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社会的孤立対策素案《みらいくらす花びら構想》❷

3章 みらいくらす花びら物語
 
●みらいくらす花びら物語
 
さて、ここで、一つの短い物語を【みらいくらす花びら物語】として紹介致します。
 
ここでお伝えしようとしている構想への理解を少しでも深めるものになればと、現実にあった話を盛り込みながら簡単にストーリー化したものです。


【【【 みらいくらす花びら物語 】】】
※大変申し訳ありません。著作権などの関係で、ここの部分は、ここでは割愛させていただきます。(何らかでお伝えできる機会ができますよう検討して参ります)


皆さん、何を感じられましたか?
 
この度、提案させていただくプロジェクト、構想が部分的に盛り込まれたお話でした。
 
既に前章で言及しているように、人数にして約30人前後と思われる【クラス会】の現実は、今の社会を切り取った縮図に近いのではないかとも言えます。
 
そして、その中の【クラス会】に参加しないような立場の方々の中に、卒業後、人生の紆余曲折を経て、その内面、心を磨き育み、その陰で心の闇を抱え、真面目に生きていながらも何かが足りずに負の連鎖の中に足を奪われてしまい苦しみ続けているようなそういう立場の人たちをより理解し、力となり助けてあげることができる、そういうような人たちが年月を経て生まれ存在している可能性が十分にあるのです。(現にここ近年、そういう候補となりうる人たちとの接点を割と多く持ってきていました)
 
それらの方同士がうまくマッチングされていったならば、それこそが【クラス】の本来の力を真に発揮するよい関係性となるのではないかなどとも思えたのです。
 
今の社会では、勝ち組とでもいうような、格差の上部に位置した層の人たちが、世の中をリードしていますが、
 
それこそ、【クラス会の現実】を投影したかのように、どちらかというと羽振りのいいようなタイプのクラスメートだけで【クラス会】が盛り上がって終わっていくのと似たような構図で、もちろん一概にそうと言い切れない部分もあるかもしれませんが、どちらかというとそのような層の人たちが、社会からこぼれ落ちているような層に対して、半ば他人事のような扱いで、無関心、距離を置くなど、冷たく対応してきているような現実と重なるのです。
 
この物語の中で、先生が久し振りの同窓会で放った一言(実際にあった発言です)は、当人としては何ら悪気もなかったのでしょうが、それは、ある元大臣の肩書きを持つ国会議員が、女性に対して、無神経、無配慮に、「三人子供を産んでほしい」と言ったのと同様であって、
その人の中で、悪気はなかったとしても、そういう思いが当たり前のように染み着いてしまっている現れでもあるのです。
 
そのような思いの人が指導する立場に立っている世の中は、弱者にとって本当に生き辛い世の中を生み出しているということを知ってほしい気持ちです。
 
それは、先生にあっても、クラスの委員にあっても、同様であり、これまでの世の中のリーダー、指導層は、強い人たちが選ばれ、社会を回してきました。
 
ところが残念ながら、できあがった社会は、弱者層にとっては排斥、疎外された辛い社会です。
しかし今やそういった振る舞いがしっぺ返しを与えるかのように、社会全体にダメージを与え始め、無視できない状況にまで広がってきてしまっているのです。
 
 
これからは、弱き者を含む全員に対して差別なくその気持ちを理解し、対していける、そんな心を育んだ人たちがリードしていく社会となっていくことがより望まれるのです。
 
そういう意味でも、新たなるクラスのあり方、関係性を提示するようなこれらの構想は、新しい時代の雛(ひな)形になりうるものでもあるのです。
 
人生の紆余曲折を経て、心を育んだ者が、新しい時代を水面下で担い、生み出して、リードしていくのです。
 


 4章 世間を騒がせた事件への対応と問題点
 
●事件への対応と問題点
 
ここでお伝えしようとしている構想が生まれる切っ掛けにもなった孤独死や、その後、再びこの構想を早く伝えなければと強く思わされた座間事件などへの対応を見ながら感じた、そういった事の背後に横たわる社会の現状や問題点などについて、思いつくままに書いてみたいと思います。
 
●孤独死
 
孤独死とその対応について、私がその時に目にした団地における対応が抱える課題、問題点は、まず、そのような孤立したような立場にある者全員が網羅される取り組みになってないということです。(もちろん取り組み自体とても素晴らしいことであることは改めて言うまでもありませんが、問題の更なる解決に向けて、より厳しい見方をしていけばということです。)
 
