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美しさのこと

昨日は、昨年の順位戦C1▲青嶋―△船江戦を並べていました。
ミニサイズの盤駒ではなく、久しぶりに通常サイズの盤駒を使ったのですがぐっと集中できました。盤に吸われるような感覚と言えば伝わるでしょうか。棋譜並べって楽しいですね。すごく幸せでした。

たまにこのnoteに簡単な文章を書けたらいいなと思っていましたが、日々あふれてくるので、集中してたくさん書いていました。まとめるために「ミライの将トレ周辺」というマガジンも作りました。自分はとても疲れていて、なんでもいいから何かを書き出すことでその疲労を捨てようとする心の動きを感じていました。捨て方は人それぞれ違うと思いますが、自分の場合は、自分の内側でゆっくり文章を動かすことで何かを発散できるようです。

忙しくてなかなかミライの将トレができなかった日々を埋めることに決めて、#まいにち青嶋 も始めて、自分がいろいろな気持ちを持っていたことをすぐに思い出しました。身につけた知識が少しずつ自分の中でつながっていく感触や、対局の翌日に答え合わせをするように棋譜ノートの更新を待っていたことや、棋譜並べをしすぎて心の一部分が先生のところにあるような錯覚を起こしていたこと。もしかしたら、自分にとってとても大事な気持ちを失うところだったのかもしれません。
自分の気持ちは決して自然に続くものではないため、自分で守らなくてはならないのです。

唐突ですが、読むと必ず青嶋先生のことを思い出す短歌があるので、その短歌を紹介します。
(短歌とは、57577の形を持った小さな詩のことです。)

美しさのことを言えって冬の日の輝く針を差し出している

堂園昌彦歌集『やがて秋茄子へと至る』より

冬の日というのは冷たくて、すべてが心底澄んでいるように感じられます。そこで輝く針のことを思ってみます。
何かを傷つけるつもりもないのにただ尖っていて、きっと光を映していて、こちらが角度を変えるとびっくりするくらい儚くなったりするのでしょう。
こうしてその針を思う時、私は青嶋先生を見ている時と同じ気持ちになります。
美しさのことを言えと言われたら私は先生のことを言います。
だからこの短歌は、先生のような短歌だなあといつも思います。

私自身には決定的な醜さがあり(それは今まで生きてきてひとりにしか話したことがなく、おそらくもう二度と誰にも話さないと思う)人生の早い段階でそれを自覚してからはずっと他者の持つ美しさに憧れてきました。
美しさとは、すぐ目の前を残像になるほど何度も何度もかすめていったり、響きすぎて耳鳴りを起こしたり、濃すぎて肌に色うつりすることはあっても、絶対に自分自身のものにはならない何かです。
そして将棋も棋士も、自分にとっては美しさそのものです。

10代、20代の頃の憧れには嫉妬が強く癒着しており、そこを引きはがせたのは30代になってからでした。だから、将棋を知ったのが子供の頃じゃなくてよかったと何度も思いました。子供の頃に出会っていたら、生きのびる過程できっと好きも憧れも自分自身の嫉妬の手で潰してしまっていたはずだから、本当に今で良かったと何度も何度も思いました。
タイミングを守れたのだから、この憧れはきっと大事にできるはずだし、大事にしなくてはならないと思っています。

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