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やさしい虚無

絡みつくようなキスにも、差し出される腕にも、包み込んでくる広い胸にも、恋などしない。ただ、抱かれたことを思い出すだけだ。欲のこもった眼差しを思い出して、身体の芯があつくなるだけだ。

***

風の鳴る音で夜半に目が覚めた。バーで痛飲したあとに悪友4人で揃って最寄りの友人宅に雪崩れこみ、曖昧に駄弁りながらそのまま固い床に薄掛けだけを広げて眠ってしまったから、身体のあちこちが歪に軋む。直射するエアコンの風に、爪先が酷く冷えている。


それぞれが、何かを紛らせるように酒を煽りつづけた夜だった。彼氏が出張で不在の夜をひとりで過ごせない女友達。その女友達のことを想いつづけているうちに都合のいいセフレにされた挙句、うっかりわたしとも寝てしまった年下の男の子。妻の妊娠を経てもマリッジブルーを消せない男。それぞれがそれぞれの寂しさや虚しさに飲み込まれそうになりながら、ぎりぎりのところでただ己のそれを抱き締めていた。取り合わせとしてはこれ以上の不穏は望めないだろう。

暗闇に慣れてきた目が、斜め上の寝台から覗く剥き出しの肩を捉える。後ろから細く浅黒い腕に絡めとられた彼女の寝息は深く安らかで、わたしをもう一度眠りの世界に誘い込もうとする。誰の隣であれ、彼女の眠りが平らかなのであれば、それはわたしにとって言祝ぐべきことだ。「性欲で男と寝たことはない」とかつて言い切った彼女の言葉に、わたしはその寂しさと孤独の深さを知る。誰かが決めた正しさに安住できないわたしたちであることなど、誰よりもわたし自身が痛いほど知っている。


身じろぎをしたつもりはないのだけれど、背中をあたためてくれていた温もりをいつの間にか起こしてしまったようで、それはごそりと音を立てて動き出し、わたしを後ろから抱きしめた。男の手が次第に意図を持ち、速度を増して肌を掠めるたびに、アルコールを残した脳がぐらぐらと揺れて、身体の奥がぬるく沸きだす。

この男はわたしが些細な刺激であっさりと濡らすことをもう知ってしまっているので、下着を引き下ろす手に迷いはなかった。案の定潤みきったそこを、男はわたしの腰が揺れるまで丹念に撫でつけて、声を出せないわたしは震えることすら満足にできないまま翻弄されつづける。ここで派手に喘げるほど壊れきってはいない、と言っていいのか、ここでベッドの上に聞こえない程度の微かな吐息を漏らしつづけることそのものに欲情している、と言うべきなのかは分からない。

やがて背後から、熱の塊が有無を言わせずに押し入ってくる。圧殺しようとしていた他の男の顔が閃光めいて脳裏を過って、玩具のように揺さぶられながら時間が過ぎていくことを、今はただありがたいと思った。


***


その腕の中からそっと抜け出して会いたい男のところに走ってはみたものの、結局駄々を捏ねきれもせずに離れて、ひとり泣いた顔に無理やり笑みを張り付けて友人宅に戻ってきてしまった。巣穴の中の獣たちのように気安い身体接触を重ねながら過ごしている友人たちは6時間前と何も変わらず、けれどわたしの笑顔の裏をあっさりと見透かして、わたしが男の胸に顔を埋めても安易な揶揄も口にせず、わたしは男の手に頭を撫でられながら、ただ静かに泣くことを許された。

縋り付いて泣ける胸があってよかった、と思う。男に抱きとめられたままにまただらだらとアルコールを摂取して、ときに堰を切ったように溢れてくる涙を男のシャツで拭い、そのたびに、男の腕がわたしから離れないことに安堵した。この男はわたしの心の隙間を上手に埋めるから、この腕の中にいてはいけないと理性が叫んでいるのに、身体が孤独を拒否する。


