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社会的孤立対策素案《みらいくらす花びら構想》❶

≪ 目 次 ≫
 
1章  みらいくらす花びら構想
 
2章  アイデア浮上の経緯
 
3章  みらいくらす花びら物語
 
4章    世間を騒がせた事件への対応と問題点
 
5章  心のケアの現状と課題
 
6章  重要な要素となる3つのALL 
 
7章  格差固定社会、抜け出せない構図
 
8章  いじめの構造とコミュニティの課題 
 
9章  展開~脱ブラックホールマインドと超シンクロ現象
 
10章    比類ないプラス面と生み出される効果 
 
  
 
 
1章 みらいくらす花びら構想
 
●みらいくらす花びら構想
 
ある時、ふと脳裏に浮かんできたあるアイデアがあります。
 
今の行き詰まった世の中にあって、なかなかその解決の糸口が見えずにいる難問を解決していける、とあるインスピレーションがシンクロ現象を伴いながら与えられました。
 
2015年8月から12月にかけて、昨今の八方塞がりの社会情勢に対して、その課題を克服していける画期的な構想・アイデアが、長年に亘る真剣な模索と思考、行動、そしてその果ての【脱ブラックホールマインド】と名付けられた、潜在している意識の変革を経ての、一般的に表現されるいわゆる【シンクロ現象】とは異なる、敢えて【超シンクロ現象】と区別して呼ぶまでになった特異現象、即ち、無理に画策せずに自然に必要な人や物と出会って、物事が驚くようにうまく進んでいってしまう現象が生じ始め、そのある一定の成果の到達の後、後に【未来ビジョンシンクロ】と呼ぶこととなった驚きの現象を伴って、次の良き時代を生み出していく展開に必要な構想がいくつか与えられたのでした。
 
これから紹介する【みらいくらす花びら構想】は、いじめや差別、格差社会、無縁社会、ひきこもりのような人やこの社会の心の闇の部分に起因する問題を根底からしっかりと解決し、希望ある社会を創り出していくことのできる可能性を大きく秘めた、かつてなかった切り口によるアイデアです。
 
この【みらいくらす花びら構想】によって解決できることには、
 
・いじめ
・自殺
・孤独死
・無縁社会
・ひきこもり
・不登校
・差別
・格差社会
 
といった問題と、さらにはその延長線上に、
 
・地方創生(地方衰退に歯止め)
・共生社会の実現
・個性、創造性を発揮できる社会の実現
 
なども可能となっていきます。
 
その構想【みらいくらす花びら構想】を実現させていくためのプロジェクトが【みらいくらす花びらプロジェクト】です。
 
それでは、その【みらいくらす花びら構想/プロジェクト】についてお話してまいりましょう。



2章 アイデア浮上の経緯
 
●無縁社会、団地内の孤独死、いのちの電話・・・
 
このアイデアが浮かびまとまっていく切っ掛けとなったのは、団地内での孤独死の報道と【いのちの電話】のスタッフのなり手が減っているといったニュースを目にしたことでした。そこから、それらに関して考えを巡らせていった挙げ句に浮かんできたことを整理していく中でその輪郭が見えてきたのでした。
 
そして、そのアイデアが最初に浮かんだ直後に、その内容に不思議にピタリと一致するとある番組をネットで偶然にも目にしたのでした。
 
ここ数年、ある時期以降、こういった、いわゆる【シンクロ現象】とは一線を画した近年自身が【超シンクロ現象】と名付けた現象が私自身において多く生じてきているのですが、そのような現象が生じる時には、それを進めると、驚くほどにとんとんとうまく進んでいくのが経験則からわかっていたので、これは、この構想を進めていけば、恐らくうまく進んでいくはずだと思えたのでした。
 
さて、その切っ掛けとなった団地内の孤独死について、当時私はその報道を見て、問題意識が強く刺激され、そこでの取り組みに対して、「そんな実態とそんな取り組みがあるのか」とそのような取り組みを知り、多少なり希望の念を抱きながらも、同時に本当にそれでこれらの問題が本当に解決するだろうか?と、私なりにそれらの問題について掘り探って考えてみたのでした。
 
とある団地に住んでいた方が、団地内のご自分の部屋にて誰にも看取られずに亡くなられ、そして、死後しばらく後に発見されたという出来事です。
 
そして、最近はそういう、いわゆる【孤独死】とか【孤立死】といわれるケースが非常に増えているというのです。
 
昨今、無縁社会という言葉が生まれるなど、今までよりも、地域社会の人間関係が希薄になり、また、会社なども従来の日本的な家族的経営が影を潜め、職場における人間関係も希薄となり、退社や或いは転居などを切っ掛けに人との関係が途絶えてしまうような方も増えているというのです。
 
