北海道胆振東部地震から6年。当時を振り返る。


6年前の9月6日午前3時7分。
ゆさゆさとした横揺れを感じて目が覚めた。
スマホは気づけばビービーと緊急地震速報を受信してアラートが鳴っている。
幸い、ベッドのまわりにはカーテンレールに吊るしてあるプラスチック製の風鈴くらいしか脅威になるものはなかった。
おかしいと感じたのはその数秒後。

ガタガタガタ!!

横揺れがさらに大きくなり、ベッド脇のカラーボックスの上にあったぬいぐるみが落下した。

私が当時住んでいたのは北海道の空知中部。
この地域の最大震度は4だった。
最後に記憶に大きく残る地震で脅威を感じたのは、2011年の東北地方太平洋沖地震くらい。
それくらい地震のない地域で、もうかれこれ1分以上は揺れている。
異常だ。ようやく理解した。

その時の私は先月まで勤めていた学習塾のスタッフを辞め、実家で転職活動をしていた。
仕事の心配をしなくてもよかったのが救いだった。

そしてわりと頻繁に呟いているが、私は地震にトラウマがある。
トラウマとなった地震も、秋口に、明け方に叩き起こされる揺れだった。
恥ずかしながら冷静に出口の確保などと考えられず、恐怖でベッドの上から動けない有様だった。
とにかくこの地震はどこが震源でどこに警報が出ているのか、スマートフォンを駆使してTwitterやYahoo!!地震速報を巡回した。
そして表示されたのは

震源地:北海道胆振地方東部

背筋がぞっとした。
胆振東部にあたる苫小牧市には当時90歳になる祖母が1人で暮らしていた。
祖母の家からは海が見える。
もし津波がきたら、助からない。
頼むから無事で居てくれと願った。

私が情報収集をしている間も揺れは続いていたが、
父は即座に祖母に連絡を取り、
母は普段野球中継を聞いているラジオと懐中電灯を探していた。
我ながら、災害時に親に甘えっぱなしだったと反省している。
祖母と父が電話をしている最中、私はいざという時に入れていたNHKニュース・防災アプリでNHKの中継を確認していた。

持ち前の声のデカさを駆使して情報が確認出来次第、家中に
「震源地、胆振中東部!」
「津波の心配なし!」
と家族に叫んでいた。

そして、揺れがようやく落ち着き、
実家を出た弟の部屋が一番避難に適切だったので、家族3人で弟の部屋に避難した。
ちなみにこの時3時15分くらい。
既にテレビはつかず、外の街灯も消えていた。
ラジオで北海道全域停電という前代未聞の事態を聴いた。
即座に風呂場へ行き、湯船に水を張ったが、結果的に私の住んでいた地域では断水は起こらなかった。


実は私は翌々日から札幌へ遠征へ行くことになっていた。
THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS SS3A Live Sound Booth♪
のライブビューイングに参戦予定であった。

そのため、とあるものが潤沢にあった。

ルミカライト 大閃光オレンジとミックスペンラpro3本。LR44 ボタン電池10個入り12シートだ。
オタクでよかったと心から思った。

日頃の備えを怠っており、懐中電灯は2つのうち一つがつかず、もう一つも予備の電池がなかった。
私は迷わずミックスペンラに電池を込め、両親に渡した。
(父は新しいガジェット大好き人間なので、たいそう楽しそうに操作をしていた。ちなみにこれをどうするのか根掘り葉掘り聞かれて、オタクは大ダメージを負った。)

その間に母は、当時室蘭に住んでいた弟夫婦(翌週に結婚式を挙げる予定だったのでこちらも修羅場だった)と電話で連絡を取り、特段大きな被害がないことを確認していた。

そして夜が明け、空が白み始めたころ、
北海道全域停電の原因が厚真町の火力発電所が被災したものによること。
復旧の目処が立たないことがラジオのニュースで流れてきた。

ここから、約2日間半にわたる、停電生活が始まった。

以上が地震発生から初動2時間の流れである。


【ここまでの反省】

・自分の地震への耐性のなさ、危機的状況での行動力のなさへの自覚がなかったこと


前述のとおり、私はとある地震がきっかけで地震が大の苦手である。そのことは自覚はあった。しかし、何をするべきかを頭で理解していても、恐怖で行動出来なかったのである。
まさか自分がここまで動けないとは自覚する機会がなかった。幸い家族が居てくれたから、五体満足、怪我ひとつなかったわけだが、独りでもっと揺れの大きい地域で暮らしていたら、怪我どころか命さえも危険に晒していたかもしれない。
トラウマを抱えているからこそ、日頃からの地震への想定、シミュレーションが自分には特に必要だと感じた。


・復旧の目処が立たない停電に対する備えが脆弱だったこと


ラジオで北海道全域停電の情報を知ったが、私が停電に気づいたのは、モバイルバッテリーの充電をしようとした時であった。
当時USBケーブル充電式のモバイルバッテリーを2個持っており、念のため全て充電満タンにしておこうとしたら、時は既に遅かった。
そのモバイルバッテリーは父の車で充電することが出来たのだが、災害時に非常に悠長な行動であったことは否めない。
その後、太陽光発電式モバイルバッテリーを購入したが、壊れてしまい、現在モバイルバッテリーを所持していないので、近日中に購入をしようと思う。
ちなみに、もしこの地震があと3ヵ月遅く発生していたら、北海道では灯油ストーブを使い始めている季節であること、電化製の暖房器具が使えないことを考えると、人的被害は絶望的だったと感じている。


・インターネット情報収集の効率が悪かったこと


発災時、私はスマートフォンでNHKの中継を確認していた。しかし後の大規模停電を考えたら、発災時の情報収集にスマートフォンによる情報収集はかなり悪手であったと今なら思う。
発災時の情報収集はラジオで十分であり、スマートフォンは今後必要になる空いているガソリンスタンドの情報、給水車の情報、医療機関の情報収集にあてるべきだったと反省している。
災害時の非常持ち出し物の中にラジオが挙げられるのは、このような理由が大きいのだと思う。


さて、眠気がきたので、9月6日朝以降の大規模停電の中での生活状況は明日もしくは明後日にまた纏めて掲載します。

改めて、北海道胆振東部地震で不幸にみまわれた皆様に、心から哀悼の意を捧げます。
そして、これから起こる災害で、一人でも多くの命が助かることをお祈り申し上げます。

#北海道胆振東部地震
#震災被災

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?