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滑らかな社会と辿々しいわたし

大判焼きをふたつ買う夢を見た。幸せになろう、と思う。

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年末、かつてとてもとても好きだった男の故郷の隣町の温泉に恋人と旅行をしたら、スリルとリスクに塗れて怯えながらも離れられない恋愛、を、日の当たる場所で手を繋いで歩ける生活、にしませんか、と恋人が言うので、そのようにすることにした。


結婚願望など微塵もなかったし、それを半ば公言してもいた。一方で、恋人は「普通」の結婚願望を公言していたし、言葉を選びながらではあるけれどもわたしに結婚願望の有無だとか子供を産む意思の有無を質しもしていた。嘘はつけないから、「今のところない。先のことは分からない」とだけ返した。両親は離婚している。不幸の再生産をしない自信などなかった。

当然今も自信は持てないのだけれど、やり直せないもの、不可逆かつ不可変のものがとても苦手なわたしは、「人生が長くなった現代、50年ひとりのひとと添い遂げられるとは思わない」という、ある種不誠実にも受け取られかねない恋人の言葉に逆に酷く安堵した。いつか壊すつもりでこの恋を始めたわけでは当然ないものの、ひとの感情も状況も変わるものだから、貫き通す覚悟はできないし意味もない。期待値は低いほうが楽だ。けれど今心のどこかで、わたしは恋人と取り返しのつかないことがしたい、という感情が芽生えているのも事実だ。恋人は、わたしの感情の最大瞬間風速を拾うのが上手い男だ。

恋人は、わたしの生き方と自分の生き方が沿わなくなったとき黙ってわたしの手を離すタイプの人間で、わたしを変えようとも繋ぎとめようともしてくれない。かつてわたしに変われと強いてきた男は数多くいて、それらを一度も容れたことはなかったけれど、わたしのなにひとつ違えようとしない恋人の隣にいたくてわたしを変えるわたしは、きっとただの馬鹿なのだろう。わたしを愛してわたしに愛される男は、わたしの価値観くらい容易く変えていくのかもしれない。

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恋人と抱き合うとき、眠るとき、ああ、このひとの世界にわたしは存在していてよいのだ、と、いつもこっそり確かめては安心している。わたしはいつも居場所がないような気がして、ここにいてはいけないような気がして不安だった。わたしがこうして長らく飢えてきたのは、幼いころに得られなかった父親からの承認だったのだと思う。これはわたしの感情の中で唯一言語化したら終わりだと思ってきたものだけれど、もう言語化してしまおう。癒えるには充分な歳月であったと、ほんとうは自分でも分かっている。

幼少期、親は世界の中心だ。世界の中心からの承認を実感できないということは、人を極めて不安定にする。わたしは、父の世界にわたしが存在していいのかどうか、いまだによく分かっていない。でも、父親の傷ついた顔が見たいがために自分を傷つけつづけることに、わたしはそろそろ疲れてしまった。わたしがどう傷ついても、父親は1ミリも傷ついてなどくれなかった。己が失ってきたものを、もう美しいと思わない。ずっと叫んでいた「もっと愛して」を、もう叫びたくない。そう強く願っているのは事実だけれど、わたしが傷ついても傷ついてくれなかった父親は、わたしが幸せになったら傷ついてくれるのだろうか、という昏い感情が脳裡を過るのを自覚し、実に不幸な想像だな、と思う。

恋人はわたしの傷に興味がないから、欠落や欠陥を魅力として他人を引き寄せつづけてきたわたしは、こうしてようやく不穏な悲鳴を止められる気がしている。言語化して納得しようとしているきらいはなきにしもあらずだけれど、それもわたしだ。わたしの傷を愛して舐めてくれる男たちがいとしくなかったといえば嘘になるのだけれども、もう傷みつづけなくていいことに安心している自分がいる。京都の雑貨屋さんの軒先に吊るされていたキーホルダーだとか、一筆箋にさらりとしたためられたメッセージだとか、置き時計だとか、あのころのわたしを支えたものたちを、ひとつずつひとつずつ、祈るように手放してゆく。失いたくないものができればすべての奇行を辞められる、というのは正確ではなくて、欠落を満たしてくれるひとと出会えれば埋め草は不要になる、でしかないのだろう。