どちらかというと男性であるほど、寡黙で人間関係を築くのもあまり得意ではなかったりするので、そういう傾向が強くなるとも言えます。
 
それで、その報道のケースでは、団地内の有志が対策を練って、何か困りごとなど相談窓口的に訪ねてきてもらえるような部屋を用意したり、担当者が定期的に訪ねて声を掛けたりなどをしている様子が伝えられていたのでした。
 
「確かに、この時代、人間関係がどんどん希薄になっていることは百も承知だけど、普通に真面目に生きているような人たちが、そういう結末の予備群のような立場に立たされていたりしている・・・何かやり切れない思いになる・・・」そう思ったのでした。
 
そして、
「でも、こうして、そういった出来事から、その対策に動き出した人たちはとても素晴らしい。その気持ちと行動が少しでも報われて良い結果に繋がっていけばいいな・・・」
とも思いました。
 
しかしながら、また、こうも思ったのでした。
 
「とはいえ、こういった方法で本当にこれらの問題が解決するのだろうか? 訪ねてくる部屋を用意しても、人によっては、そもそもが人付き合いが苦手であったなら、そういう所に自ら進んで相談しにいこうと足を運ぶところまでに至らない人も結構いるだろうし・・・ケアされる立場の人が、例えば見つかった仕事とかの関係で仮に引っ越すことになったとしたら、その引っ越し先でも、同じような体制があるとは限らないし、いや、むしろない可能性の方が高いともいえないか?・・・」
 
そうこう考えていくと、この問題は、まだまだこの社会において、十分なサポート体制が整えられているとは、とても言い切れない状況だと改めて強く感じさせられることになったのでした。
 
 
 
同じ頃、ネット上で、あるニュースを目にしました。それは、【いのちの電話】の電話サポートのスタッフのなり手がここ近年、減っているといった内容のニュースでした。

 
 

【いのちの電話】のスタッフは、ある程度の期間の研修を受けて、晴れてスタッフとなり、無償で、決まった時間枠内に、かかってくる電話に応対し、自殺したいと悩んでいる人の話を聞いて、自殺を思いとどまらせたり、抱えている悩みに答えたり、勇気付けたり、励ましたり、力になってあげる、とても尊い取り組みなのですが、研修期間が半年と長かったり、電話を受ける時間の拘束がかなり大変だったりといろいろあるようで、なり手が減ってしまっているようなのでした。
 
これについても、いろいろ考えさせられました。
 
「では、どうしたらいいのだろう?」と。
 
そして、【孤独死】対策に対してと同様に、
 
「果たして、この取り組みが、そういった自殺をなくすことに対して、どこまで力があり、また、この取り組みではどうしても漏れてしまう部分があるように思えるのだが、それらをカバーするにはいったいどうしたらよいのだろうか?・・・」と。
 
例えば、もしその時一旦気持ちが治まっても、また少ししたら同じような状況が訪れる可能性は決して低くはないと思うが、そういった時に、相手待ちとなってしまうだろうし、もし、その最初の電話が、相当勇気を振り絞ってかけていたとしたら、次の時に再びかけてくるかもわからないし、仮にかけてきたとして、二回目に電話を受ける人は同じ人になる保証は全くないので、別な人が電話を受けて、そこで一から状況を話していかないといけないとすると、それも結構大変だと思ったのでした。
 
そして、一つ目の中で触れたように、電話を自らが主体的にかけてくる人に対する対応となるので、悩み苦しみながらも、そういった状況下の人全てが皆電話をかけてくるわけではないので、それ以外で何らかのケアやサポートを受けられていたらよいのですが、それができずに一人で悩み抜いている人ももっと多くいるだろうと考えられるのです。そういった漏れている人たちをカバーするにはどうすればよいのか?を考える必要があると思えたのでした。
 
もちろん、何もしないでいる状況と比べたとしたなら、それらの取り組みは、これまで、現にいくつもの命を救う力となってきたことがあったであろうことを考えると、とても価値のある素晴らしいことであることに違いはありません。
 
しかしながら、もしも、もっとよい取り組みが考えられるとしたなら、少しでも、問題が限りなくゼロになるような取り組みとして進めていけることがあるとするなら、それを見つけ出して、進めたいと思うのは人の性(さが)だと思います。
 
そして、更に言えば、自殺しようとする人の気持ちを癒し、解決策を与えて、回避していく取り組みと共に、そもそもそういった自殺したくなる状況がこの社会からできる限り減っていくような取り組みも同時に必要でもあるわけです。
 