自ら一歩踏み出す力を有しているような方に対しては機能しても、そうでない人は気付かれずに終わってしまう可能性が高いと言えるのです。
 
これは、いのちの電話に対しても同様のことが言えると思えました。(これも、いのちの電話そのものはとても価値ある取り組みをしてきていることは百も承知の上で、やはり問題の更なる解決に向け、より厳しい見方をしていけばということです。以下、すべての取り組みに対して、このような表記が抜けていたとしても同様の見解であることをご理解ください。)
 
●座間事件
 
また、座間事件への対応としての、ツイッターの利用上における何らかの規制措置や、大学内のカウンセラーの増員についても同様の課題は残ったままといえます。
 
さらには、その対象となっている方が、仮に何らかの事情で転居などした場合には、そこで対応が切れてしまうということにもなりますし、大学内のカウンセラーにおいても、では卒業後は引き続いてケアされるかというと、それもその仕組みを考えればそこまではカバーしないと言えます。
 
団地内の孤独死は、病死や自然死のケースだと思いますし、それに対して座間事件の方は、自殺や自殺の幇(ほう)助ということになってくるので、その種類が違ってきますが、その背後にある問題としては、共通項があり、その一つには【無縁社会】と言われるようにもなった希薄な人間関係によるところがあります。
 
必要な人間関係が最小限そこにあったなら、それらの事件の多くは回避できていたかもしれません。
 
こういったことごとをつぶさに見ていくと、いくつかの共通する課題が見えてきます。
 
そして、それらの課題をいかにして解決させていくかを真剣に考えていった時に、ある新たな切り口による全く新しい解決法が見えてくるのでした。
 
 
●若年者の自殺対策のあり方に関する報告書から
 
また、その後、様々に必要な情報に触れながら、それらの新たな解決法の有効性の確認作業なども進めていく中、
 
国内の若者の自殺などに関しての実態の把握と分析に関しては、
 
例えば、平成27年3月に【(独)国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所 自殺予防総合対策センター】から【若年者の自殺対策のあり方に関する報告書】がまとめられており、その調査、分析は、その時点でかなりこれまでになかったレベルで科学的な観点から多角的に検討したとのことで、
「若年者の自殺に関して現在までにわかっていることを整理したもの」
「わが国における若年者の自殺に関する現状と課題を学際的に明らかにした最初の報告書として意義あるもの」
そして、
「今後、この領域に関する研究の発展に資する、叩き台となることを願う」とも記されておりましたので、参考に拝読させていただきました。
(とても参考になりましたので、ここにその報告書名を記しておきたいと思います。)
 
そして、それらも踏まえて見てみた時に、
 
学校での挫折や、その後の社会生活での挫折などが、負のループを生み出しやすく、そこからなかなか復帰できにくい現実。
 
や、取り組みとして、
 
全世代への必要な働きかけ、社会全体での取り組みとしていくことの重要性。
 
や、
 
繋がり方の度合い、関係性、普段の安心感のあるゆるやかな関係性と、状況により親身に相談できる関係性の必要性。
 
などについて、改めて認識を強くさせられ、かつ、提示していかんとするアイデアに関し、より強い確信と大きな意義を見いだしていくことになった次第であります。
 
●ある市のいじめ隠蔽事件
 
2015年に、茨城県取手市の中学校の女子生徒がいじめを苦にして自殺する出来事がありました。
しかしながら、その自殺の背後にいじめがあったことが当初、隠蔽されてしまっていたのでした。
取手市の教育委員会の調査では、いじめはなかったとして報告されたのでした。しかしながら、そのことに納得できなかった遺族らが、県に調査を求めたところ、県の調査によって、2018年になって初めていじめがあったことが確認され謝罪がなされたのでした。しかも取手市の教育委員会の提出書類は、幹部の人たちにとって不都合な書類を隠蔽し、誤魔化そうとさえしていたことも明るみになったのでした。
 
これが、いじめを取り巻く、本来いじめを回避すべく子供たちに自らが範となって指導していくべく大人たちの対応の悲しき現実なのです。
 
●市のピラミッドの構図
 
取手市のような自治体に限ったことではありませんが、今の世の中は、そのほとんどが、ピラミッド構造をなしていて、それらが幾重にも複雑に絡み合って社会が形成されています。
 
