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たくさんの後朝

夏至の夜に見る夢には、未来が描かれるのだという。時の節目に見る夢には、未来を告げる力がある、と。1年でもっとも短い夜に、わたしはあのひとの夢を見た。酷い、酷い夢だった。未来を告げる夢ではなく、過去の傷を愛しみながら舐めるような夢だった。


わたしは海辺で幼子を抱いていた。テンプレートのようなぼやけた目鼻立ちに、テンプレートのようなパステルカラーの幼児服を着た、テンプレートのような幼児。概念としてのみどりごは、抱いていてもどこか重さがない。太陽は柔らかに光を注ぎ、白砂の浜はどこまでも続き、凪いだ薄青の海は、その果てを靄のうしろに隠していた。

遠くから、人影が歩いてくる。かおかたちが判別できなくても、1年以上会っていなくても、わたしにはあのひとだとすぐにわかった。日に焼けた肌に白髪混じりの髭を蓄えて、髪は短く刈り込んで、目尻にやさしい笑い皺を刻んで、愛されるより愛したい上唇をすこし歪めて、消えぬ苦悩の痕を額に残した、あのひと。

癖で顎髭を撫でるあのひとの左手で、薬指のリングが陽光を反射してきらりと光った。その指に触れられることは、あのころからすこしも怖くなかった。茶色がかった瞳を覗き込んだら、あのころと同じ寂しい影が見え隠れして、わたしはなぜかうれしくて、同時にとてもかなしくなる。傷ついた鳥ばかりを掬い上げて世話を焼いているその手は、ほんとうは誰よりも寂しくて満たされないのだと、あのころあのひとはわたしの粘膜にそっと教えてくれた。

あのひとが子をもちたいと強く願っていたことを知っている。随分苦労もしたらしいけれど、結局その願いを諦めたことを知っている。行き場を失ったその愛を、その熱情を、後進の若人たちにただしく注いでいることを知っている。けれど一抹残ったただしくなさを煮詰めるようにしてわたしを抱いたことを知っている。あのころあのひとがわたしを抱いたのは必然だったと知っている、否、願っている。


あのひとがわたしの目の前に立つと、腕の中で赤子が大きく身じろいでわたしを振り仰ぎ、その目鼻立ちが急に輪郭を際立たせ、わたしはその瞬間、天啓のように悟る。

―――ああ、このひとの子なのだ。

「せんせい」、と声をかけて、ずしりと重みを備えた赤子をそっと差し出すと、あのひとは、虚を突かれたように目を見開いたあと、やがてすべてを悟ったらしく砂の上に膝を折り、さらに数拍おいて、安堵と絶望と救済と慟哭のごった煮のような表情で、くしゃり、と泣き笑いをする。細い目がさらに細められて、目尻の皺と溶け合う。その表情の変遷は、なぜかやけにスローで、なぜかやけに愛おしかった。

じりじりと肌を焼く陽差しの中、恐ろしいほどの多幸感に包まれながら思う。

―――わたしはついに、このひとをただしく満たしてあげられたのだ。


わたしはそんなにも、誰かの穴を満たして愛されたいのだろうか。

***

あのひとと寝たのはわたしが、己の選んだ道を誇りつつも確信を持てず、不安に怯え、揺れに揺れて、それでも強がることしかできずにいたころだった。好いた男も好いてくれた男も一緒くたにして振り捨ててきたから、これから心を許して抱かれることのできる相手が見つかるのだろうかとか、いつか同じ狂気に捕らわれている相手に出会えるのだろうかとか、そもそも女でいられるのだろうかとか、そんなことばかりが頭を巡り、とにかく先が見えず、寂しくて、日ごと降り続く雨が花を濡らすのを眺めていると、どうにかなってしまいそうだった。

そうやって張りつめていた神経をあのひとは、動物同士が毛繕いをするように、どこまでもやさしく抱いてくれた。ただ抱くだけでなく、心の裡をきちんと見せてくれるひとだったから、わたしはあのひとの指先をちゃんと信じられた。


あの日々の中で、わたしが酔いにまかせて、「本棚のある一角を見られることは、身体を見られるよりも恥ずかしい」と口走ったとき、あのひとが、「好きな映画を紐解かれることに、おそらくそれに近い感覚を抱くよ」と返してきたことをよく覚えている。

あのひとがこの町を離れてからも、日が暮れるまで好きな映画や本についてメッセージを送りあうような日々をしばらく重ねた。その感性レベルが心地よくて、好きな作品名を出し合うたびにお互いの好みへの理解が深まっていくことを幸福だと思った。相手の好きな映画だとか本だとかお酒だとか、そういう解釈の余地のあるものを教えてもらえるのは嬉しい。思考の襞をそっとまさぐりあうようなそのやりとりは、ある意味究極の自己開示のようだ。わたしを知るのが楽しいとあのひとが言うから、こちらもいつになく本音で晒け出してしまう。

