【掌編小説】日陰の日

 僕らがいるベンチに影を落としている大きな木にも、きっとセミがとまっているのだろう。日陰にいようがお構いなしに聞こえてくるその鳴き声を、「逆クーラー」とでも呼んでやりたい。目には見えないけれど、波みたいにどっと押し寄せてきて、僕はこの時期特有の息苦しさを感じた。視線の先にある干からびた噴水をぼうっと見ていると、不思議とのどが渇く感じがする。
「んあーーー、こんなの絶対無理だってーーー」
 右の方から暑苦しい声が聞こえた。彼女はかれこれニ十分くらい、ベンチの手前で立ちっぱなしのまま、座る気配がない。
「だからね、腕であげるんじゃなくて、全身であげるんだって。膝を曲げて、伸ばしたのと同時に、玉も真上にあがってくるイメージだよ」
「それがよく分かんないんだよ!」
 わざとらしく膝を曲げ伸ばししている彼女の姿には、ひょこひょこという擬音がよく似合った。
「そりゃ、膝を曲げ伸ばしするだけじゃあがってこないよ」
「え!?さっきはあがってくるって言ったじゃん!」
「あくまでイメージの話だよ。膝を伸ばすのと一緒に、剣先もちょっと上にあげて、玉があがっていくタイミングで下から剣先を入れてあげるような感覚でさ……」
「ああああわかんないよおお、頭使うんだね、けん玉って」
 彼女の投げやりな口調は、いかにも頭が回っていない人のそれだった。
「ちょっと休んだら?」
「待って、あと一回だけやらせて。なんか、行けそうな気がする」
 なんでだよ、と僕が言い終わる前に、彼女は全身を空に向かってぴょっと伸ばした。赤い玉はまっすぐ上向きに上がっていく。そして軌道の頂点に達し、ゆっくりと降りてくるその玉に向かって、すかさず剣先を差し込むように動かす。カコン、と木と木がぶつかる音がして、無情にも赤い玉は元あった位置に戻ってきた。細い糸に吊られて、所在なげに揺れている。
「むりだああああああああああああああ」
 彼女が投げ捨てたけん玉は土に打ちつけられ、鈍い音をたてた。その音が聞こえて初めて、さっきまでのセミの鳴き声がウソみたいに止んでいることに気がついた。日陰から見ると、土の上に転がったまま日に照らされているけん玉はいやに輝いて見えた。
「……ねえ」
 少し弱った声が聞こえた。
「なんで、キミはこんな時にも私の練習に付き合ってくれるの?めっちゃ暑いのに。それに……」
「それに?」
「ほら、明日は……」
「ああ。日陰の日、か」
 日陰の日。忘れていたわけではなかったのに、思い出したような感じがした。
「もうそんなに経つのか」
「もうそんなに経つんだよ」
 彼女はやっと腰を下ろした。ベンチが二人分の重さに軋んだ音も、またよく響いて聞こえた。
「やっと大人になったのにね」
「人生のほとんどを子供のまま過ごせたんだから、寧ろありがたいよ」
「……大人って、つまんないのかな」
「そうでも思わないと、やりきれないだろ」
 大人たちはずっと、僕たちに嘘をついてきた。僕たちを育ててくれた人たちは、みんな知っていた。ここではない惑星に住む、名前も知らないような生命体が、何年も前に宇宙に何かとんでもないものを造っていて、それが長い時を経て少しずつ地球に近づいてきたために、近いうちに地球は日陰の中にすっぽりと収まってしまうということを。それでも大人たちは、君たちには明るい未来がある、なんてことを言うもんだから、僕らは無駄に、真面目に生きてきてしまった。
「……ねぇ」
 かなり弱った声が聞こえた。
「今夜、なんか予定ある?」
「無いって言ったらどうするんだ?」
「一緒にいたいなって、思っただけ」
 今夜、日付が変わるタイミングで、歴史上一番暗い夜がくる。そしてそれは、2度と明けない、と言われている。この星からどんどん熱が吸い取られ、僕らはきっと凍えながら死ぬのだろう。僕は何も言わず、彼女の手を握った。
「……セミってさ、気温が26℃〜33℃の間のときにしか鳴かないらしいよ」
 こんなに近距離でセミの話をされたのは初めてだった。
「じゃあ、今は暑すぎるからセミが鳴いてないってこと?」
「そうみたい。また少し気温が下がってきたら、鳴くんじゃないかな」
「それで夜になったら、もう鳴くこともないんだろうな」
「いいじゃん、静かでさ」

 汗でしっとりとした彼女の背中に、静かに手をかけた。囃し立てるように一匹のセミが鳴き始めた。それに続くように、公園中のセミの鳴き声がけたたましく聞こえてきた。僕は、気にせず彼女を抱きしめた。あつい。これが自分の熱なのか彼女の熱なのか、それとも「逆クーラー」による熱なのか分からない。あるいは何かこう、内側から湧き上がる熱なのかもしれない。
「良かった、キミに逢えて」
 全部全部、太陽の熱だった。太陽の光が届かなくなれば、いとも簡単に失われてしまう熱だった。僕の唇に触れた彼女の薄紅色は、少し震えていた。

 しばらく、誰もいない公園を2人で眺めていた。手は繋いだままだった。視界の奥の方から、黒く巨大な波がやってきた。それは予定より早く来た。半日なんて、宇宙から見れば誤差にすらならないのだろうか。干からびた噴水が闇に呑まれた。もう見えない。迫ってくる。迫ってくる。見たことのない黒が。土の上で無造作に寝転んでいるけん玉が闇に呑まれた。もう見えない。迫ってくる。迫ってくる。もう玉が何色だったのかも分からない。
 向かい合い、目を合わせ、もう一度抱き合った。
「けん玉、一回は成功したかったな」
「そうだな」
 僕の瞳から溢れた涙を隠すかのように、視界は一瞬で黒に塗りつぶされた。もはや彼女の頭を撫でることしかできなかった。