恋人がときどき真顔で「きみの過去のことなんて気にしてないし詮索もしないよ」と言ってくるのが、ネガティブにもポジティブにも不特定多数と寝る女だったわたしとしてはなかなかぐっとくるものがある。ゆきずりの男からその時々の都合の良さだけで選んだ男まで散々経験したけれど、結局非常に普通なところに収まろうとしている。父はついぞ指輪を買おうともはめようともしなかったらしいけれど、恋人はそうではなくてよかった、と思う。

普通の男を普通に選んで普通に幸せになりたい、という、かつてなら唾棄していたであろう感情が芽生えているような気がするのがダウトかどうか、自分でももうよく分からない。ただ、「わたしはひとりで生きられるのだろうか」という、ここ15年ほど苦い自問自答を繰り返しつづけてきた命題にもう向き合わなくてよいのだ、ということにわたしはどうしようもなく安堵している。ひとりで生きられるかどうかはともかく、ひとりで生きなくていい。


つくづく、「正しい愛されかた」に慣れていない女だな、と思う。安易に路地裏で引き寄せられて唇を奪われるような、そんな関係性ばかり繰り返してきたせいだとは思わないけれど、翻ってきっと、正しく愛せてもいないのだろうな、と思う。愛なんて知らないし、恋も知らない。正しくなくても、好きだ。わたしはいま、このひとといたい、と思う。このひとでよかった。このひとが、よかった。

恋人の憧れる「異常」と、わたしの憧れる/わたしにやれる精一杯の「普通」がほぼ同値なのは望外の幸運なのだろう。恋人は、わたしの「異常」に共感してこないし、己の「普通」に共感を求めてもこない。だからこそ、恋人といないと、わたしは「普通」でいられない。末路といえばすべて末路だ。


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恋人と寝るとき、以前は「この指で他の女にも触れたのだろうか」と漠然と想起してしまいがちだったのだけれど、最近、他の女を抱く恋人、をうまく想像できなくなった。強いて想像しようとしても、わたしを抱く恋人、の吐息や熱や触れ方やが怒涛のように溢れて思考を横殴りに押し流していく。昔は誰も彼も羨ましかったけれど、気づけば誰のことも羨まなくなっていた。「普通」にかつて憧れという感情だったなにかの化石のような眼差しを向けることはあったとしても。

わたしが恋人を好きだと言える理由があるとしたら、「恋人が他の女に触れたらとても嫌だから」だし、わたしが恋人に執着する理由があるとしたら、「このひとはわたし以外の女とでも幸せになれるひとだから」だと思う。「どこが好きなの」「なんで好きなの」にいつも即答できないのは、わたしが「恋愛感情」と呼んでいるものの正体がこれだからだ。わたしでしか幸せになれないような男なら、執着しないし繋ぎとめるための努力もできない。すべてを差し出されても、そんなに重たいものは受け止めきれない。わたしはその程度の女だ。なのに、わたしでしか幸せになれない男は、放っておいてもわたしに纏わりついてきて、わたしが一度気まぐれに与えた夢の屍の上で、緩やかに腐敗していく。腐臭がわたしを遠ざける。

かつて一度あっさりと恋人の手を離したのは、「あなたがわたしでないとだめな理由」を説得力をもってプレゼンできる気がしなかったからだ。付き合い始めてからずっと恋人は、わたしを安心させつつも不安にさせる男だった。「このひとは、わたしとでなくても幸せになれてしまう」という不安をわたしは関係性のはじめからもちつづけているのだけれど、それをわたしは、「適切だ」と思う。恋人にとってわたしは欠くべからざる存在ではないという正しい不安が、毎日わたしを甘く苛む。それは、「わたしはここにいなくてもいい」という正しい安心でもある。

「わたしに興味がないひとが好き」は本質的に変わっていない。恋人はわたし以外の女とでも幸せになれる人ではあるけれど、わたしにだって恋人を幸せにできると思う。だから今、躊躇わずに隣にいる。「このひとさえいれば生きていける」ということなどありえないと気づいてから、ずいぶん生きやすくなったように思う。恋人の好きなところは数え始めるときりがないけれど、「わたしがいなくても、ちゃんとあなたなんだろうな、と思えるところ」がいちばん好きかもしれない。「きみがいないと生きていけない」と言う男と、わたしは生きていけない。