―――ああ、このひとも、身体をなぞられるように思考回路をなぞられたいひとなのだ。


だからこそ、そんなあのひとが、「好きな映画のDVDを送るよ」とメッセージをくれて、さらに数日後小包が届いたとき、真剣に観よう、と思った。たとえばあのひとのしなやかなフィジカルを紐解くように。

小包を開くと、手書きの文字が舞い落ちた。そういう匂いをさせなかった人の一筆箋がしれっとLarge Red Interiorなのを、ずるいな、と思う。絵画、テーブル、毛皮。赤い部屋の中、それぞれのオブジェが対で描かれる。オーセンティックな「教養」の範疇にあるものが好きだし、オーセンティックな「教養」にあかるいひとが好きな、スノッブな女だ。


人の書いた字を見るのは、楽しい。お互いの名前を平仮名で綴るとき、末尾の文字をわたしとあのひとは共有している。冒頭の宛名書きに記されたその文字と文末の署名に記されたその文字は、同じ文字なのに明確に書き分けられていて、あのひとのちいさな拘りを見た。わたしが「せんせい」と呼ぶとあのひとはいつも、「その呼び方はやめてくれよ」と苦笑した。そういうわたしなりの距離の取り方を、あのひとは、すこしいやがる。平仮名で下の名前だけが書かれた署名を見て、ああ、きっとこう呼んでほしかったのだろうな、と思った。せめて平仮名で呼ぶことしかできなかったわたしだけれど、いつかあのひとの望む名であのひとを呼びたい、と思った。

一筆箋は枕元の壁に画鋲でとめた。のたくる文字が夢の中まで侵食してくればいいとあの日願ってしまったから、今さらあんな夢を見たのだろうか。


DVDを開くと、リーフレットからアークロイヤルがふわりと香って、喫煙歴があることは知らなかったな、と思った。適切に齢を重ねて適切に柔らかくなったあのひとの肌から、煙草を感じたことはない。映画を3本並べて、どれから観ようかと迷う。

1本目に手に取った「Into the wild」は美しい映画だったけれど、示唆されている事柄のほとんどをわたしはすでに知ってしまっていて、かといってもちろんそのことを知らないあのひとではない。そう考えたとき、わたしが受け取るべきメッセージはひとつだけだったし、その内容はきわめて適切だと思った。わたしがまだ実感として知らないこと。

Happiness only real when shared

残りのパートは、素直にあのひとの自己開示として受け取った。幼さと老成、真率と軽率、喪失と獲得、欲しかったものと失われたもの。取り戻したのちに失いなおすこと。

2本目には、「夜になるまえに」を選んだ。てらいなく性愛というものが好きなひとなのだな、とわたしへの触れ方と映画の好みとを照らし合わせて改めて感じ、そういうところも好ましいな、と思う。あの日々、わたしがどこまで身体をひらいても、あたりまえの顔をして穏やかに抱きとめてくれたから、わたしは抗いようもなく安心感に溺れていった。

性的関係の美しさは征服が自然であることに、そして、その征服がひめやかになされることにある

を、言い得て妙だなあと思う。あのひとと抱きあうとき、もっとふかくつながりたくて、いつも気づいたら自分で足を抱えていた。

そういえば、わたしが寝てきた男たちは、積極的な嗜好としてホモセクシャルに傾倒するタイプはいなかったと認識しているけれど、だいたいが相手への興味が高じると自然と寝たくなる性癖の持ち主なので、同性につよく興味を持った場合わりと抵抗なく寝てしまうのではないかと思う。あのひとはホモソーシャルのにおいをさせないひとだけれど、ホモセクシャルの気はあるのかしら、とふと思った。

3本目は、「4分間のピアニスト」。こういうものを好むのだと知ってほしいひとにだけそっと差し出すのにあまりに適した映画で、これを最後に残した自分を褒めたくなった。「知りたい」はそれなりに口にできても、「知ってほしい」とは言えないわたしたちは、口にできない何かを、詩やら本やら映画やら酒やら触れ方やらに仮託する。何かに仮託して己の弱い部分や歪な部分を曝け出すのは気持ちいい。あのひとが自分の昏い欲望を曝け出すのを見るのは気持ちいい。

あのひとの傷さえも、愛せると思う。

***

夢はただの夢で、あのひとがわたしに傷を晒しても、わたしにはあのひとの傷を塞げないことくらい知っている。心の腑分けをしあってみても、ひとつに溶け合えないことくらい知っている。時は流れ、これからまた夜が少しずつその長さを増す。

器用に夜に紛れることは上手くなっても、器用に夜を紛らすことは相変わらず上手くならない。雨の夜にはあのひとを思い出す。あのひとも、この町に思いを馳せるたび、頭の片隅でわたしのことを思い出してくれているだろうか。お互いの肌の記憶を手繰りながら、触れるだけでは伝わらないなにかを伝えたくて、わたしたちは永の夜離れの今もときどきこうして、訪いを請わないままに、果てのない後朝の文を交わしあうのかもしれない。



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