また、自殺しようと考える人が、仮に100人いたら、その背後に、自殺までは考えないまでも、それに近いぐらいの悩みや苦しみを抱えている人が、もっと数多く存在していることが十分考えられます。
 
先に書いた、【孤独死】のケースに話を戻せば、決してそれらが自殺による死ではなかったとしても、そういった【孤独死】や【孤独】、【無縁社会】などの背後にある、この社会において、そのような状況を生みだしてしまう現実に対して、それらを生み出さない社会を創り出していくことも含めて、考えていかねばならないとも思ったのでした。
 
 
●気になる同窓会の不参加者
 
さて、話は少し変わりますが、やはり同じ頃によく考えていたことがあります。考えていたのはその頃だけではありませんが、ある時期からよく時折浮かんでいたことに、こういったことがありました。
 
それは、【クラス会】や【同窓会】についてです。

 
 

私も過去、クラス会、同窓会の誘いを受け、参加したことが何度かありました。
 
そして、そこそこに楽しく過ごした時もあったりしましたが、なんとなく行くこと、参加することに、二の足を踏んでしまうクラス会や同窓会もありました。
 
また、参加して感じたことは、必ずしも全員が来るわけではなく、どちらかというと、ある程度以上うまくやっている人が集まってくるケースが多かったのでした。
 
そして、毎回、大体同じような参加者で埋められるということでした。
 
なので、来る人は来るけど、来ない人は来ない・・・そういうケースが多いと思ったのです。
 
そして、私自身、例えば、クラス会や同窓会といえば、中学(小学校のは中学に含まれて行われる)、高校、大学、とありますが、
 
例えば、高校三年時の一年間が、自分自身に自信をとてつもなく失った一年だったため、そのために非常に暗い一年を過ごしたため、高校の同窓会は、高校三年時のクラスにいい思い出がない、というよりも思い出したくないような嫌な思い出となっているし、暗くなっていたので、当時の多くのクラスメートに自分がどういう人間か理解されてないので・・・といっても私自身、今はどんな人でもうまくやっていける振る舞いが割とできてしまうので、実際は何も問題はないのですが・・・それでも、そういう一度できあがってしまった見方で対される部分が大きいので、わざわざ、今、そこに無理に入り込もうとも思わないし・・・逆にあの一年とは大違いの自分の人生に、いい意味で興味を持ってくれる人がいるなら喜んで話をしたい所ですが、そういう気持ちがない、寛容でない人に敢えて割り込もうとは思わないし、別な見方をすれば、そういう意味では、その時期の先入観を持った人が多い中には行きたい気持ちはあまり起こらないのです。
 
その時、仲良かった友達が多ければ、再会が楽しみでわくわくするでしょうが・・・こう言ったらなんですが、あの時のクラスは、むしろ人間関係的には、とても冷たいものを感じる所が多かったし、むしろ行きたくない気持ちの方が自然な作用に任せれば大きいのです。
 
むしろ高校三年の時は、隣のクラスの方が、2年までに仲良くなった友達が多く移ったので、そちらのクラスに混ぜてもらいたい気持ちもあったぐらいでした。
 
中学の同窓会も以前、数度参加しました。
 
しかし、毎回来るメンバーはある程度決まっていて、来ない人は一度も来ないままだったりします。
 
私は、中学時代は、それでも、割と楽しく過ごせていた方なので、決して同窓会が嫌と言うことはなかったのですが、
 
高校三年の時に、暗くなった経験から、クラス会や同窓会に行きたくない人の気持ちが少なからず、否、結構強烈にわかったりするので、
 
中学のクラス会に来ないメンバーがいつも割と気にかかっていたのでした。
 
むしろ、そういうメンバーに対しての方が気持ちが向かったのでした。
 
来ないメンバーの事情を考えれば、今、あまりパッとせず、人に会わせる顔がないという人もいますし、そのクラスの中で、いい思い出がない人・・・それがいじめられてたというケースもあれば、特定の誰かと人間関係が悪化したので、会いたくない、会いにくい、という人もいたりします。
 
私がもし、高校三年のその暗い一年間がなかったら、クラス会に行きたくないという人の気持ちなど微塵(みじん)もわからなかったかもしれません。
 
そして、そういった事々の理由を聞かされたとしても、「そういうこともあるだろうな」とそのような気持ちをある程度、推測することはできるでしょうが、強い実感を持って理解することはなかったでしょう。
 
そうなると、そういう人たちに対しては、それほど強い気持ちも向かわず、何か特別に会う機会でもなければ、ほとんど日常的に意識することもなく、記憶の遠い遠い片隅に、あるかないか程度にしか存在していなかったことでしょう。
 
