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人民元の「ドルペッグ制」がドル基軸通貨体制を支えていた

20世紀の世界史的な事件の一つに中国の改革解放経済が挙げられるでしょう。共産国である中国が市場経済を取り入れた大事件です。

改革開放前の「計画貿易」の下では、政府が国営貿易会社を通じてすべての貿易を行っていました。また、外貨は政府が集中管理していたため、貿易に際して人民元と外貨が交換されることはありませんでした。この時期、為替レートとしては、政府が定める「公定レート」がありましたが、外国からの旅行者の両替など一部の為替取引の他は、国営貿易会社の会計や統計作成上の計算尺度などに用いられ、企業の採算性や内外の相対価格に見合ったものではありませんでした。

公定レートは専ら、政治的な理由(「強く安定した人民元=国力の反映」との対外配慮)で決められていたと言われています。

しかし、改革開放政策の下で自主貿易が段階的に拡大されると、企業の採算性や内外の相対価格を反映する為替レートが必要となりました。このため、1981年以降は、自主貿易に適用する市場レートと、計画貿易に適用する公定レートを併用する二重レート制に移行しました。

そして、1994年1月1日に中国はGATT(「関税と貿易に関する一般協定」)への加盟をにらんで、二重為替レート制(「公定レート」と「市場レート」)を廃止し、市場レートに一本化するとともに、対ドルレートを5.8元から8.7元へと約33.3%も引き下げました。

(出典:TRADING ECONOMICS/ドルー人民元為替レート)

為替切り下げの狙いは、経済活性化のための輸出促進でした。その後、このやや行き過ぎた人民元安を調整するために、約5%切り上げられ、1997年には1ドル8.28元となりました。

1994年以降の中国の為替相場は、「管理変動相場制度」と呼ばれています。「変動相場」という用語は使われているものの、その実態は米ドルにリンクした固定相場制(「ドルペッグ制」)でした。

制度上は1ドル8.2765元を中心レートとして、上下0.3%の範囲内で変動できることになっていました。しかし、実際は人民銀行が絶えず市場介入し、元売りドル買いを行っていたため、対ドル相場は、8.2765元付近で全く動かない状態が長く続きました。

市場介入を絶えず行っているため、中国の外貨準備は急速に膨らみ、2005年には8,000億ドルを超えるまでになりました。

(出典:TRADING ECONOMICSのデータを元に筆者作成)

市場介入の結果として、中国に蓄積された巨額のドルは、米国の債券市場(国債と政府機関債)に投資され、ドル相場維持に貢献することとなりました。

改革開放経済において、中国は海外資本と技術を50:50の合弁で導入しました。しかし、そこは中国、資本を貰っても主導権は中国側にあるという状況にしました。

そして、1994年からのドルペッグ制は、ゴールドマンサックスの指導で行わています。二重為替レート制を廃止し、市場レートに一本化するとともに、対ドルレートを5.8元から8.7元へと約33.3%もの引き下げた結果、それまで不適正に高かった中国の物価はその年から一気に下がりました。

(出典:TRADING ECONOMICS/中国インフレ率)

中国は1994年の為替切り下げ、そして物価の低下を契機に、低価格品の輸出と設備投資をけん引車に、その後30年、2桁成長の成長路線に入っていきました。

(出典:TRADING ECONOMICS/中国名目GDP)
(出典:TRADING ECONOMICS/中国GDP成長率)

1994年の中国のGDPは5,643億ドル。当時の日本のGDPは5兆ドル。12億人の中国の経済は、1億2500万人の人口の日本経済の1/10だったのです。

しかし、その後の驚異的な成長によって、2022年の中国のGDPは18兆ドルとなります。実に36倍です。日本は円安もあり、ドルベースでのGDPは縮小し、4.23兆ドルです。中国との差は4.2倍となりました。

この驚異的な成長を支えたのが、1994年以降の人民元のドルペッグ制です。中国が世界と貿易するには、人民元と基軸通貨のドルの安定した交換が必要となります。

1994年は、革命後の人民元が貿易通貨(=国際通貨)のドルと交換できる体制が出来上がった年となりました。これは、米国側の用意周到さがあったと言えます。国際的な信用が無かった人民元をドルペッグにして、1ドル8.28元というレートで貿易ができるようにしました。円では1元11.8円という安さでした。

人民元のレートは一挙に下がり、この年から中国製品は大量に世界に輸出されていきました。

この人民元のドルペッグ制を敷いたのは、投資銀行のゴールドマンサックスです。国家対国家の通貨レートは政府ではなく、外貨の両替商である外為銀行が決めます。政府、中央銀行は目標値を決めるだけです。通貨の売買は外為銀行の担当です。

人民元のドルペッグ制は①人民銀行が買った米ドルを準備通貨(資産)として、②ドルの準備通貨に相当する金額の人民元(負債)を発行する制度です。

日本では、日銀が円国債を買って、円を発行しています。しかし、中国の国債は国際的な信用は高くありませんでした。信用の低い中国国債を買って人民銀行が人民元を発行しても、ユーロ、円と安定した交換はできなかったのです。

