【掌編小説】『まぁいいか』

駅へ向かう途中、野良猫が歩いているのにばったり出会った。俗に茶トラと呼ばれる柄で、なんとも可愛らしい。1枚だけ写真を撮ってから、再び歩き始める。いつもより少し幸せな朝だ。

改札を抜けた時、ホームで扉が閉まった電車は、毎朝私が乗っている電車だった。もちろん、今日もそれに乗るはずだった。しまった。乗り遅れてしまった。しかし私は、周りに聞こえない程度の小声で呟く。
「まぁいいか、次の電車3分後だし」

そう、この鉄道、運行本数だけは誇れる。朝と夕方のラッシュ時には、3分に一本電車が来る。上京する前に使っていた地方の鉄道は、朝でも15分に一本しか来なかった。5倍のチャンスがあるのだ。一本逃したくらいで凹むことはない。

そんなことを自分に言い聞かせているうちに、次の電車の到着アナウンスが流れ始めた。うわ、と思う。次の電車は「秋壇面(しゅうだんめん)行き」だった。私がいつも乗る「翠陽(すいよう)行き」は、その名の通り翠陽駅
までの運行なのだが、4本に1本の割合でくる「秋壇面行き」は、翠陽駅よりもさらに先にある秋壇面駅まで行ける電車だ。本数が少ない上に、利用者はかなり多いので、秋壇面行きの電車はいつも混雑しすぎている。わたしは翠陽行きに乗れればいいので、いつも乗らずに見逃している。今日も、見逃そう。私は、小声で呟く。
「まぁいいか、次の電車3分後だし」

さて、こうして3分の時間が与えられると、案外何をしたらいいのかわからない。困った私はとりあえず携帯を手に取る。わけもなく写真フォルダを眺める。人生、わけのないものの方が意外と心地良かったりするものだ。ふと、さっきの茶トラが目に入る。どこかで見たことがあるような気がする。そんなことを思った矢先、到着アナウンスが流れた。それと同時に、電話が震えて着信を知らせた。友人の典子からだった。私はホームの隅の方まで移動し、声の準備をした。
「もしもし?」
「ねーねー、私の愛するチャコ君が、知らない間にどっかいっちゃったよー!!」
チャコ君、典子が飼っている猫の名前だ。確か茶色っぽくて……。あ。
「もしかして、私その子朝見たかも。佐々木のおばあさんの家の前を歩いてたから、もしかしたらまだそこらへんにいるかも」
「え!?うそほんと!?ありがとう!!」
電話が切れた。気づけば、電車の扉は閉まっている。私は呟く。
「まぁいいか、次の電車3分後だし」

喉が渇いた。確か改札の近くに自販機があったはずだ。私はホームに背を向け、自販機を求め歩き始めた。目論見通りそこにあった、赤い機会。一番左上にある緑茶にしよう。財布の中から千円札を取り出して入れる。ところが、野口英世は追い返されてしまった。2度、3度、やはり入らない。この自販機は、前世で野口英世に親でも殺されたのか。
「どうされましたか?」
駅員さんだ。
「お金が入らなくて……」
渇いた喉でそう言うと、駅員さんはすぐに
「あー、すみません。100円玉のお釣りが切れちゃってるんですね」
と、理由を教えてくれた。
「折角ですし、一本差し上げますよ。どれがいいです?」
予想外の一言。
「え?いやいや、そういうわけには」
「いいんですよ。いつもご利用いただいてるみたいですし」
結局、緑茶を奢ってもらった。ホームに戻ってみると、既に電車が動き出していた。私は呟く。
「まぁいいか、次の電車3分後だし」

警察官が、2人並んで歩いている。私の視線を感じたのか、2人で歩み寄ってくる。
「あーすみません。少しお尋ねしたいことがあるんですけれども」
「はい」
「昨日この辺りで、ホームセンターで万引きの事件がありまして、犯人が逃走中なんですよ。怪しい人物なんか、見ませんでしたかね?」
「んー、特には見てないですよ」
「そうでしたか。失礼しました」
「ちなみに、犯人はホームセンターで何盗んだんですか?」
「それは言えません。そういったことは、口外してはいけないという決まりになっておりまして……」
「あ、やっぱりそういうの厳しいんですか、最近」
「そうですね。プライバシーがどうこうっていう話もあれば、具体性があるとかえって不安感を煽るからみたいな意見もありまして……」
……みたいな話をしているうちに、電車は去ってしまった。警察官の背中を見ながら、呟く。
「まぁいいか、次の電車3分後だし」
 
電車到着を知らせるアナウンスに隠れるように、再び携帯が震えた。また典子だ。
「ねーねー!!いた!チャコ君いたよ!!」
「ほんとに!?よかったじゃん!」
「もー朝から疲れちゃった。でも、ほっとしたよー!」
「そっかそっか。典子は今日休みなの?」
「そだよー」
「じゃあ、午後はゆっくり寝なよ、チャコ君と」
「そーするー」
電話が切れたのと同時に、目の前の電車は動き出した。私は携帯電話を手に持っているカバンにしまおうとした。カバンの中には、天井の照明をきらりと映す刃物が、昨日から眠っている。ああ、みんなどんな顔するんだろうなー。そう思いながら呟いた。
「まぁいいか、次の電車3分後だし」