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全ての人が自己決定できる社会へ

メンバーがリレー形式で綴るmiraco のnote
今回は、幽霊部員気味なハルナのお話です。
 
突然ですが皆さんは今までの人生、後悔はありますか?


私は、小さな後悔はあれど、大人になってから…正確には高校以降の人生においては、大きな後悔も、怒りや憤りを感じたことも、実は殆どありません。
そのことと、私がmiracoで成し遂げたいものには大きな相関がある…と、今回のリレーnoteで気づいたのです。


60点の女の、80点の人生

私は学生の時から、「ほどほど」の存在でした。特別出来るわけでも致命的に出来ないわけでもない。何でも及第点は取れる、60点の女というのが、私の中でしっくりくる表現です。

新卒で入った会社は今思えば典型的なセクハラ・パワハラのある会社でしたが、「60点の女」を自称する私は、組織の中で警戒されることもなく人々の懐に入り込み、その環境を乗りこなしてきました。

そして出産後に思うように働けなくなった時も、それを女だからとか社会の構造のせいだとか思うことはありませんでした。自分が組織にとって替えの効かない人材ではない、所詮60点は60点か・・・というのが、正直なところでした。


さて、そんな60点の女ですが、あなたの人生は何点?と聞かれたら80点か85点をつけると思います。なぜなのか?それは、ここまでの人生の大きな岐路(進学や就職、結婚、出産など)を、基本的には全て自分の意志で決めてきている(と感じている)からです。



「人間で良かった」という感覚

私はBBC Earthみたいな自然界のドキュメンタリーとかが好きです。生命の素晴らしさや英知に触れて感動するのはもちろんなのですが、実は毎回「人間で良かった」とホッとします。

だって、もし私が鮭だったら、たくさんの卵を抱えて、食べるものも食べられず、必死の思いで濁流を遡って、ようやっと大事な卵を産み落としたらもう絶命するしかないわけです。

「卵産みたくない!」とか「川上るのしんどいので辞めます!」とか、たぶん言えないんですよね(そういうアウトローな鮭もいたりして)。

そう思うと、色々と不自由さはあるものの、人間ってなんて恵まれてるんだろう…と、思うのです。保育園の先生に「ママ出張が多くて大変ね」と労わってもらった時に、「子育てしながらガゼルを狩ってるライオンのメスほどではないです」と返したら、大爆笑されました


もちろん失敗はあるけれど、自分の意思決定の結果だと思えば頑張れる。正しくは、その決定を良くするも悪くするも自分なので、良くなるように行動するしかないと思っているのです。


運が良かった・・・でいいのか

私がそんな、ちょっとおかしな思考回路の持ち主だということはさておいて。

ある時、「自分で決める」が出来ている自分は、運が良いのだということにも気づきました。
学びたい領域があった、やりたい仕事がみつかった、自分の意思が尊重される職場に移れた、家族が健康である…など。


でも、これを全て、運で片付けてしまっていいのでしょうか。運が悪い人は、自己決定をさせてはもらえないのでしょうか。

ちょうど時を同じくして、ものすごく仕事ができる、そして仕事をしたい!という気持ちに溢れた友人の一人が、第一子が待機児童になったことをきっかけに仕事を辞めようかと思っている…と連絡がありました。

彼女は、私の住む行政区域と隣合わせの場所に住んでいて、たまたまそのエリアに保育園が少なかった。たまたま彼女はその地域の中で所得が高かった(※その地域の保育園入園の要件では、点数が同じ場合に収入が低い方から優先的に入園できる)、そんな偶然が重なった結果でした。


私から見れば80点、90点の能力を持つ彼女がなぜ、自己決定させてもらえないのか? やる気のある人の活躍を、なぜ社会が妨げるのだろうか?
これだけ、労働力が足らないとか言いながら、この人を働かせないなんて、その会社とこの国にとっての損失だ。

尊敬する友人である彼女の境遇に憤りを覚えたというのもありますが、どちらかというと「日本」という組織を運営する経営視点で見たときに、大事なリソースを無駄にしていることに対する、「筋の通らなさ」が不満でした。

当時比較的小さな会社にいたのですが、そこでは優秀な社員が働き続けたいと言えば、それに耳を傾け、制度を変え、投資をして、サポートをしていました。同じことを、なぜ「日本」という大きな組織の経営者はやろうとしないのだろうか?

組織の話をするなら、組織の運営側にリーチするのが妥当だろう。そう思ったことが私をmiracoが主催する院内集会へと向かわせたのです。


憤りはネガティブなだけじゃない

そこには、なんというか私の人生では出会ってこなかった人がたくさんいました。待機児童問題が1番熱い時期だったこともあり、問題意識と憤りの混ざった熱気に溢れていました。

私は元来、ネガティブな気持ちを人に伝えるのが好きではありません。怒りも悲しみも。いつでも明るい、ポジティブな人でありたいと思っています。

でも、その集会で初めて、憤りの感情が必ずしもネガティブなものではないと知りました。みんな憤りつつも、前向きに建設的に、未来へのアクションを考えていた。こういう活動なら、自分も一緒にやってみようかな…そんな風に思う、新たな出逢いでした。

とはいえ、すぐに「やります!」とも言えず、その後、暫くウダウダしていた私に、既に登場したりょうたっちさんが声をかけてくれたことで、今こうしているわけです。



自己決定の楽しさも厳しさも

そんな私がmiracoの活動を通じて実現したいのは、すべての人が自己決定できる社会です。

考えてみれば私は、自分のことは自分で決めなさいと言われて育ってきました。
性別で何かを決められたことは全くなく、親からやめた方が良いと言われたことさえ、覚えている限り3回だけ。だから、自分で決めることに慣れているし、決められるのが当然と思っています(夕飯のメニューはたまには誰かに決めてほしいけど)。

自分が当たり前に思っていることが、実は自分の生きてきた環境によって培われたのだと気づいた時、初めてこの環境を当たり前にしなければ!と思うようになりました。



自分で決めることは、ときに厳しい。誰のせいにもできない分、逃げ場がない。それでも、自分で決めた方が、自分自身を肯定出来るはず。

それこそが、及第点ギリギリの私が、自分の人生には高得点を付けられる理由でもあります。

だからこそ、多くの人の自己決定を阻む社会の仕組みや、無意識のバイアスなどを取り払っていきたいのです。自分の子どもたちの世代には、それがあり前であってほしい。

みなが自分の人生に及第点ではなく、合格点を付けられるようになったらいい。「人間で良かったー!」と、全ての人が心から思えたらいい。そう思っています

(文責:ハルナ)


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