『読書感想文の所感#10(最終回)』

〜これからの読書感想文〜

読書感想文は、長く丁寧な文章を書く練習であるという話をした。さらにそれが、一読で汲み取れるようなものであるべきだという話もした。これらのことを踏まえて、これからの読書感想文について少し話して、このシリーズは一度区切りをつける。

正直、読書感想文なんてもう必要ないと思う。寝て起きれば昨日とは全く違うニュースに包まれているような時代だ。手元の四角いデバイスで世界中の情報に触れられる時代だ。そんな時代で、呑気に読書の感想を原稿用紙5枚分、手書きで書く必要があるかと言われたら、僕は「ない」と答える。もっとも、文章はもっと自由であるべきだと思う。言文一致の運動を経てもなお、仕事の場や公式な場など、文語文を書かなければいけない場面は沢山ある。日常会話と文書で、使う文章の毛色を大きく変えなければいけない、という風潮が残り続けており、それが言葉の可能性を狭めているような気がしてならないのだ。そしてその風潮は、読書感想文というフィールドにおいてもやはり色濃く残っているように感じるのだ。できる限り伝わりやすい表現で書く、とか、文章の構成の仕方が分かる、とか、具体例を入れる際の接続詞が正しく使える、とか。もちろん、文章を書く上で欠けてはいけない要素である。やがて身につけるべき能力である。ただ、それらを身につけるための手段が読書感想文しか無い、なんてことはない。

読書感想文は、制約がある割に書くべき内容は不明瞭で、原稿用紙のルールは細かくて、書くのも読むのも一苦労だ。こんなものを小中学生に書かせていては、作文が苦手な子供が増えるのは目に見えている。中には、子供たちが文章を書く機会を設けないといけない、と考える人もいるだろう。しかし、そうは言ってもやはり読書感想文は悪手だと思う。もっと取り組みやすく、楽しい作文があるはずなのだ。読書感想文の所為で、一度でも作文に苦手意識を持ってしまった子供は、それこそ言葉を自由に使えないまま大人になってしまうのではないか。

今や言語は、古くから使われ語り継がれてきた「紙と筆による、高貴で品のある文化」ではなく、「誰にでも使える、鋭利で汚い武器」である。そういう時代なのである。言葉で人を傷つけ罵るのに躊躇いのない人だっているのである。読書感想文を書かせたって、子供は端麗な文章を書こうだなんて思ってくれない。大人は、読書感想文とは別の形で、もっともっと日常に寄り添った形で、文章を作ること、読むことの楽しさと奥深さと危なさを子供達と一緒に学んでいくべきなのではないか。