このため、改革開放経済の1994年から自国の国債の代わりに、国際的な信用がもっとも高いドルを人民銀行が買い、米ドルを準備通貨(人民元の担保)に人民元を発行しています。これが人民元のドルペッグ制です。

中国がGDP(商品の商取引の純額ー生産額)の成長に沿って人民元の発行を増やすときは、輸出する企業が貿易で得る貿易黒字の結果として中国の銀行に貯まるドルを、人民銀行が人民元を発行して購入し、人民銀行の資産になるドルの外貨準備を増やす必要があります。

こうして、人民銀行は米ドルを購入しています。そして、購入した米ドルを背景に人民元を発行しています。

ドルペッグ制では、ドルと自民元のレートを年間で約2%の変動に抑えるように人民銀行が外為市場に介入しています。人民元のレートがおよそ2%幅より下がった時は、人民銀行がドルを売って自民元を買い、人民元のレートを上げます。

逆に人民元がドルより2%以上上がった時は、人民元を売ってドルを買います。それによって、人民元のレートを下げます。人民元のドルとの交換レートを、為替介入によって一定の幅に調整していくのがドルペッグ制です。

重要なことは、国際金融資本に属する銀行がドルと外貨との売買で世界の外為レートを決めていることです。国際金融では、政府ではなく国際的な両替業務を行うゴールドマンサックスやJPモルガンが政府より上の立ち位置にあります。世界の外貨レートは国際銀行がいくらで買うか、いくらで売るかで決まっています。財務省の意思は入りますが、実際の売買は銀行ネットワークの中の国際銀行が行っているのです。

さらに重要なことは、FRBの株は米国政府の所有ではありません。1913年の設立時から米国と英国の国際銀行(国際金融資本)の資本です。「米政府の資本は入っていない」のです。FRBは12地区の連邦準備銀行で成り立っています。そのもっとも要となるのが、ニューヨーク連銀です。

ニューヨーク連銀は1914年の設立時に20万3053株を発行し、 ナショナル・シティ・バンクが最大の株数3万株を取得。 ファースト・ナショナル・バンクが1万5000株を取得。 チェース・ナショナル・バンクが6000株、 マリーン・ナショナル・バンク・オブ・バッファローが6000株、 ナショナル・バンク・オブ・コマースが2万1000株をそれぞれ取得。

ニューヨーク連邦準備銀行の株を所有するこれらの銀行の株主は、以下の通り。

ロスチャイルド銀行・ロンドン
ロスチャイルド銀行・ベルリン
ラザール・フレール・パリ
イスラエル・モーゼス・シフ銀行・イタリア
ウォーバーグ銀行・アムステルダム
ウォーバーグ銀行・ハンブルク
リーマン・ブラザーズ・ニューヨーク
クーン・ローブ銀行・ニューヨーク
ゴールドマン・サックス・ニューヨーク
チェース・マンハッタン銀行・ニューヨーク

FRB設立時には、ロックフェラー、モルガン、ロスチャイルド一族が関わり、ウィルソン大統領もこれを認めている。基本的に主導を取ったのは、モルガン家と言われています。

米国の二大国際銀行がゴールドマンサックスとJPモルガン・チェースです。この二つの企業から歴代の財務長官が輩出されています。米国の財務省、FRBと国際銀行(国際金融資本)は一体であるとみる方が正しいでしょう。

米英の国際金融資本は成長が確実だった中国に人民元のドルペッグ制を推奨することによって、中国の金融と経済を米ドル経済に組み込んだのです。

中国のGDPと共に増加する成長マネーが米銀の預金として増えていく仕組みです。

中国が対外輸出を増やすには、ドルが必要となります。そのため、中国はドルを購入します。結果、ドルは米国の還流していきます。経済規模が大きくなる中国は、貿易はドルですが、国内は人民元です。そのため、人民元を発行しなければなりません。国際金融資本が人民元とドルをペッグさせて結果として、中国経済の拡大をドルに取り込むことに成功したのです。

貿易赤字の米国がいくら多くのドルを海外に発行しても、貿易に利用される通貨がドルであれば、中国はどの国との貿易であってもドルを受け取ることとなり、中国の銀行にドルが貯まります。結果として巨額に貯まるドルの行く先は米国債の購入となります。結果として、米国の経常収支が赤字であってもドルは米国に還流してくるため、米国は赤字を気にする必要がなくなったのです。

1973年、スミソニアン体制の終焉と時を同じくして始まったペトロラダー制だけがドル基軸通貨体制を支えたのではなく、もう一つ大きな支えだったのが、1994年からのドルペッグ制だったのです。

人民元のドルペッグ制は、ドルによる中国の植民地化だったとも言えるかもしれません。中国は経済成長という大きな果実を手にした一方で、ドル支配に取り込まれていました。特にクリントン政権からオバマ政権までの米中は蜜月と云われ、お互いにズブズブの関係。

現在、中国が米国債の保有を減らし、金(ゴールド)を大量購入しているのは、ドル支配からの脱却が狙いと思われます。


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