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イラン、深まる孤立に危機感 サウジアラビア外相と会談~イランの歴史を振り返る~【日経新聞をより深く】

1.イラン、深まる孤立に危機感 サウジアラビア外相と会談

イランのアブドラヒアン外相は断交しているサウジアラビアのファイサル外相と訪問先のアンマンで会談したと21日、明らかにした。米国との核合意を巡る交渉が停滞し、協力関係にある中国がサウジとの接近を図るなどイランの孤立が深まっている。危機感を募らすイランはサウジとの関係改善を模索する。

アブドラヒアン氏はツイッターに「ファイサル氏はイランとの対話を継続する意思があると明らかにした」と投稿した。両国は2021年から関係改善に向けた協議を事務レベルで続けている。外相同士が会談するのは協議開始後で初めてで、国交回復に向けた機運が高まる可能性もある。サウジ側は会談の詳細を明らかにしていない。

イスラム教スンニ派の盟主サウジと、シーア派のイランは、中東の覇権を巡って対立してきた。サウジは16年にシーア派指導者を処刑。イランがこれに反発し、テヘランのサウジ大使館が襲撃されたことをきっかけに両国は断交した。

イランは米国の離脱で機能不全に陥っている核合意を再建し、欧米からの経済制裁解除で疲弊する国内経済の立て直しを狙う。しかし、再建を巡る米国との間接協議は停滞し、イラン国内の反政府デモへの弾圧や、イランによるロシアへのドローン(無人機)供与で欧米との対立は深まっている。

イランと経済協力を進める中国も12月に習近平国家主席がサウジを訪れて実力者ムハンマド皇太子と会談し、関係強化に動いた。イランと敵対するイスラエルではイランへの強硬姿勢を貫くネタニヤフ氏が首相に返り咲く見通しだ。イランはサウジへの融和的な態度を演出し、深まる孤立に歯止めをかける狙いがあるとみられる。

(出典:日経新聞2022年12月28日

2.イランの歴史を振り返る~第一世界大戦前~

イランを理解するにはウィンストン・チャーチルが欠かせない登場人物です。チャーチルが第二次世界大戦でナチスと戦った英国首相であることは誰もが知っているところです。そのころのチャーチルは60代半ばの政治家でした。

1911年、チャーチルは海軍大臣でした。まだ第一次大戦勃発(1914年)前のことです。彼は英国海軍の近代化を目指していました。当時の英国海軍は世界の海を支配していましたが、米国とドイツの挑戦を受けていました。チャーチルは英国海軍の艦船の燃料を石炭から石油に替えようとしていました。英国には十分な石炭がありそれを燃料にしていましたが、石油に比べると効率が悪かったのです。同じ積載量でも石油の出すエネルギーが格段に高く、戦いに勝てる艦船にするためには燃料を石油に転換しなければなりませんでした。

エンジンを石油用に変更することは英国にとっては簡単なことでしたが、問題は石油でした。英国には油田がありませんでした。チャーチルはどこかで石油を安定的に手に入れる必要に迫られていました。

チャーチルは海軍だけではなく、陸軍の戦いも変わると見ていました。1911年当時の戦い方は塹壕を掘り、鉄条網を敷設した前線で敵味方が対峙するものでした。チャーチルは、将来は内燃エンジンを搭載した装甲車による戦いになると読んでいました。

それが塹壕や鉄条網などものともせず、敵陣を突破する新兵器になると考えました。英国はその新兵器を「水運搬用タンク」と呼びました。敵に警戒感を与えないためです。これが戦車を「タンク」と呼ぶ由縁です。内燃機関を動かすにも石油が必要でした。

チャーチルにとっては石油の確保は重大事でした。米国にはテキサスやカリフォルニアに石油がありましたが、遠すぎました。ロシア産石油はありますが、ロシアはライバル国です。ロシアの石油はロスチャイルドが抑えていましたが、信用できませんでした。

チャーチルのジレンマに応えた人物がウィリアム・ダーシーでした。1900年、ダーシーはイランの地で石油が地表に浸みだしていることを知って、イラン国王(モザッファロッディーン・シャー、1835-1907)に年2万英ポンド(現在の価値で200万ポンド程度)を支払い48平方マイル(124万平方キロメートル)もの広大な土地での石油採掘権を得ました。60年の長期契約でした。また、石油売上の16%がロイヤリティとしてイラン国王に入ることになっていました。