また、逆を言えば、高校三年時の私自身が、そういったその当時のクラスメートからすれば、今言ったような、ほとんど意識されることもない遠い遠い片隅にあるかないか程度の存在でしかないのだと言えるのです。
 
だからこそ、中学の同窓会で、来ない人が、それゆえにとても気になってはいたのでした。
 
 
●花が好きなホームレスの方との会話で
 
クラスメートについて思いを巡らせる時に、以前遭遇したある一つの出来事を思い出します。
 
それは、今から十数年前にお会いして話をしたある方との会話に出てきたことでした。
 
十数年前の出来事になりますが、夢うつつに「ホームレスの人には、昨日まで経営者をしていた人もいたりする。いろんな人生を生きてきた人が実はホームレスとして暮らしている現実があるので、そういう人の話を聞いてみるとよい」と誰かに強く促されるように言われた記憶が残っていたそんなとある日、その日出掛けて歩いていった先に、なぜか丁度、隅田川のホームレスのブルーシートの小屋が連なっているような場所にたどり着いていたことがあったのでした。
 
そして、それを目にして、嫌でも、その夢うつつに言われたような話が思い出されてしまったので、「えっ、これは?」と思い、思い切って話を聞いてみることにしたのでした。
 
そして、気になった一人の方がいたので、その人に声をかけてみたのでした。
 
その方は、そのブルーシートの小屋の周辺に沢山、鉢植えの花を飾っていたのでした。
 
それが気になり、よりその人から話を聞いてみたくなり話しかけてみたのでした。
 
その人は、先ほど、元経営者とかがいたりする云々と書きましたが、そういう方ではなく、人のいい人なのですが、人が良すぎて、人間関係で悩んだりして、今はこうしている、という感じだったのでした。
 
そして、その会話の中で、「小学校の友人の名前を今でも全員覚えている」と言われるのでした。
 
このことは、特に私がそういう話題を振ったわけでもなく、その方から、なんとなく出てきた話だったのでした。
 
そのことがなぜか私の心に印象深く残り、そのことを思い出す時に、その話もいつも思い出されたのでした。
 
 
●6日目のシンクロ現象が続いた15年後半のその1つとして誕生
 
さて、浮かんできた、【いじめ】【自殺】【無縁社会】【ひきこもり】【差別】・・・などを解決していく構想・・・
 
それは、2015年8月頃、先述したような、孤独死、無縁社会とそれへの取り組み、いのちの電話を通して知る自殺への取り組み、気になるクラス会に来ないクラスメート・・・そういった事々を目にする中、それらが頭に浮かびつつ、それらについて考えている中で、
 
そういったクラス会に来ないような、行きたくないと思っているようなメンバー、クラスメートが、どこのクラスにも一定数いて、割とそういった人たちの中から、その頃、報道で目にしたような【孤独死】や【無縁社会】といったことにも繋がっていく人間関係の現実があると思われたのでした。
 
その層はある程度、一致する所もあると思えたのでした。
 

 

ということは、そういった人たちをケアし、サポートしていくような取り組みが必要なのではないかと思えたのでした。
 
しかしながら、今のクラス会というのは、どこにおいても、もちろんそれが悪いと言うことでは全くないのですが、どちらかというと、羽振りのいいメンバーが集まって、ワイワイ楽しく過ごして終えていく、というのが通常のパターンであると思えたのでした。
 
ほとんど来ないようなメンバーについては、少し話題になる人もいるかもしれませんが、そこそこで終わってしまい、後は時間と共に忘れ去られていくのが一般的であると予想されます。
 
関係の薄い人ほど、全く話題にも上らず終わってしまうでしょう。
 
それはある程度は仕方のないことかもしれません。
 
とはいえ、当時のクラス委員であったり、担任の先生にあっては、せめて、全員を意識してもらえてると信じたいものではあります。
 
そんな中で、2015年8月に、浮かんできたのは、そういったなかなか来なかったり、連絡が付かなくなっていたり、音信不通だったりするメンバーなどをケアしていく委員を決めて、ケアしていくような、そんな取り組みとして最初に浮かんできたのでした。
 
その前年の2014年に、【みらいすくーる莟】と【みらいすてーじ花】、という学びと表現の場を構築していく構想が生じ始めたのですが、
 


このクラスメートのケアの構想に対しては、【みらいくらす花びら】すなわち、クラスの一人一人を花びら一枚一枚に例えたなら、一つの花(一つのクラス)というものは、すべての花びらが一枚残らず全部揃った時に初めて綺麗な一つの花になるのであって、一枚でも足りないと、不格好になってしまうものなので、そういう意味合いを込めて、【みらいくらす花びら構想】と【みらいくらす花びらプロジェクト】と名付けたのでした。
 