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もう10年以上前のことだけれど、爪を噛む癖があったころ、気長にわたしを愛してくれたひとがいたから3年かけてようやく爪を伸ばせた。爪自体はあれから随分整ったもののいまだに爪周りの皮膚を噛んでしまう癖が抜けないわたしに、今日恋人が自分の指先のささくれを齧らせてくれたので、愛しさに目眩を覚えながら丁寧に齧りとって嚥下した。喉を通っていく皮膚の感触にすら多幸感を煽られるわたしを、恋人は生ぬるく笑いながら眺めている。

舐められるのはどちらかというとコンテクストで感じるほうが強かったのだけど、昼間自分で予熱して膨れきったそこを、一定のリズムで舌先で撫でつけられて、気持ちよすぎて蕩けるかと思った。フィジカルの調整も自分でできるようになったのだな、と思う。ひとりでするのは、不純物のない合理的な快感が享受できてとても効率がよいのだけれど、恋人とするセックスは、揺らぎやもどかしさや物足りなさを多分に孕んでなお、というかそれだからこそじりじりと脳を焼く。

外を舌先で執拗に嬲られて腰が浮くと、中に埋まった指先がよわいところにつよくあたる。どちらに逃げても堰き止められて、水位は増すばかりで、なみなみと湛えられた快感が目尻から溢れるその感触にすら欲情するのに、もう片方の指先が胸元に伸びてきて、ああ、恋人はどこまでわたしを追い詰めるのだろう。前戯進捗2割の時点でシーツまで濡らしているし、騎乗位は恋人の下腹部を水浸しにして立つ水音にすら羞恥と欲情を焼かれるし、後背位は太腿を滴がつたう感触に背筋が震える。身体中の水分が、恋人に向けて溢れ出す。

昔はこんな満ち潮のようなセックスではなくて、乾いた喉に海水が滲みるようなひりつきを伴うセックスをしていたな、と思う。この身体は長らくわたしにとって特に価値を持たなかったから、心の空白を誤魔化すための贄として、いろんなひとの眼前に安易に投げ出してきた。心を誰にも明け渡せない分だけ身体をひたすらに明け渡しつづけて、ひらいてもひらいても閉じていくばかりの自分を分かってはいたのだけれど、それでもやめようとは思わなかった。どこまでも先鋭的な、ひりつくような、死の影を感じるような、脳が揺さぶられるような、塗り潰されるような、抱き壊されるような、人間性を喪失するようなセックスがほしかった。そんな夜を繰り返す中で自分が壊れていくのを自覚していたし、それでも、自分の核の部分だけは決して壊れないことを自覚していた。わたしはそういう意味で、自分のことをつよく信頼している。だからこそわたしは、ベッドの上の遊戯としてわたしを適切に壊してくれる男たちを選びつづけた。

そういうセックスは結局わたしを本当には救わなかった。傷に傷を重ねても、増えるのは傷だけだ。けれど、あのセックスたちがなければ越えられなかった夜が腐るほどあったのは間違いなくて、ああいうセックスを浴びるほどやってみてからしかわたしはここに辿りつけなかった。いつの日もわたしは、経験してみてからしか捨てられない。


恋人と初めて寝たとき、まだお互いになんの感情もなかったころ、まだお互いのからだのかたちすら知らなかったころ、まだお互いの性的な許容範囲を知らなかったころ、手探りで、遠慮がちで、じれったくて、それでも、この果てにはなにかがある、と思ったことを覚えている。

恋人は、わたしを壊さないし踏み込まないし引き受けない。ただそこにいて、わたしに対してひらいている。わたしは恋人を変えられないし、恋人もわたしを変えようとはしない。だからわたしは恋人に対してひらくことができるし、わたしでいることができる。「従いたい」という欲望は、いつもどこか酷く傲慢だったな、と思い返す。

毎日毎日毎日わたしは恋人の手でぐちゃぐちゃに溶かされて、毎日毎日毎日わたしは恋人の肌に舌を這わせて、霧が晴れてゆくように心の澱が消えてゆく。どこまでも辿々しいわたしは、こうして一歩ずつ、社会に溶けてゆくのだろうか。

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