ダーシーは私財を尽くしましたが油井は発見できず、その利権をパーマ石油に譲渡しました。同社は50万英ポンドを採掘事業に充てました。1908年、この資金も尽きかけ、おそらく最後の試掘になる掘削作業が始まりました。これがついにイランの地下に眠る石油の海に当たったのです。翌年、パーマ石油は英国イラン石油(APOC)となりました。これが現在のBPの前身です。

石油開発事業は巨額の費用を要します。インフラストラクチャー未整備の土地での開発はなおさらです。APOCはいくらでも資金を欲していました。1914年5月、チャーチルは英国政府に資金拠出を進めたのです。英国政府は51%の株式を取得し、政府によって任命された役員は、英国の国益に関わる問題については全権を保証されました。また、英国海軍は今後、30年間にわたって予め決められた価値による供給を保証されました。これは、チャーチルの大きな功績とされました。英国はドイツとの中東石油争奪戦に勝利したのです。それは、実際の戦いが始まる3カ月前のことでした。

3.イランの歴史を振り返る~第一次世界大戦後

第一次世界大戦が終了すると、イランではレザー・ハーンが台頭しました。彼はコサック師団の将校で反乱軍の鎮圧に功績がありました。国内秩序を回復し、英国及びソビエト連邦の軍隊を国内から廃除しました。1925年、ハーンは国王アフマド・シャーを廃位させたうえで国会を開設しました。その国会に、彼自身を立憲君主とすることを決めさせました。レザー・ハーンは姓をバフラヴィーとし、新国王(レザー・シャー)となりました。これがバフラヴィー王朝の始まりです。1935年には国名をイラン帝国としました。この帝国が半世紀以上続くことになります。

レザー・シャーは近代化に熱心でした。そのためには鉄道・道路建設、さらには公教育の充実などインフラ整備が避けられません。司法制度や医療制度の改革も必要でした。中央集権制度の国家作りを目指す必要があり、その運営にはしっかりした人材が必要でした。レジャー・シャーはまず人材教育から始めました。多数の若者をヨーロッパに送ったのです。その中には自身の息子もいました。

政策遂行には莫大なコストを要します。レザー・シャーが頼ったのは石油収入でした。それなしでは自らの権力維持さえも危ういものでした。しかし、この収入には英国の手がつけられていました。何とか先の王室が結んだダーシーとの契約を修正したかったのですが、英国は冷ややかでした。

レザー・シャー政権が資金不足に陥ったのは1931年のことです。500万英ポンドがすぐにでも必要でした。そうでなければ建設中の鉄道も病院も学校も完成させることはできませんでした。権力維持のための軍隊への支払いにもお金が必要でした。インフレも激しく上昇率は45%にもなっていました。

レザー・シャーはあらためてAPOCの石油収入に目をつけました。APOCに対して、25%相当の株式、生産ロイヤリティの要求、そしてAPOCに割り当てた開発鉱区縮小(半分)を要求しました。

APOCは要求をきっぱりと拒否しました。それに対してレザー・シャーは開発鉱区契約そのものを無効にすると脅かしました。もちろんこれは交渉のテクニックとして、でした。彼は、実際はAPOCに積極的な開発を進めて欲しかったのです。APOCもこの地から撤退することなど考えてもいませんせんでした。思惑の一致した両者が新たな条件で契約を仕切り直したのは1933年半ばのことです。イランの要求を入れた60年の長期契約でした。この合意は次のようなものでした。

1.ただちに100万ポンドをイラン政府に支払う。
2.売上げロイヤリティは20%とする。
3.生産ロイヤリティはトン当たり4セントとし支払いは金(ゴールド)による。
4.純利益に対して4%の税を課す。最低でも75万ポンドの利益があったものと見なす。

これに加えてAPOCは次のような条件も飲みました。

1.イラン政府が任命する人物を役員に任命する。
2.イラン国内消費分については優遇価格で販売する。
3.当初契約で与えられた鉱区の一部を返上する。
4.イラン国内における石油の独占輸送権を返上する。

