような軸を作っていかなければいけない。あるべき社会の姿を打ち出していかないといけない。そのためにこそ、この社会の否定性の自覚は大事になる。

 忘れてはいけない。この社会の中で真に苦しんでいる人たちが、時代を変える新しい人たちの登場を待っている。新しい表現の登場を待っている。失望している場合ではない。政治の深部はそこから揺り動かされていくはずだ。

2021.08.13 三春充希

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note: みらい選挙プロジェクト情勢分析ノート