一度、ピラミッドの上層部や頂上に位置したなら、その居心地や眺望の良さから、簡単にそこから降りたくなくなり、多くがその立場の維持に躍起になります。
 
前述したいじめによる自殺の事件に対する対応も、そういう社会の歪みが、この事件の真相解明や解決の道を閉ざしてしまってもいるのです。
 
担任の先生自らが、その生徒へのいじめに加担していながら、それらを隠し、自らの保身を優先したのです。
 
また、その調査においても、立場ある人が自身に不都合な情報を隠すなど、やはり同様に保身による対応がなされていったのでした。
 
地位が高い人ほど、その立場に固執するようになるし、そのためにその立場を利用するなどして、自分に不利な情報を隠したりして身を守ろうとします。
 
これまでに、果たしてどれだけ多くの人たちが、そのような人たちの悪質な行動の陰に、事実や真実を隠蔽されてしまい、辛い思いをさせられてきたことでしょう。
 
本来、ピラミッドのトップに立つ人ほど、より謙虚になり、より潔く振る舞うことが求められるはずですが、現にそのようにはなっていません。
 
構造としては、そのようなピラミッド構造を築き、上に立つほどに、謙虚さを失い、その地位の保身に躍起になり、権力を濫用する現実が悲しいかな跋扈(ばっこ)しているのです。
 
●格差固定社会、抜け出せない構図
 
さて、昨今はこのようなピラミッド構造の格差社会が益々顕著になり、より格差が広がってしまっている様相を呈しています。
 
そして、次図のように、一旦、何かを切っ掛けにその一定の範囲内から逸脱してしまうと、そこから簡単には元の流れの中に戻るのがとても難しくなってしまっているのが今の社会の実状なのであります。
 


まさに格差固定社会となってしまっており、下の層に位置する人の数が日に日に増えているのが今日の社会の実態なのです。
 
一度、下の層に降りて(落ちて)しまうと、なかなか這い上がることができません。
 
その切っ掛けは、退職や失業だったり、離婚だったり、或いは学校や職場でのいじめであったり親の介護であったりと様々ではありますが、そのようにして、引きこもるようにもなったり、社会から孤立化、無縁化していくケースも多いのです。
 
そして、そのような立場に置かれた人たちは、なかなかそこから抜け出すことが難しくなってしまうのです。
 
●PTSD体験
 
私自身の例で言うと、以前、とある方がその地位や立場を背景に、私を不当に抑圧していた時期がありました。
 
但し、パワハラというものは、その多くがしている当人の自覚がないという現実がありますので、このケースに関してもその方自身には自覚はなかったものと見られます。そして、それゆえに、これらの問題をより厄介なものにさせてしまっているのです。
 
そして、その不当な抑圧、いわゆるパワハラ的な出来事は、別に毎日顔を突き合わせていたわけではないし、会う度に強烈なパワハラをされたというわけでは決してありませんでした。その方自身の築いたと思われる何かを本人が勝手に浸食されると感じたような際に、とりわけ強烈な一撃を浴びせてくることがあったのです。
 
全くそのような考えも気持ちもないにも関わらず、何かしらのやり取りの中でそう悪くとらえられてしまったなら、その勝手な想像力の被害者にされてしまうのでした。
 
そして、それが仮に年に一度あるかないかだったとしても、数年に一度とかで強烈な振る舞いに遭遇したなら、それがいつしかトラウマにもなるわけです。
 
現に私自身、気が付くとある時期からそのような心理状態に追い込まれている自分を知ることとなったのでした。
 
ある一定の状況下に置かれた際に、無意識下に恐れが生じ、顔が強ばってしまうのでした。なので、今度は意識的にそういう辛さから逃れたいという気持ちが強くなってしまいもするのです。
 
しかしながら、それをしていては、社会生活に悪影響を及ぼしかねません。
 
そんな中で生きていくことは、私自身にとっても非常に葛藤を伴うものだったのでした。
 
それにより現に大切な人間関係を壊してしまったり、大切な機会を損ねてしまったことも多くあったのでした。
 
そして、その方を過去知っていた人たちにとっては、そのような態度を、ある状況下で取るとはいっても、それを受けるのは、ごくごく限られたケースであって、そのような話をしたとしても意外にさえ思われてしまうので、なかなか理解を得ることも難しかったりするのです。
 
