【掌編小説】『開けてもらっていいですか?』

 その部屋に窓は無かった。そのため、部屋から出るための手段はただ一つ。男の目の前に立ちはだかる扉を開けるしかない。しかしながら、男はその扉を叩きつつ声を上げるだけで、自ら開けようとはしなかった。見れば、その扉には取っ手もなければ窪みもない。一面がつるっと磨かれた鏡であるかのようで、男の居る側からは開けられそうになかった。扉、というよりは、もはやただの壁に近い。
 男は扉を3回叩き、既に何度目かわからないほど言ったセリフを、もう一度繰り返した。

「すいません。開けてもらっていいですか?」

 数秒間の、ノイズキャンセリングな世界。扉の反対側から、既に何度目かわからないほど聞いたセリフが、もう一度聞こえた。

「ごめんなさい。開けられません」

 普段は寛容だった男も、流石にしびれを切らした。男はその声を少し荒げて、聞いてみる。

「あの、どうして開けられないんですか?」

「……言えません」

 静寂を切り裂いた声は、少し震えて聞こえた。男は、しまった、と思った。

「あ、いや、別にあなたを責めているわけではありません。その、例えばそちら側にも取っ手が付いていなかったり、取っ手があっても鍵がかかっていてその在処を知らなかったり、そういった事情があるのかもしれないな、と思いまして」

 取り繕うように、早口でまくし立てる。涙声にも聞こえる返事が返ってくる。

「いえ、取っ手はついていますし、鍵穴はありません。開けようと思えば、開けられます」

「じゃあ、早く開けてもらっていいですか?」

「開けられません」

「なんでだよ!」

 男の唾が汚らしく扉に飛び散る。男は拳を握り、なんども扉を叩く。扉はかすかな揺れも見せず、ただ鈍い音を響かせるだけだ。鈍い音に交じって、声が聞こえた。

「だって!」

 男は動きを止めた。

「だって、そちら側には、居るんでしょ?アイツが」

 アイツ。その単語を聞き、男は振り返った。男の背後で空虚を眺めている男児を、静かに見つめる。

「アイツがそこで動いている限り、扉を開けることはできません。というか、仮に死に絶えていたとしても、それはそれで開けたくありません」

「どうして。どうして彼が居ると扉を開けられないんだ?」

 知らない内に眠そうな顔をしている男児を横目に、ぼそっと吐いた。

「嫌いなんです。アイツが」

 男は耳を疑った。

「嫌い?」

「はい。大嫌いです」

「なんで?」

「自分でもうまく説明できませんが、なんかもう、アイツが居るっていう感じがするだけで無理というか。まして視界に入れようものなら、最早死ぬことに等しいほど苦しい思いをするでしょう」

「どれだけコイツのことが嫌いなんですか。何かあったんですか?」

「あったんです。何か」

 これ以上聞いてはいけない。男は本能がそう叫んでいるのを感じた。

「はあ。なんにしても、アイツが嫌なら、アイツは置いといて僕だけ出してくれればいいじゃないですか」

 それを聞いた扉の向こうは、少し笑ったような息を漏らした。

「あの。嫌いなアイツと一緒に居るあなたのことも、十分嫌いなんですよ」

 男の心に、石が投げ込まれた。

「ああ。よく考えたら、私、なんでこんなところであんたみたいなやつのことを相手にしてるんだろ。はは。もういいか」

 ピッ。という音が聞こえた。天井についている管から、大量の水が流れ落ちてきた。水が、男の裸足に触れる。その水のぬるさで、男はあの夜を思い出した。男は、男児の頭を右手で掴んで、くるぶし辺りまで溜まってきた水の中に沈めた。男児はぷかぷかと浮く。心地よさそうなのが、やけに憎らしい。

 その部屋に窓は無かった。