この合意がなったことで、イラン政府は新たな投資家を呼び込むことが可能になりました。イランは国家財政のAPOC全面依存から抜け出せる可能性が出てきました。

それでは誰に投資を呼びかけるのか。それが難題でした。

すぐにソ連が手を挙げました。しかし、レザー・シャーはソ連を信用しませんでした。ドイツも関心を示しました。ドイツを引き入れることは政治的にも英国とのバランスをとるうえで都合が良いものでした。その上、ドイツは利益の均等折半まで提示していました。

しかし、レザー・シャーは米国を選びました。(1935年)米国には勢いがありました。第一次世界大戦の敗戦国ドイツと組むより政治的メリットがありました。ただ、ドイツと完全に縁を切ることは避け、子音時点で国内にいたドイツ人技術者がイランに留まることは許可しました。

米国はイランの石油採掘事業に参加したくて仕方がありませんでした。スタンダード石油ニュージャージー(後のエクソン)、スタンダード石油カリフォルニア(後のシェブロン)などが機械を窺っていました。彼らは新しい鉱区での開発を進め、油田を見つけ次第パイプラインを敷設し、オマーン湾とペルシャ湾に埠頭建設を考えていました。実現すればドイツとソ連はイランから締め出されることになります。

イランは英米二か国の開発と販売に委ねましたが、次第にフレストレーションを募らせることになります。石油産業に関わる高級のとれるポジションは外国人が独占しました。米英資本の導入でイラン国民に多くの利益があると謳った国王の約束は実現されなかったのです。レザー・シャーは国内の憤懣を煽ることにしました。外国人はイランの石油を盗んでいる、彼らは病院や学校を建てると約束したが、何もしていない、と罵りました。それでも石油収入に頼らざるを得ない厳しい現実がありました。

1939年、第二次世界大戦勃発(ドイツのポーランド侵攻「9月」)の少し前の時期になりますが、英国は500万ポンドの借款をイランに与えることを決めました。担保は将来の石油代金でした。また、金(ゴールド)での支払い分についてはその金の交換レートを市場価格とは異なる英国優位のレートを決め、イラン政府に入る金の量を下げました。

しかし、レザー・シャーはこの提案を拒否し、英国に与えている石油利権をキャンセルしたのです。ドイツが戦争を準備していることを念頭に置いたレザー・シャーの抜け目ない戦術でした。英国は譲歩してくると読んだのです。

案の定、チャーチルが動きました。イランからの石油は対独戦争に欠かせませんでした。戦いが始まって一か月後の1939年10月、チャーチルはイランの要求は何でも聞き入れるという態度に変わりました。ロイヤリティはイランの要求通りに引き上げました。

ドイツのソ連侵攻(1941年6月)でソ連は連合国側に立って対ドイツ戦争を戦うことになります。ソ連はイラン産石油を完成したばかりのトランス・イラニアン鉄道を使って手に入れようとしました。しかし、レザー・シャーはこれを拒否しました。彼はナチスに同情的であったし、そもそも大戦勃発後は中立を宣言していたのです。英国はイラン国内の石油施設で働くドイツ人技術者の国外追放も要求しました。彼らはドイツのスパイであり、破壊工作員であると主張しました。しかし、レザー・シャーはこの要求も拒絶しました。

1941年英国とソ連はイランに侵攻しました。レザー・シャーは逮捕され南アフリカに送られました。この翌年、米国はイランに派兵を決めました。トランス・イラニアン鉄道を守備するためでした。こうしてイランの石油と鉄道は英米ソ三国が掌握しました。

1941年9月、英米はレザー・シャーの長男モハンマド・レザー・バフラヴィーを国王に据えました。当時22歳であったレザー・バフラヴィーは米英にとっては好ましい人物でした。世俗的で、親西欧でした。石油収入を近代化資金にする方針は父と同様でした。しかし、レザー・バフラヴィーに対して反感を持つもの多くいました。彼の極端な親西欧の姿勢が嫌われたのです。西洋型近代化を嫌う勢力も根強くありました。

4.イランの歴史を振り返る~第二次世界大戦後~

第二次世界大戦が終わると反レザー・バフラヴィー、反西欧の動きが活発化しました。反政府運動は石油産業の国有化を主張するまでになりました。また隣のアゼルバイジャンはソビエト連邦に取り込まれました。

レザー・バフラヴィーは、自らを国王にした英米に忠実でした。北西部からの脅威(ソ連)に対してもこの両国が守護役になると信じていました。英米以外の国から持ち掛けられる石油利権獲得のオファーに対しても、それがいかにイランに有利であっても、耳を貸しませんでした。

