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恥ずかしさに慣れる

前回のnoteの最後で、言語を学び始めたころは一人で発話練習を行うことをおすすめする、と書いた。今回のnoteではその「独り言」について話してみる。

言語学習をするうえで大きな障害となるのが恥ずかしさだと思う。もちろん言語学習の中で難しいことはほかにもたくさんあるが、そのほとんど、例えば、母語の影響や特異な発音など、は学習者にはどうしようもないことである。しかし恥ずかしさというのは学習者の働きかけによってある程度対処できる部分はあると考える。
もちろん、まったく恥ずかしく思わないようにするというのは不可能に近いかもしれない。大勢の前で話すとき、初対面の人と学習言語で話すときや、普段あまり話さない話題について話すときにまったく恥ずかしく思わない人はさほど多くない。こういった状況では母語であっても恥ずかしさを感じるものだ。
しかし、恥ずかしさに「慣れる」ということは可能であると考える。

恥ずかしさというのは主に間違えてしまうことへの不安に起因すると思う。しかし、どんなことにおいても学習というのはミスがつきもので、ミスから学習するものだ。リオネルメッシは百発百中でシュートを決めてきたわけではないし、イチローは野球を始めたころからあんなにヒットを打てたわけでもない
問題なのは、そんなことは全員頭の中ではわかっているということだ。結局誰もミスをしても気にしないのだ。しかし、日本人からしてよりオープンで他人のことを気にしない外国人ですら、「日本人と日本語を話すと、ミスをするたびとんでもなく恥ずかしく感じる」と言う。カラオケで歌っている間店員が入ってくるとき、たとえその人が卓の上にコーラを置いてたった2秒で帰ったとしても、喉がきゅっとなって言葉に詰まり、一瞬部屋の中の空気が凍る(あくまで僕の場合)。それと同じで、たとえ聞き手が何も言葉を発さなくても話し手は緊張してミスを恐れてしまう。ということは、頭でどうにかできる問題というわけでもないと思う。結局「人をかぼちゃだと思え」などと言われても目の前に人がいるという事実はそう簡単に否定できない。
ではもし本当に一人の空間を作ることができたら少しはマシになるのではないだろうか。

そこで一つの選択肢となるのが「独り言」だ。
誰にも聞かれないようにすればミスを気にする必要もなくなる。というよりも、誰にも聞かれないからミスをしているかどうかさえ分からない
独り言が有効な理由はそれ以外にもある。
言葉を「話せるように」なるうえで大事な「0から文章を作る」という練習になるからだ。考えてみると、全く0から文章を作るという練習は先生がいないとする機会がほとんどない。教科書の練習問題には少なくとも日本語の文章がある。どこにも書いていないものをどこにも書かずに声に出すという機会はめったにない
さらに、自分が覚えなければならない単語を知れるのだ。自分の一日を話したいとなれば、「する」「行く」などの動詞、過去形を学ばなければならない。「学校」「仕事」などもだろうか。明日することを話すためには未来形を学ぶ必要がある。もちろん教科書に出てくる単語はよく使うから教科書で紹介されるため、ゆくゆくは覚えなければならないが本当に優先して覚えなければならない言葉を知るためには独り言は有効だ。

話題は自分で決める必要があるが、やはり自分の一日について話すのが最初はやりやすいだろう。一回目は自己紹介などもいい題材だ。学習が進むにつれて話題も難しくしていったほうがいいだろう。前に見た映画の話でもいいし、何かニュースについて自分の考えを話しても面白い。そのレベルに来ると、ミスを自分で見つけることもできたら尚よしだ。

しかし、最初のうちは本当に何も気にしなくていい。ミスを気にせずに、文章を作ること「話す」という活動に脳を慣れさせる。そしてだんだん慣れてきたらより正確により早く文章を作ることを目標にするといい。

そして、誰かにあこがれるのもモチベーションとなる。何かYouTubeでかっこよく学習言語を話す人を見つけてその人をまねするように話すと楽しくなるかもしれない。


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