別にその方を憎んだり、嫌ったりして言っているのではありません。
 
また、今、思えば、そのような体験は実に貴重な体験であったとも言えます。
 
その症状をより強く有し、発していた頃の自分のケースが、精神医学上のPTSD(心的外傷後ストレス傷害)に少し近いものがあるのではないかと感じていたりします。その分類には実際には該当しないかもしれませんが、その体験によって、似たような症状や経験をしていたりする人の気持ちが僅かながらでもわかってあげることができると感じられるからです。
 
そして、このように権力を持った層の人たちがその力を背景に横暴な振る舞いをする現実が、今の世の中には未だ数多くあって、多くの被害者を輩出してしまっているのです。
 
このような関わり合い、関係性にあっては、完全に自分が支配者で、相手は家来か召使いのような存在にさえとらえてしまっているのです。
 
自分の意にそぐわない者やそういった意見は、相手が弱者の立場の者であればあるほど、力(権力)で押さえつけたり排除するのです。
 
このような人間関係が、社会全体に拡大した姿が、今日の格差固定社会であるようにも感じられます。
 
抑圧するほどの振る舞いを日常的に権力者や上位の層の人たちがしているわけでは決してないのですが、それでも無言のまま、まるでそういった圧力をかけているかのように、社会の仕組みが構築されてしまっていて、一旦、ある一定以下の層に落ちてしまうと、そこからはなかなか抜け出せなくなっている、そのような構図が現にあるのです。
 
●ホームレス事例
 
そういったこともあってか、社会から逸脱したような人に対して、なかなか普通の人たちは積極的に声をかけたり、手を差し伸べたりすることが心理的にもできにくくなってもいます。
 
前述した中で、ホームレスの方の話を聞いたことがあったことを書きましたが、その時、いざ話をかけるという段階になった際に、一瞬、私自身の中で、凄く抵抗感が働いて、そのことを躊躇(ちゅうちょ)する自分がいました。
 
その際に、頭や口では、どの人も差別しないでいくべき、などと考えていながらも、いざその場面になると、ホームレスの方と関わりを持つことに対してためらう自分がいたことを知って、差別する心がそこに存在していたことを感じたのでした。
 
しかしながら、そのように葛藤しながら歩いていった果てに、花の植木鉢が沢山置いてあるホームレスの方を目にして、どうしても声をかけねばと思わされ・・・で、その結果、意外にも、そのホームレスの方の優しく暖かい人間性と、学生時代のクラスメートを皆、覚えているというその言葉が私自身の心に強く印象付けられることになってその時間を終えたのでした。
 
そんな体験があったことも手伝って、その6年後に、【みらいくらす花びら構想】が生まれたわけですが、
 
今、書いたように、ホームレスという立場の方と接触するということが、一般には勇気をも伴うようなことであると言えるほどに、その立場の間の距離はとても大きなものが生じていると言えます。
 
しかしながら、現代はそのような立場にいつ立たされることになるかわからない時代とも言えるのです。
 
明日は我が身でもあるのです。
 
そして、実際に、つい昨日まで立派にスーツ姿で事業を営んでいたような人が、そのように一転ホームレスとなってしまっているケースも多くあったりするというのです。
 
では、そのように例えば、ホームレスになった人に気安く話しかけて友達付き合いを普通にしていこうという人があるでしょうか?
 
同じホームレス同士で、必要な交流などはするでしょうが、現実には、そういう立場でもなければ通常は目線も合わせずに通り過ぎていくことでしょう。
 
今から数年前の深夜に、たまたま仕事場の近くを歩いていた時、近くの神社の階段付近に、女性の方が座っている姿を目にしました。
 
冬でもあり、何か着込んでいるようには見えたものの、こんな遅い時間にしゃがみこんでいるのが、気にはなりました。
 
なんとなく、ホームレス風に見えたりしたのですが、薄暗くてはっきりはわかりませんでした。
 
ひょっとしたら散歩の途中でただ座って休憩していただけかもしれないし、よくわからず、私自身も用事があったので、歩いて横を通り過ぎていきました。
 
しかし、この時、すぐ後に、その場面を振り返ってこう思ったのでした。
 
これがもし、昔の学生時代のクラスメートだとわかっていたとしたら、そうではない時よりも、格段に声をかけやすいだろうなと思ったのです。
 
もちろん、その時の関係によるところもあろうかとは思いますが、もし、例えば、学生時代の名簿などを目にした時に、「何々さんはどうしてるんだろう?」などと時折思い出しているような人が、仮にもし、そういうホームレスになって、近くにたまたまいて、目にしたとしたら、全く過去に面識のない同じホームレスの人よりも、声をかけることに対するブレーキはとても小さいはずだと思えたのでした。
 