レザー・バフラヴィーは立憲君主としての立場をわきまえ、国会の意思を尊重しなければなりませんでした。しかし、1940年代の彼は、国会をコントロールしようとしました。軍隊に対しても王家に対する絶対の忠誠を誓わせました。

大戦後、ムハンマド・モサッデクが政敵として台頭しました。彼は黒海議員でありナショナリストでした。大学教育をヨーロッパで受け博士号(法学)を持つインテリでもありました。彼は、イランは独立国であって、近代民主主義国家として、豊富な石油資源を利用は自らの意志で決めるべきだと考えていました。石油収入はイラン近代化のために使われなければなりませんでした。彼はパリに学びましたがそこで反英感情が芽生えていました。そのためか、レザー・バフラヴィーの新英の態度に反発したのです。

モサッデクに対する国民の期待は大きくなりました。国民は彼を英米支配からの解放者だと考えていました。1951年、国会が彼を首相に選出しました。しかし、彼はすぐに辞任します。国王が、国防省を含む政府高官の人事権を渡さなかったことに抗議したのです。国民は国王のやり方に憤りました。恐れをなした国王はすぐにモサッデクを首相に復帰させ、人事権などの権限を譲りました。

モサッデクはイラン石油産業の国有化を決めました。レザー・バフラヴィーはそれに反対しました。そんなことをすれば英米両国は石油の動きを止めることを心配したのです。そうなれば、イラン経済は混乱することは必定でした。それでもモサッデクは国有化を断行しました。国王は何とかそれを阻止しようと更迭を試みました。しかし、国王の後ろに控える英米に反発する国民はモサッデクを支持しました。

レザー・バフラヴィーは軍隊に鎮圧を命じようとしましたが、逆に軍の反乱を心配しなくてはなりませんでした。特に下級兵士は国民の動きに同情的でした。彼はひとまず国外脱出を決めました。もちろん、王位を捨てる気は全くありませんでした。彼は英米両国が必ず彼を守り切ると信じていたのです。英米はイランにある石油利権を手放すはずはないとの確信があったからです。

その後の英米はレザー・バフラヴィーの思惑どおりに行動しました。英国はイラン国内最大のアバダン製油所を止めました。米国も英国に追随し、イラン産石油のボイコットを決めました。同盟国にも同調を求めました。英米はホルムズ海峡の閉鎖も決めました。これによってイランの石油収入は途絶え経済は麻痺することとなりました。

この頃、米国政府は冷戦の真っ只中でした。イランの石油が止まることよりも重要な課題がありました。モサッデクによる石油産業国有化や市場介入の政治姿勢を見て、彼はソ連陣営につくのではないかと恐れたのです。米国にとってモサッデクは危険人物になりました。彼は排除されなければなりませんでした。

英米両国は単純なイラン侵攻はできません。第三次世界大戦を恐れたのです。両国はクーデターを選びました。クーデターを裏で操る方が、よほどリスクが少なかったのです。

イランに軍事侵攻すれば、ソ連がイラン北西部から侵入してくるのは必定でした。イランでの戦いはソ連が有利でした。現実の戦いになれば英米両軍ともにイラン南部に押し返される可能性が高かったのです。イラン全土から排除される可能性さえありました。赤軍がイランを掌握すれば次に狙われるのはおそらくトルコになると恐れられました。

ソ連がイランを征圧すればペルシャ湾へのアクセスが叶います。これはピョートル大帝以来のロシア(ソ連)の野望でした。ここに軍港を置くことができれば、インド洋へのロシア海軍の展開は容易となります。

したがって、イランへの軍事侵攻はリスクが高すぎました。その代替案がクーデターによりレザー・バフラヴィーに権力を戻すことでした。この方がロシアへの刺激は少ないからです。英米の支援に感謝するレザー・バフラヴィーからさらなる特権を引き出すことも期待できました。レザー・バフラヴィーを帰国させたうえで、クーデターを計画したのです。もちろん米国は関与を否定していますが、中東の国々は米国のやり方を肌で感じることになりました。

CIAは宗教家、政治家、軍人あるいはストリートギャング連中に賄賂を使って反モサッデクの抗議運動を煽りました。石油の輸出が止まっていた経済に火をつけるのは簡単なことでした。

