見出し画像

あなたに抱かれて眠る夜

誰かに飼われたかったわけではない。ただ、あなたの家にふらりと現れた都合のいい野良猫になりたかっただけだった。

Episode 7. February, 2019

何を言われても傷ついたりしないつもりだったのに、「調子のいい女だな」と言われるのが「都合のいい女だな」と言われるより胸に刺さるのは、まだ自覚が足りないせいだろうか。都合のいい女のふりをしてあなたの駄々を受け止めつづけたのも、調子のいい女のふりをしてあなたの家に転がり込んだのもわたしなのに、今さらこんなにも胸が痛い。なんだかんだ女の胸に刺さる言葉を吐くあたりが、歳を食って女慣れした男の狡さだなと思う。


友人と食事をしたら、「門出を祝して」と花束をもらったのであなたの家に持ち帰ってきた。なにが門出だ、と自嘲しかけてやめる。本当はもう一軒馴染みのバーに寄るつもりだったのだけれど、あなたの帰宅報告が望外に早かったので、会いたくなってしまって食後のカルバドスを一息に飲み干した。

結局花束はおざなりにグラスに挿したまま、「水切りして活け直さなきゃ」と呟きながら睡魔に負けて眠りに落ちてしまったけれど、朝起きて階下に降りてみたらキッチンカウンターに鋏が出ていて、そういう遠回しな優しさが好きだ、と思う。友人が「澪をイメージして選んだ」という濃紅と淡紫の薔薇を取り混ぜたシックな花束を、シンクの中で解放する。自由と退廃は今日も紙一重だ。

薔薇の棘は丁寧に取り去られている。わたしの言葉尻の棘を丁寧にいなしつづけてくれたあなたが好きなのに、ここに来てあなたの言葉がときどき胸を刺すようになっている。水を吸い上げはじめた薔薇が香りを増す。この薔薇が枯れてしまうころには、わたしはここにもういない。

わたしたちは、「今夜はセックスなしだな」と言って布団に入り、「明日朝はセックスなしだな」と言って眠ったけれど、結局夜も朝も相手の体温の近さにあっさりと負けてしまった。「大変だねえ、宿代がわりに朝晩襲われて」とあなたは笑ったけれど、朝晩変わらずわたしに欲情してくれるあなたが好きだ。前戯がわりにトノサマバッタの話をするのはわりと酷いなと思ったけれど、トノサマバッタの話で濡れるわたしもどうかと思う。愛のある人が愛のないふりをしてするセックスが大好物なあたり歪みきっている。

あなたの首筋から、その体温に合った甘いフレグランスが香るのはわたしへの煽り以外の何物でもないし、その香りに顔を埋めて離れないわたしもきっと、それなりにあなたを煽っているのだろう。この香りが好きなら、わたしの一番好きなスパイシーバニラの香水をたぶんあなたは気に入るはずだ。ふたりで体温と混ぜたらどうなるか試してみたい、と思ったけれど、わたしは去ってゆく場所にあからさまに自分の香りを残せるほどしたたかではない。香りはときに、記憶よりも残酷だから。


***


好きな男と暮らすのは久しぶりで、嬉しい。掃除やら洗濯やらベッドメイキングやらが楽しくて、自分が家庭的な女だと錯覚しそうになる。

およそ身体しか知らなかったような男の「生活」を見るということも、好みを知るということも、拘りに触れるということも、どれを取ってもまた惚れ直さざるを得ない。自分語りしかできない女だったころに出会ったから、わたしは長らく自分からあなたを掘り下げるのがあまり得意ではなくて、あなたが問わず語りに話してくれた断片を掻き集めては愛でている。


辻仁成、伊坂幸太郎、石田衣良、という書架の並びを見て、必然性のない性愛が好きなひとなのだな、と少し笑ってしまう。かと思えばさらっと芦部憲法が置いてあって、仕事に関してはいつも誠実だったなと、ワーカホリックなあなたとの日々を振り返った。

脱ぎ散らされた部屋着を畳み直して、仄かに甘くスパイシーな香水の残り香に浸りながら、膝を抱えて本を読む。指輪は雑にアクセサリーケースに投げ込まれていて、写真立ては目に付かぬところに伏せられていた。あなたの薬指の指輪を回して遊ぶのが好きだった。

