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「わたしのご贔屓様は、珠城さんです」と自覚するまでの話

宝塚ファン用語に「ご贔屓」という言葉があり、特別に大好きでお慕いするタカラジェンヌのことをこう呼びます。
宝塚が好きだ、という話をするとしばしば「推しがいるんですか?」と聞かれることがあり、「推しじゃなくてご贔屓なんだよね…」と思いつつ、宝塚の話が出来ることが嬉しくて熱く回答したりするのですが、特定のタカラジェンヌを「ご贔屓」と呼ぶことは、個人的な感覚としては、一種の決意表明的な重みがあるように思います。

わたしの主観では、「推し」と「ご贔屓」の重要な違いは「ご贔屓様はただ一人である」ということです。
宝塚ファンの方なら実感として頷いて頂けるかと思うのですが、例えば「花組ではAさん、月組ではBさんがご贔屓です」という言い方はまずしない。
400名近くいらっしゃるタカラジェンヌの中で、自分にとって唯一無二に特別で、大好きな、愛と尊敬と畏怖とラブとときめきと幸せを祈る気持ちと…あらゆるキラキラした気持ちがそこへ向かう、ただひとりの人…というのがわたしの考える「ご贔屓様」です。

わたしは宝塚のファンになってから約9年が経つのですが、特定のご贔屓様がいる時期といない時期とがあります。
この文章を書いている今、わたしにはご贔屓様がいます。間もなくご卒業を控えた月組のトップスター、珠城りょうさんです(あ〜、お名前を綴るだけでどきどきします)。

珠城さんへの熱い思いは「月組観劇日記」というZINEを丸々一冊使って、あらゆる言葉を総動員して書いているので、ぜひお読み頂ければ嬉しいのですが(我ながら、信じられないくらい気合の入った本です)、この文章では、自分の記録として「わたしが如何にしてご贔屓様をご贔屓様と思うに至ったのか」を書き残しておこうと思います。


わたしが「わたしのご贔屓様は、珠城さんである」と自覚したのは、2020年10月、『WELCOME TO TAKARAZUKA /ピガール狂騒曲』の大劇場公演中でした。

特定の誰かに夢中になるときって、いわゆる一目惚れ的に「今、雷が落ちた!」みたいな時もあれば、じわじわと「気づけば四六時中あの人のことを考えている」時もあると思うのですが、当時のわたしは完全に後者でした。
気づけば只でさえ沢山確保していたチケットを更に買い足し、気づけば大劇場に入り浸り、気づけばオペラグラスは珠城さんにロックされ、気づけば舞台写真の束を手に抱え、気づけばまだ持っていないブルーレイや過去の出版物を買い足し、気づけば東京遠征を組み…。

そんな山盛りの「気づけば」の中でわたしがしたことの一つに、「過去の観劇の感想を読み返す」ことがありました。
わたしは文房具フリークで、ノートを書くことが大好きなので、観劇の記録や感想はノートに手書きで残しているのですが、「過去の自分の目線で見る珠城さん」に出会いたくなり、ふと読み返してみたのです。
そうしたら…わたし、この思いを自覚するずっと前から、珠城さんのことめちゃめちゃ見つめてた!お慕いしてた!!!こんな熱意たっぷりな思いをわたし、珠城さんがトップになられてこの方、実に4年も抱えてたの!?

そもそも月組さんだけ観劇回数が明らかに多い。大劇場以外の別箱公演にも足繁く通っている。初日や千秋楽など重要な日のチケットを押さえて観劇している(2017年1月1日に珠城さんのトップお披露目公演の初日を観劇したことは、過去の自分を最も褒め称えたい)。珠城さんがトップになってからの大劇場作品のブルーレイは全作ほぼ発売日買いしている。
物的証拠(?)だけでも枚挙に暇ありません。

何よりも、過去の自分の文章。
「この作品の珠城さんがいかに素敵か」や「ご挨拶などから垣間見える珠城さんの素晴らしい(そして時にキュートな)人間性」が、結構な分量と熱量をもって書き綴られていました。
観劇した全てを忘れたくなさすぎて、未来の自分に向けて刻みつける!という気合を感じて眩暈を起こすほど。数年前の自分からの分厚い手紙を今受け取った、と思いました。
(月組さんだけのことを書いている訳ではありませんが、約5年間でノート8冊に渡る膨大なアーカイブがあったからこそ、わたしは「月組観劇日記」を作ることが出来ました)

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しまいには「ある年にTwitterで最も多く呟いた人名が『たま様』だった」「夢に珠城さんが出てきた(複数回)」「新幹線で珠城さんの出身地近くを通るときドキドキする」など、めちゃめちゃときめいてるじゃん!なSNSの記録まで、数年越しに発掘される始末。


ここまで熱心な感じでいたのにどうしてわたしは「珠城さんがご贔屓です」と自覚し、公言するのに数年(4年!)も掛かっているのか…?
わたしがただ単に自分の気持ちに対してボケナスだったというのもありますが、「ご贔屓様」とはそれほどまでに重い言葉なのだ…とも思いたいです。

「この方をお慕いします」という思いを特別な言葉で表明することで「この方のファンであることに恥じない自分でいます」という精神性までもが芽生える。
何をもってご贔屓とするかは人それぞれかと思いますが、今のわたしにとってご贔屓様とは、そのような存在です。

(おそらく宝塚の世界では、ここでその人のファンクラブ(いわゆる「会」)に入るのが主流なのでしょうが、わたしはあくまで自分のペースで、自分の距離感とやり方でお慕いしよう、というスタンスでいるため、会には入っておりません。そういうファンがいてもいいよね…と思ってます)


最後にもう一つ、わたしが「ご贔屓」について思う持論のひとつは「ご贔屓様は自分の意志では選べない」ということです。
お顔立ちや舞台での居方が好みであるとか、この人を好きになろうとか応援しようとか(勿論そういう要素が追い風になっていることは大いに認めつつも)、そのような嗜好や意志の力を飛び越えたもっと大きな何かで、誰かに思い焦がれる。
その人の魅力や輝きを堪能することに、自分の生活や感性がめきめきとチューンナップされていく感覚は、「ご贔屓様」がいる経験をされた方なら覚えがあるのではないでしょうか。

人が人に惹かれる引力。その不思議さと唯一無二の喜びを、噛みしめずにはいられません!


2021年8月5日 「歌劇8月号」珠城さんのサヨナラ特集発売日に




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