 
 
8月の24日のことでした。

 

それから少しずつ考えを煮詰めたり、膨らましたりしていきました。
 
すると、割とまもなく、特に探したわけでもないのに、ふとある似たようなものを目にしたのでした。
 
ネットである番組が目に入ったのでした。
 
その番組は、【あいつ今何してる?】というタイトルで、芸能人や有名人のしばらく会ってない学生時代の友達をスタッフが探して取材してきてその映像を流したり、場合によってはスタジオに呼んで再会を果たしたりもする番組だったのでした。
 
その番組の始まったばかりのものを目にしたのでした。しかも、それはまだ特番のような段階だった時期で、調べると私が目にした回は、固定枠で番組化されてスタートした回よりも前に放映されていた回でした。
 
それを目にしたのでした。
 

 
その時、その出演者は、「この企画は凄く面白い!」と絶賛し、喜んでいたのでした(ちなみにお笑い芸人「アンガールズ」の田中卓志さんです)。
 
クラスメートをケアする取り組みのアイデアが生じてまもなくの出来事だったのでした。
 
そんなシンクロする出来事もあったので、尚更この構想は意味あるものだと感じられたので、いろいろな角度からとらえて、考えや内容を更に煮詰め、まとめていったのでした。
 
 
●座間殺人事件
 
そして、一年ほど過ぎた2016年の途中から、自身が主催していたプロジェクトが、約一年間のさなぎのような次への準備期間を超えて再び動き始めたのですが、この【花びらプロジェクト】に関しては、その説明が簡単にはしにくいのもあって、なかなか話をする機会が持てずにしばらく過ぎていきました。
 
そして、2017年秋に、4年振りとなるホールでのイベントを開催させていただきましたが、【花びらプロジェクト】に関して話をする時間の余裕もなく、また、まだまだ簡潔に伝えられる所まで至っておらず、そのイベント内でも、全く触れることなく終わったのでした。
 
しかしながら、【花びらプロジェクト】は、当時立て続けに起こった4度の超シンクロ現象の一つでもあり、意味合いとしてはとても重要なものだという認識は当然あったので、本当は早く伝えていきたい、進めていきたいという思いが強くあったのでした。
 
そんな折、2017年秋のWIF2017(World Innovation Forum 2017)が終わって、ホッと一息ついた頃に、ある事件が、そのイベント開催直前に起こっていたのを知ったのでした。イベントの準備で追われて、ニュースさえも見ている余裕も全くなかったので、数日経って初めてその大きな事件のことを知ったのでした。
それは、2017年10月末に起こった座間殺人事件でした。
 
そして、【いのちの電話】に電話が殺到しているという記事も目にしたのでした。
 
とても気になり、いろいろと関連する記事などを読んだりしました。
 
そして、その事件に対しての対策についての報道も目にしました。
 
具体的には、まず、SNS(twitter)を通じて自殺願望者が集められたということでもあったので、SNSに対して規制をかけていくという政府の対応の報道を目にしました。
 
また、学生に被害者を出した(自殺願望で集められて殺された)大学においては、カウンセラーを増員するといったことが発表されました。
 
それらの対応は、少しでも同様の問題が起きないようにするために必要な措置と思われるので、歓迎すべき対応と思います。
 
しかしながら、先ほども書いたように、本当にそれで解決になるのだろうか?という思いが湧いて仕方なかったのでした。
 
言い方は悪いかもしれませんが、付け焼き刃の対応にも思えて仕方がなかったのです。
 
その対策で漏れてしまう多くの世に潜在している、ややもするとそのような事件に巻き込まれかねない予備群たる、心に闇を背負った方たちの心のケアは十分になされるだろうか?
 
そう考える時、とてつもないやるせなさを覚え、そういう事件などを目にする度に「やっぱり、こうでもしないと、それらの問題は解決できないよ」と、自身に与えられた解決法がいつも脳裏に浮かんできて、早くこのアイデアをわかるようにして伝えていかないと、と思わされるのでした。
 
 
それは、今、この原稿を書いているタイミングでも、川崎事件、登戸事件と、同様の凄惨な事件が相次ぎ、この社会の不安を増大させており、即ちそれは、座間事件以降も、それらの問題が全くの未解決のままであり、メディアでの報道を見る限りでも、それらに対して、どんな学者も評論家も政治家も、誰も明確な解決の道筋を示せていないということを知るばかりなのです。


3章以降へ続く
 
 
 
 
 
 
 

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