【掌編】憎シミ取り

 家から一番近いスーパーには、ドラッグストアと焼き鳥屋と、クリーニング屋が併設されている。その日、クリーニング屋の前を通ると、不思議なのぼりが立っているのに気がついた。

『憎シミ取り はじめました』

 にくしみとり、と読めばいいのだろうか。なんにしても、ただのシミ取りでは無さそうだ。とは言え、今日はタイムセールの人参詰め合わせをしに来たのだ。こんなところでのんびりしている場合じゃない。私は多少の引っかかりを感じつつも、そののぼりを通り過ぎ、スーパーに入った。ところが、人参を詰めている間にも先ほどの単語が頭の中をぐるぐる回るので、ついに私は居ても立っても居られなくなり、レジを抜けるや否やすぐさまあのクリーニング屋の前まで戻ってきてしまった。

 やけに重い扉を開けると、カウンターの向こうには白髪の目立つおじさんがニコニコしながら立っていた。

「やあ。いらっしゃい。お客さん、初めてかい?」

 随分陽気な声で私を呼ぶ。

「はい。あのー、あそこに書いてある『憎シミ取り』ってなんですか?」

 私がおじさんに問いかけると、おじさんは少し驚いたような顔をした。

「お、初めてなのに憎シミ取りに目をつけるとは。お客さん、なかなかお目が高いですな」

 なんだかよくわからない褒められ方をされたが、私が望んだ質問の回答は来ていない。私はさらに次の言葉を催促するように、おじさんを見る目に力を入れた。

「あー。あれはね、衣服ではなく、お客さんの脳内を綺麗にするサービスなんですよ。人間の感情において憎しみほどメリットの無いものはありません。そういった感情を、その原因となる記憶もろとも消し去ってしまおう、という発想から生まれた独自テクノロジーを使用し、お客さんの憎しみを綺麗さっぱり取り除くことができます。初回は80%OFFの2200円でお試しいただけますが、いかがです?」

 憎しみ。これを憎しみと呼ぶのかわからないけれど、私は昨日彼女と別れたばかりだった。理由は、彼女のわがままに付き合うのがうんざりしたからである。初めて出会ったとき、彼女の凛とした長い黒髪がとても美しく、しかもそれが彼女の童顔を引き立てているようで、私は可愛いと美しいを50:50で感じたのをよく覚えている。彼女の性格の面倒くささを知らなかった当時の自分に言わせれば、それは一目惚れであった。ややもすれば、運命の出会いだなんて恥ずかしい事をぬかしていたかもしれない。
 彼女の好き勝手な言動に振り回され続け、今まで幸せだと感じていた時間が少し苦痛になってきた頃、彼女はついにデートの約束をすっぽかした。そもそもそのデート自体、向こうが行きたいと言ったところへ行く予定だったし、時間もプランも全て希望に沿ったはずだった。それなのに一向に来る気配のない彼女に、私はもう耐えきれなかった。これは、憎しみだ。愛の慣れ果ての憎しみだ。きっとそうだ。私は私の中で一つ、2200円を払う覚悟を決めた後に、白髪のおじさんに言ってみた。

「じゃあ、お願いします。最新の憎ましい感情を、記憶もろとも」

 その後椅子に座るとすぐ、おじさんからなにやらヘルメットのようなものを手渡されたので、大人しく被った。

「はーい。じゃあ、目~つぶってくださいね。いきますよ~」

 その言葉が聞こえてから、15分くらいの記憶が無い。ハッと目を覚ました時には、既にヘルメットのようなものは外されていて、簡素な椅子にぼうっと座っている私が居た。なんだか、頭の中がすっきりした気もするし、ぼやっとした気もする。

「あ、おはようございます。体調にお代わりはありませんか?」

 白髪のおじさんが私にそう声をかける。私は小さくうなずく。

「それは良かった。お客さんの憎しみ、結構手ごわかったんですよ。まあ、もうなんの憎しみを取ったかも覚えていないでしょうけどね」

 私は小さくうなずく。それを見てから、少しだけ待っていてください、とだけ言い残し、おじさんはカウンターのさらに奥へと行ってしまった。特に何をするでもなくただ座っていると、一人の女性が店の扉を重そうに開けて入ってきた。凛とした美しい長い黒髪が、幼げな顔の可愛さをさらに引き立てている。美しい上に、可愛い女性だ。

「あの。今お店の人、なんか奥の方まで行っちゃってるみたいで……」

 しまった。つい話しかけてしまった。そんな私を怪しく思ったのか、相手の女性は私の顔を見て、心底不快そうな顔をした。