好きな男の好きな本の性描写は、必然性がなくてもそれなりにぐっと来るものがある。辻仁成は単行本が全作揃っていて、製本されたときのままの形でページとページに押しつぶされた栞を、緩やかに解放する。惰性で買われては積まれる本に比べれば、興味を持たれ紐解かれつづけたわたしはまだ幸せだったのかもしれないなと、愚にもつかないことを思う。

一人で過ごすには広すぎる家で帰りを待つことも、あなたの香水の匂いがするデスクであなたの好きな本を読むことも、あなたの好きな曲を聴いて「ぜんぜん好きじゃない」と思うことも、部屋ですれ違いざまにキスが降ってくることも、夜半ふと目覚めたときに抱き寄せられることも、「寂しがり」「甘えんぼ」と笑われるたびに膨れてまた笑われることも、反射的に丸くなる足指の形を笑われることも、指先を口に含むことも、眠れない人を眺めながら寝落ちしたり覚醒したりを繰り返すことも、痛くて、でも、愛しい。


夜遅くに帰宅して第一声が「好きって言えばいいのに」だったあなたは、飲み屋の匂いを漂わせながらわたしに顔を埋めて、「何が正しいのかもう分からん」と呟く。正しさなど、わたしたちにはおそらく縁がなかった。

「掃除してくれた?」と家の中の小さな変化にも気づくあなたの目には、洗濯機に淡く積もった埃だとか、買い置きされた柔軟剤だとか、張り出し窓で寂しげに枯れていた鉢植えだとか、はどんなふうに映っているのだろう。

おそらく今わたしがここにいることであなたが多少の戸惑いと違和感を覚えているのと同じように、わたしはわたしでここに残された誰かの痕跡に絶えず刺されている。趣味の悪い遊びだ、お互いに。寒い夜、布団の暖かさにすら嫉妬して、わたしは泣きたさを飲み込みつづける。わたしの感傷を話したところで圧にしかならないから、泣いている理由が言えない以上、泣いていることを知られる意味もない。

「恋人のことをきちんと愛してやれよ」と呟いたあなたにわたしが返した、「わたしがあなたでもそう言うと思う」がすべてだ。


けれど、あなたが酔ってわたしに好きだなどと戯言を吐きつつも、失ったものの大きさに根底ではきちんとどんよりしているところは結構好きで、わたしもどこまでもズレた愛情の持ち主だなあと自省する。あなたが寂しいとわたしの寂しさが刺激されることをあなたはもう知悉していて、ときおりわたしを試すように思いをざらざらと晒してきたりする。強い男の弱さから目が離せないわたしの駄目さ加減さえも飲み込んで。

強い男が弱っているところにつけこんででろでろに甘やかしてわたしに夢中にさせたいという昏い欲望を、ぎりぎりのところで抑えているのは、あなたのことが好きだからだ。あなたに飽きたくないしあなたを消費したくもないからだ。出会ってからの2年のうちのほとんどを、あなたはわたしを器として抱いたけれど、ここ数日、あなたはちゃんと「わたし」を抱いている。だからわたしも、もう使い捨てにしない。

なにかを埋めるためにわたしが在ったのだとしても、せめて、あなたのなかの欠落を埋めるためのわたしでありたい。あなたのそとの不在を埋めるためのわたしでありたくない。あなたのなかに、わたしのかたちの穴があるのだとしたら、それは、あなたには悪いけれど、とても素敵なことだと思う。わたしのなかにはあなたのかたちの穴がたしかにあって、わたしの欠落のなかで居心地よさそうにしているあなたのことが、わたしはとても好きだ。


***


あなたもわたしもセックスでいけないのに、ときどき気を遣っていくふりをする。あなたもわたしも、相手のそれが演技だと気づける程度にはこなれてしまっていて、でもそれを殊更に指摘することの無意味さもちゃんとわかっているからなにも言わない。あなたもわたしも、そういう無意味なところで、やさしい。

だから、最後の夜、ものすごく久しぶりにわたしでいったあなたを見て、わたしはどうしようもなく嬉しくなってしまった。わたしのなかがどんな震え方をしているか、たぶんわたしよりあなたのほうがよく知っているのと同様に、あなたがわたしのなかでどんなふうか、あなたよりわたしのほうがちゃんと感じているから、だから、薔薇が開ききるまでこの腕の中にいたい。

いちばんわたしの身体しか見ていないと思っていた男のことが、たぶんずっといちばん好きだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?