1953年8月、クーデターが実行されました。レザー・バフラヴィーが親衛隊にモサッデクの逮捕を命じたのです。しかし、CIAの計画通りにはいきませんでした。モサッデク支援者が親衛隊側の部隊長を逮捕してしまったのです。それでもCIAの動きは止まりませんでした。すでに国王支持のデモ隊ができていました。この中にはテヘランを仕切るギャングの連中も多く紛れ込んでいました。地方からもデモ要員がバスやトラックで続々とテヘランに運ばれました。街に溢れたモサッデク支持派は国王支持派と衝突を繰り返し、多数の死者が出ました。その数は300人とも800人とも言われています。

国王支持派は、モサッデクの邸宅を襲いました。捕らわれたモサッデクは軍事法廷で、国家反逆罪で有罪となりました(1953年12月)。3年の刑期を終えたモサッデクは自宅軟禁となり自由は与えられず14年後(1967年)に亡くなりました。モサッデク支持派も多くが逮捕され、中には死刑に処せられた者もいました。

CIAもMI6(英国の対外情報工作部門)も関与を否定しました。

クーデターの成功で米国は英国に対してAIOC(APOCの後身。Anglo Iranian Company)の株の一部譲渡を要求しました。この結果、英国政府の持分は40%、米系企業が40%となり、残りはロイヤルダッチシェル(14%)と仏系のトタル石油(6%)の所有となりました。イラン政府は利益の半分を保証されましたが、所有権は持てませんでした。

クーデター後のレザー・バフラヴィーはますます専制的になりました。石油収入は王家に回される割合が増え、近代化資金は不足しました。政権とAIOCとの間もぎくしゃくしました。イラン政府はAIOCが利益を意図的に低く見せていると疑ったからです。

モサッデクを支持した勢力は力を失っていませんでした。1979年、この勢力が革命を起こしました。シーア派宗教家が権力を掌握すると、学生の過激派を使った米国大使館を占拠させ、大使館員52名を人質にしました。革命政権は石油産業の国営化を目論見ました。

米国はレザー・バフラヴィーの復権を諦めると、イラクのサダム・フセインにイラン攻撃を仕掛けさせました。資金も武器も米国が支援しました。イランとイラクを戦わせることで、米国にとって最も重要な石油供給国であるサウジアラビアの安全保障を確保しようとしたのです。イラクはシーア派が多数派でありながらスンニ派のサダム・フセインが政権を握っていました。

1980年9月、イラクはイランに侵攻しました。表向きは国境紛争が原因でしたが、真の理由は、シーア派革命が国内に伝播することをサダム・フセインが恐れたからです。シーア派はイラク南部の国境付近に集中していました。彼らがフセインに対して蜂起する前に動いたのです。両国の戦いは1988年8月まで続きました。戦死者はおよそ50万人で、ほぼ同数の民間人が犠牲になりました。

フセインはこの戦いで化学兵器を使用しました。対イラン戦争だけでなく、イランに同情的なクルド族に対しても使用しました。国境はもとのままでした。

イランは戦争中石油も天然ガスも販売できませんでした。1980年には米国は人質を取られたこと(1979年)に対する報復として経済制裁を科しました。1995年には核兵器開発を疑われ、制裁はいっそう強化されました。2006年には、イランが核燃料濃縮施設設置を諦めなかったことから、国連安全保障理事会が新たな制裁策を打ち出しました。EUも独自の制裁を科しました。

イランは孤立しました。

しかし、ベネズエラは銀行設立を含むジョイントベンチャーで40億ドルを投資しました。インドもイラン産石油を買い続けています。インドは輸出先第二位です。ギリシャはEUの経済制裁に反対しています。財政破綻したギリシャに石油を売り続けてくれるイランを大事にしたいのです。日本と韓国も輸入しています。イランと中国の関係も良好です。イランの原油輸出先第一位は中国です。

そして、プーチンが大統領に就任してからのロシアとの関係は良好です。ロシア軍が使用するドローンがイラン製であると報じられてもいます。

その国の事情、その国の歴史を知らなければ、単純に悪と論じることはできないとつくづく思います。

未来創造パートナー 宮野宏樹

自分が関心があることを多くの人にもシェアすることで、より広く世の中を動きを知っていただきたいと思い、執筆しております。もし、よろしければ、サポートお願いします!サポートしていただいたものは、より記事の質を上げるために使わせていただきますm(__)m