『表現を仕事にするということ』を読むということ

 小林賢太郎さんの著書『表現を仕事にするということ』が、先日発売された。同書には、私も購読している「小林賢太郎のノート」の記事を加筆修正した文章も載っており、確かに目次には見覚えのある言葉がいくつか並んでいた。
 ある項目について、noteに書かれた文章と、この本に載っている文章を一字一句読み比べてみた。それを通して純粋に感じたのは、「noteに書かれた文章の方が心に沁みる」ということであった。
 思っていたよりもずっと多くの表現が修正されており、その修正はおおかた内容を削減する方向に働いていたと感じた。しかし、修正された箇所にもともと書かれていた内容が、出版する上で不適切なものであったかといえば、全くそんなことはない。むしろ、小林賢太郎さんの心により近いところから生まれたのだろうなと感じるような言葉ばかりが省かれていたような気がする。
 小林賢太郎さんが書くnoteは、おそらく「小林賢太郎」が書いたものではなく、「その時その瞬間の小林賢太郎」が書いたものなのだろう。そして本として発売するにあたって修正された際には、それがより普遍的で、感情が希釈された「小林賢太郎」が書いたものになってしまったように思う。小林賢太郎という「生きて、楽しませる」表現者を観る私にとってそれは、何か綺麗事のために不必要に殺されてしまったものを感じさせるような気がした。
 でも、これが「表現を仕事にするということ」なのかもしれない。半永久的に残る作品にとって、刹那の感情というものは不要なのであり、『表現を仕事にするということ』を読むということは、小林賢太郎さんをただ一つの作品製造マシンとして捉え直すということなのかもしれない。
 とりあえずこれからも「小林賢太郎のノート」の更新を待ちながら、後藤も待ちながら。