ここではあくまでもホームレスを例に挙げていますが、社会から閉ざされたような立場に立たされてしまった人などであっても、それでも関係性によるとはいえ、元々のクラスメートであったなら、より気になって声をかけられるということはありうるだろうと思えたのでした。
 
話は再び遡(さかのぼ)って、2009年にホームレスの方に声をかけたほぼ同じ時期(2日前)に、同様に、僧侶の方の話を聞いてみるべしといった感じで、夢うつつに誰かに強く促されるようなことがあって、それで、浅草近くのあるお寺を訪ねてみたのですが、その際に、門前払い的な扱いを受けてしまったことがありました。
 
相手に失礼のないように、丁寧に頭を下げ、きちんと挨拶をしながら、時間を取らせないように配慮した形で、5分ほどでよいので、もし可能でしたら、こちらでは何を大事なこととしてお伝えしてらっしゃるのか、参考にしたいので簡単にで結構ですのでお話をお聞かせいただけませんでしょうか?と尋ねたのでした。
 
しかし、返ってきた答えは「そんなもんは、自分で探すもんだ!」と素っ気なく突き放すような返事で、それ以上おっしゃってはくれず、ほぼ門前払いとなったのです。
 
私は唖然としました。「えっ、僧侶の方がこんな対応をするんだ?」とそう思いました。
 
仮に、私の態度に多少不十分なところがあったとしても、逆に私を諭(さと)して、何か一つでも浮かんでくる必要な言葉を投げかけて帰ってもらうべきではないのかと思ったのでした。「自分で探すもんだ」と言われましたが、探してる中で何かヒントをもらおうとお寺を訪ねることはいくらでもあるのではないのでしょうか?
 
「ここは、そういうところではないの?」
そう思ったのでした。
 
この時期にたまたま出会った対照的な立場の二人のお方・・・片や社会の底辺層とも言えるホームレスの方、片や社会の中で聖職者とも言われる高い位置に属されるお寺の住職さん・・・このお二方の対応が、蓋を開けてみたら真逆で、ホームレスの方は、心優しく対応してくださり、また、テレビの取材時に嘘を付かれたことも話してましたが、とても純粋な気持ちで、純粋すぎて人が良すぎてうまくやっていけないような方でもありました。逆に、僧侶の方は、高邁な態度で、冷たい対応だったのでした。
 
このことは何を物語っているのでしょうか?
何を伝えたかったのでしょうか?
 
●波動は逆だった (愛ボールearth2055)
 
格差(固定)社会に関して少しだけ触れたりもしましたが、ピラミッド型組織やピラミッド型社会ができると、上の立場、地位を得るほどに、人は驕(おご)りが出てきてしまいがちです。
 
私が、やはり2014年に夢うつつで見せられ、この後、流れがうまく生じた暁には、映画化を検討してもいる【愛ボールearth2055】という物語の中で、宇宙からの使者が持ってきた波動測定ビームで計測すると、心(愛)の波動の高さが、地球代表の各国首脳の波動ほど劣悪で、名もない善良な市民、路上で歌を歌っていた少女の歌や子供たちのハートほど高かったという話を盛り込んでいるのですが、
 
それと同じように、現実にそういうことがあるということを知らされたのでした。
 
私たちは、いつ明日は我が身となるかわからない競争を強いられた果ての格差社会と、更にそこから生じ広がる格差固定社会の狭間にいて、あたかも、外れた人たちが「悪く」て、上り詰めた人が「勝者」であるかのような見方をしてしまいがちですが、案外、心の中はわからないものだということを、そして、苦しい立場に置かれた人たちの中に、純粋な心を持った人たちも多くいるということを、むしろ純粋ゆえに、この社会で他者を蹴落とすかのように戦って上り詰めるとか、人に無理に合わせて本心を誤魔化して地位や権力に媚びて上り詰めたり、そのように心を偽って無理に合わせて必要な立場を維持することなどができずに、やや追いやられたような立場に立たされてしまったような人もいるということを知る必要があると思うのです。
 


 5章以降へ続く
 
 
 

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