プレゼントは、わ・た・し♡

 タイトルの割には少し真面目な話をしようと思う。

 臨床哲学の講義は、なんだか本質的なものがまるで見えてこない感じがする。そもそも臨床哲学という概念自体が、人と人との対話の上で成り立つものであり、講義で誰々の云々という考え方を教えられたとて、手元には何も残らないような、肩透かしな感覚をおぼえる。
 加えて、そもそも私は哲学専修ではなく、日本語学専修であるわけだから、哲学については歴史にもメソッドにもまるで明るくない。講義で出てくる人物名は、7割がはじめましてであり、そういうわけで難しい言葉とかは正直意味がつかめていないのである。
 じゃあお前はなんのためにその講義に出席しているのか、とお思いになることだろう。これは私もよく分からない。もはや後に引けないという理由だけで席に座っている。これを勉学と呼んでいいものなのか。好きな本でも読んでいた方がまだ有益なのではないか。そう思うこともないわけではない。
 ただ、こういう哲学の講義にも、楽しみがあったりする。哲学者が使う言葉(あるいはその言葉を訳した日本語)というのは、なかなか独特で面白かったりするのだ。論文の一節に似た堅さもあれば、同時に多彩な隠喩の上に成り立っている面もあり、その二面性にほんのりと人間を感じているのである。

 今日は「哲学プラクティス」をテーマとした文脈の中で、こんな言葉と出会った。

人と対話するというのは、僕の時間をあなたにあげるっていう、最高のプレゼントみたいなものですよね。

 カウンセリング的な話題の流れであったため、表現がやや一方的というか、少々上から目線な雰囲気を感じなくもないが、お互い様だと考えれば、これはなかなか面白い考え方なのではないだろうか。
 誰かとかかわりを持っているとき、自分は相手へ、相手は自分へ、自らの時間をプレゼントし合っている。こうした考え方によって、お互いに対等で尊重し合う優しい関係性を保てるように思える。たとえ喧嘩をしていても同じ事である。意見の相違があっても、その根底には、揺るいではいけない価値観というのがあると思う。

 ただ、これはあくまで対話の話。例えば演劇で、創り手側とお客さん側の間にも同じことが言えるだろうかと問われたら、それは違う。というのも、お客さんが創り手にプレゼントする時間が、その公演の上演時間分だとしたら、創り手がお客さんにプレゼントする時間は、その公演の脚本を書き始めたその日から、幕を下ろすその瞬間までの全てであるからだ。
 だから創り手の方が偉いんだぞ。なんて暴論を言うわけではない。寧ろ逆である。演劇や映画やドラマや小説や、この世の全ての芸術にお客さんが集まってくれるのは、お客さんたちはその作品を通して、自分がプレゼントした時間以上の時間を創り手からプレゼントしてもらえるからなのではないのだろうか。言い換えればこれは時間に対する満足感である。だとすれば、ここまでプレゼントする時間の差があるはずなのに、お客さんが終演後に満足しなかったなんてことがあれば、それはもう作品として大失敗なのだ。作品を見てもらう、というのは、そういう覚悟の上に成り立つものだ。自分で言っておいてなんともおぞましいものである。

 お客さんがより満足できるプレゼントをこしらえるために、私は朝起きてから夜寝るまで、というか寝てる間にも、自分の作品のことを考えていたいな、と思うわけです。が、今まさにあなたが読んでいるこの文章が、あなたの時間をプレゼントしていただいてまで読む価値があるものだったのか、私には分かりえないわけで。これがまた恐ろしいところ。