言葉を奪われる

 素晴らしい作品に「心を奪われる」
という表現がある。しかしこれは、表現として定着してはいるものの、なかなか表面化しづらいものである。というのはつまり、その人が心を奪われているかどうかを客観的に調べる方法がないということである。
 そもそも「心」というものを、私たちはなかなか捉えきれていない側面がある。特に他人の心ともなれば、いくら気がおけない間柄であっても分からないことが多い。対して自分の心であれば、人間はそれを手持ちの語彙である程度言語化できる。そして言語化されている心であれば、それはある程度客観性を持って伝達し合うことができる。国語の試験で「登場人物の心象」を問うことができるのは、ひとえにこの客観性のおかげである。
 「心」は「言葉」で表せる。そうであるならば、「心を奪われる」というのは、「言葉を奪われる」と言い換えることができるのではないだろうか。作品を見て心を奪われた、というのは、その作品を通して得た感情とか感覚というものが言語化できないほどに圧倒されたということに等しいように思えるのだ。
 と、いうわけで、僕は僕が作る作品で、いろんな人の言葉を奪いたいと思っている。あの手この手で黙らせていきたい。わくわくしてきた。