鬼をいつから仮面だと思っていた?



今日は節分!

鬼の仮面を被ったパパとかに鬼は外福は内よろしく豆をぶつけ、年の数の豆拾って食べる日がやって来た。私かて幼子のとき、節分の時パパ鬼見て号泣、弟なんかは顔硬らせガチでパパ鬼に豆投げ攻撃せんとばかりだったなあなどと思い出すばかりである。



結構前にとあるお姉さんの家で昼飲みをさせていただいたとき、別に節分とかではなかったが、男の子が鬼の仮面を被って小さな女の子を怖がらせて楽しんでいた。「怖いよう…」と俯きつぶやく小さな女の子の姿が可愛いのだろう、何回もやってた。で、怒られて、で、もっとやらせてくれと泣いてたのがなんとも愉快だった。それは、好きな女の子に意地悪したい男子の権化のようで。ギャン泣きの阿鼻叫喚もうるっとキュートだった。

実は、その出来事における一番のインパクトは、この男子的な根源ではないところにあった。男子的に怖がらせているときに、男の子と同じくらいの大きな女の子(泣いてる女の子の姉である)が、大人たちに向かって「鬼、誰?」と聞いていた。これが場面に似つかわしくなく、シュールで、二言で的確で、なんだか面白かった。大きな女の子は鬼が人間で仮面を被っているメタ構造を、ちゃんとわかっている。で、私は、「このメタ認識をできるようになるのは一体何歳くらいなのだろうか」ということをつい考えるようになった。


目の前の現実にほどこされた装飾を装飾と思わずに、素朴に現実と錯覚する。鬼の仮面をかぶった誰かを、鬼の仮面をかぶた誰か、ととらえるのではなく、そのままに「鬼だ」と感覚する。これは成長過程であるし、次第に失われていく感受性なのだろう。

いま大人になったけど「ああ、鬼だなあ」「ああ、なまはげだなあ」「ああ、サンタだなあ」「ああ、上司に褒められたなあ」「ああ、」とこの装飾で騙して心を慰めるのも悪くないのかもしれない、などと考える。別に発達した感受性で否応なしに感知するようになる装飾の裏に隠れた現実、本音、本性、真実に鈍感になる瞬間があっても人生はたぶん楽しいだろう。

なんだか、今年の節分にはそんなことを考えた。



夢に向かって頑張ります‼