見出し画像

鳳仙花の相反

飲みの席でさんざん度を過ぎたじゃれ方をした挙句に、ふたりでしれっと消えてしまったので、勘のいい彼女は気づいていて、翌朝早くに「ねえ、寝たの?」と面白そうに電話をかけてきた。その問いかけがあまりにもストレートだったせいか、はぐらかすのもずるいように思えてつい肯定してしまった。ここではぐらかしたら、なにかが汚れてしまう気がした。

「あなたたち、付き合うの?」と彼女は重ねて尋ねたけれど、「え、寝たからってそういう話をしないといけないの?」とナチュラルに返してしまったことに、一拍置いて自分でも笑えたし、わたしより奔放なはずの彼女がその問いを投げてきたことにも笑えた。寝るのはただの好奇心だけれど、付き合うのは関係性だから、そんなふうに安易には持ち込めない。そこに他愛なく踏みこめるほどの純粋さや真っ直ぐさなど、もう失くしてしまった。

「でも、彼がずっと好きだと言っていた女の子と澪とを照らし合わせてみて、ああ、彼そういう女の子がタイプなんだ、ってよく分かった」と彼女は呟いた。「どんなのよ」と笑ったら、「ちゃんと向かい合って話を聞いてくれる子」と返ってきて、ああ、おそらく外れてはいないけれども、と思うなどした。


物分かりの良さを、よく愛される。

人間だれしも、分かってほしがっている。本当の自分を見てほしいと願っている。ありのままの自分で愛されたいと思っている。けれど、わたしはそんな薄ら寒い欲望と等分の強さでおそらく、分かられてたまるもんかと思っているし、本当の自分など誰にも見せたくないと思っているし、ありのままの自分など愛されるわけがないと思っている。

わたしを抱く男の多くも、たぶんそうだ。

そんなお互いのアンビバレンスを飲み込んでわたしは、特定の関係性の中で、相手が見せたいものだけを、相手が見てほしいように見る努力をする。相手が分かってほしい部分だけを、相手が適切だと思うやりかたで解釈する努力をする。それ以外の部分を掘り下げない努力をする。それ以上の本質など、相手が安心すれば勝手に晒け出してくるのだから。

こういうわたしの在り方を人は、「包容力がある」と呼んだり、「寂しい人間だ」と詰ったり、「他人に無関心」と形容したり、「暖簾に腕押し」と揶揄したりする。寝たいと思うのは相手の心に興味があるからだ。けれど、それは無遠慮にまさぐるべきものではない。


わたしは、男に「こんな男だとは思わなかったでしょう」と言われるのが好きだ。相手が日ごろの武装を脱いで、安心して「女の前でこうありたい自分」でいられる状態を作り出すのが好きだ。

そんな男だと思ってたよ。わたしと寝ちゃうような男だと思ってたよ。だからこっちに来て。その自意識を、舐めさせて。


「お前はグレーゾーンを許容しすぎなんだよ」と言われたこともあったけれど、グレーゾーンをグレーゾーンのままにしておくことが、わたしにとっての「適切」であり「安定」なのかもしれない。

相手を侵食しない、ということを、自分の存在規範としてわたしはとてもたいせつにしている。わたしの傾聴しぐさなど、傷つきたくないという自意識と傷つけたくないという傲慢の産物でしかないけれど、それでも。


***


男は己について多くを語らないままに器用に話題を繋げるタイプではあったけれど、それでも時折、すこし切実さの匂う言葉が口から零れるのが見えたので、そういう文脈は丁寧に受け止めるようにする。わたしは共感能力の極めて低い人間だけれど、相手がたいせつにしているものを嗅ぎ当てる能力と、それに対する価値判断を留保して「相手がそれをたいせつにしている」ということ自体をたいせつにする態度に関しては、ここ数年で随分磨かれてきたように思う。

相手への興味を明確に示さずに会話を成立させられるひと、というのはあまり多くないけれど、男は昨夜一度も、わたしの心に不用意な触手を伸ばしてこなかった。わたしが男の言葉の端に何かを嗅ぎ取ったように、男もわたしの言葉の端に何かを嗅ぎ取って、最適解を返してよこしたような気もする。


セックスにおいては、正しさの有無も幸福の有無も問題にならないと思っている。ただ、身体のふれあいと思考回路のまさぐりあいが気持ちいいかどうかだ。

セックスは、お互いの身体の凹凸をたしかめながら、お互いの心の凹凸を知ってゆく営為であってほしい。その心の穴のささくれた縁を、戯れに舌でなぞる。からだの、いちばんやわらかいところに、触れて。こころの、いちばんやわらかいところには、触れないで。


***


夜半、酔った彼女に飲み足りないと呼び出されたので、ルージュだけ引いて街に出る。イヴ・サンローランの2番は、もう廃盤になってしまっているけれど、大好きな夜の色だ。pourpre intouchable。

彼女のいる店に向かう途中で、男のマンションの下を通りがかった。部屋の窓は、いつも少しだけ開いている。声を抑えられないふりをするから、キスで塞ぐか指を咥えさせてほしい。


ある人畜無害な男についてどう思うかと彼女が聞くので、「優しそうだよね」と通りいっぺんの返しをしたら、彼女に「澪はもうちょっと強引な人が好きなんだっけ」と訳知り顔で笑われて、「そうだね」となかば自棄になって居直るなどした。「そうか、澪はああいう男が好きなのねえ」とサンプル数1で語る彼女を眺めながら、ああいう男も好きだけど、あなたが寝てるあの男とも寝てみたよ、あっちも好きだよ、などとぼんやりと思った。


身体だけの関係に心をひと匙、くらいがいまは快適だ。寝たいと思う男は何人かいるけれど、寝た男にも寝てみたい男にも恋などしていない。ただ、性的好奇心と知的好奇心を混同しているだけだ。自分で男を育てると執着してしまうのが、自分の性格上嫌というくらい予想できるから、当分は完成品ばかり愛でながら生きていきたい。

お互いが安全圏だと認識している浅瀬で快適な水遊びをしていたい。ひりつくような本音など零したくないしぶつけられたくもない。相手のドアを相手が開けてくれない限りはいたずらに叩こうとしないから、一緒にぬるい風で暖簾を揺らして遊ぶことを楽しみたい。わたしのドアは、開けたくなったら開ける。そんな日が来るのかどうかは、わたしにさえ分からないけれど。

水遊びのあとにきちんと何もなかった顔ができないと、安い火遊びに堕してしまう。

彼女と別れて街をふらふらと歩いていたら、わたしを抱いた男が仕事着のまま、「お疲れ!」と言いざまに駆けていった。ああ、とてもいい笑顔だ、と思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?