『読書感想文の所感#8』

〜エリートデリート〜

どんな分野でも『消す』という作業は簡単なように見えて難しい。これは完全に個人的な話なのだが、先日パソコン内のフォルダを手当たり次第に消していったら、パソコンが正常に動作しなくなってしまった。『消す』というのは難しいな、とつくづく感じた。

話を戻そう。そもそも一冊の本を読むと、やはり多種多様な感想が出てくることもあるわけで。それら全てを原稿用紙5枚に収めようとすると、なんともはちゃめちゃな文章になってしまいがちである。読書感想文のみならず、文章は『書く』と『消す』の2つの作業を何度も繰り返すことによって完成するものだ。そしてこの場合もやはり、『消す』作業の方が難しい。

『消す』為にはまず、いるものといらないものを見極める必要がある。そもそもこれが最高に難しい。一度書いている以上、やはりその文は何かしらの意味や意図を含蓄しているはずなのだ。しかしながら、それを容赦なく『消す』という段階を踏まない限り、その文章はどこか足取りのふらついたものになってしまう。
また、言葉は、頭の中から外に持ち出した時点である程度の形を保っている。モワモワっとしていた感想を、文章として、はっきりした言葉にして脳から出すと、私たちはあたかも目の前にある文章が元々脳内にあった感想と全く同じものであるように思い込んでしまう。ただし、言葉が自由度の高いものであることを忘れてはならない。言葉は自由自在であるから、一つの感想から一つの文章しか出ないなんてことは、まずあり得ない。必ず他の表現が存在し、必ず他の文体でも書き表すことができ、必ず目の前の文章が正解であるとは言えないのだ。

頭の中から取り出して形になったと思しきものを一度取り壊す、すなわち『消す』ことを躊躇ってはならない。もしもこれ以上消せないと言うのなら、それはこれ以上書けないということと同義であるとも言えよう。よく言えば完成、悪く言えばギブアップである。過去の自分がどんなに考え込んだ文章でも、客観的に見て不必要であれば容赦なくデリートできる、そんなエリートに私はなりたい。