見出し画像

大谷選手が【国民栄誉賞】を辞退したニュースを読んで思い出した、時折感じていた【賞の授与】に関して

よく見る光景なのだが、【もう既に意味あるメインの賞を大々的に獲得している】いわゆる【時の人】【話題の人】に対して、これでもか、という感じで【半ばまるで流行に乗るかのように】次々と〇〇賞、〇〇〇賞、といったように与えていく(与えられていく)報道を過去何度も見せられてきたが、

そういった【誰もが知っている】人に対して改めてそういう賞を幾つも与えるよりも(もちろんそれぞれ異なる団体などから微妙に違った意味合いで贈られているであろうし、功績に対して賞賛することが悪いというわけでは全くないのだが)、

もっと、なかなか目立たないでいるけれどもこんな価値ある取組みをしている人がいます、とか、全く無名ですがこんな成果を上げている方がいらっしゃいます、などと、皆が知らないような人、知られてないような人から探し出してクローズアップしていくようなことをもっとしていったらいいのにといつも思う。



例えば、いわゆる世界的な規模のオリンピックで金メダルを2度、3度と獲っている人に対して【国民栄誉賞】を改めて与えますといったケースなどの際によく感じていたのだが、大概【国民栄誉賞】を与える対象の人というのは、その殆どが既に誰から見てもはっきりとそれなりの大きな功績(この例で言えば金メダル獲得とそれに値する結果)を残した人だったりする。

「いや、もうこの人が凄いこと、みんな知ってるし、目指していた結果と賞を獲得して、しかも大々的に世の中に報じられてるし」といつも感じてきた。(別に妬んだり嫉妬して言うのではない)


しかも【国民栄誉賞】で言えば、その基準が結構曖昧で、その時、その時の選考者の主観で決まったり決まらなかったりもしている。


だったら、それまでに誰の目にも留まっていなかったような卓越した努力や成果に対して、それこそ【独自スクープ】的に発掘して賞を授けるようなことをする方が価値があるようにさえ感じてしまう。



言い方は悪いかもしれないが、何か【勝ち馬に乗る】かのように、便乗して、逆に賞を授けようとする側がこの機会に注目を浴びようとしているように見て取れてしまいもするのだ(必ずしもそうではないだろうが)。



誰もがそれぞれに素敵な花を咲かせることができると思っているし、そういう世の中であってほしいと思っている。

だから、先駆けてそういう花を咲かせた人をクローズアップして、他の人たちがその取組みから学ぶべきところを学んだり、励みにして生きていく、その助けになるそれらの成果やそこに至る道筋などの報道は十分に意味があると思うが、【授与する側】の【安易な便乗】のような行為はあまり褒められたものではない気がする。



より公的な機関であるほど、それ同等の尽力や活躍が他にもないか、しっかりと精査して、目立っているものだけが候補になるのではなく、より公平な授与となるよう配慮すべきではないかと強く思います。


とはいえ、素晴らしいことは素晴らしい、そのことに変わりはないです。


勇気と感動を本当に本当にありがとう。


最後までお読みくださりありがとうございます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?