夜更けに男は「さて、一緒に帰るか」と笑い、わたしは当然のようにその手を取る。男の弾力のある肌は、頭の片隅から離れない他の男の肌とはなにもかも違っていて、それでいてそれなりにしっとりとわたしに馴染む。愛以外のすべてをくれるタイプの男の肌だ、と思う。


***


まだ風は強い。わたしを連れ帰ってぐちゃぐちゃになるまで抱いて、10時間眠らせたあとに手際よく昼食を拵えてくれている背中を、ぼんやりと眺めている。泣いている理由をなにひとつ聞かずに、ただその胸に抱き寄せてくれたことを感謝している。聞かれても、差し障りのないことばの持ち合わせが今はない。甘えていい男を見分けるのは昔から得意だけれど、大丈夫、惚れたりしない。

「一緒にいてくれてありがとう。昨日はたぶんひとりで眠れなかったから」を真顔で言える女になってしまったし、「分かってるよ」と返してくれる男を選べる女にならざるを得なかったのだ。

どこにいても、結局はひとりなのを分かっている。他の男を思って泣きながらそれでも感じるわたしを抱いたこの男は、そもそも論から他の女のものだ。この男のシャツの胸で声を殺して涙を拭うわたしをこの男が抱きしめるのと、明け方わたしの胸に顔を埋めて眠るこの男をわたしが抱きしめるのはたぶん等価で、そこに愛も情もない。ただ、相手の人生がよりよいものになればいい、相手の世界が優しくあればよい、と、その程度のことは思っている。


この男に与えられた刺激を甘く反芻するのとおなじ程度の切実さで、他の男に触れたくて触れてほしくて狂いそうだと思っているわたしは、もうきっとどこか壊れてしまっているのだろう。誰とセックスしていても、どれだけ喉の奥を突き上げられても、どんな体位で抱かれても、どれだけ強く腰を掴まれても、忘れることなどない。わたしの喘ぎ声をひとつ残らず飲み込むかのようにキスで埋めた他の男の抱き方が今もやっぱり恋しい。

何気なく自分の頬に触れると、化粧もせず日焼け止めも塗らずに酒を飲んでセックス三昧、が3日目に至ったせいか、肌は近年稀に見る絶好調具合だ。ほんとうにこの肌に触れてほしい男は、昨日わたしの手をそっと、けれど決然と離した。


***


日が傾いても、わたしは相変わらずこの男の腕の中にいる。女友達と電話で「身体だけの関係の男でも、寝てるときはちゃんと好きだよ。それ以外のときにはなんの感情もないけれど」などと身も蓋もない話をしていたら、隣で寝ている男が苦い忍び笑いを漏らした。裸の肌をぐっと寄せ直し、あとすこしだけ話してから通話を切った。

昨夜の二日酔いを引きずった彼女は、さっきこの男にも電話をかけてきたけれど、ちょうどそのときこの男はわたしを後ろから貫いていて、くすりと笑みを含んだ吐息を零しながら、iPhoneをスピーカーフォンにしてわたしの目の前に置いた。わたしはランダムに突き上げられて、予測不可能に漏れる嬌声や吐息がマイクに拾われぬよう堪えるのに必死だったことを、彼女は知らない。

抱かれながら自分が零す喘ぎ声をわたしは結構好きだし、その声にすら螺旋状に欲情するけれど、だからこそ男が電話している間、突き上げられながら声を殺すことくらいはできる。そのかわり、終わったら箍が外れたように喘ぐから、溢れるように崩れ落ちるわたしをちゃんと受け止めてほしい。そんなことを願っていたら、電話が切られたあとのわたしの声が切実すぎて我ながらすこし笑えた。

セックスしながらメタ認知することをやめられないから、溺れきれないわたしはセックスでいけない。けれど、だからこそ拾い上げられる感情も言葉も温度もあって、わたしはそういうわたしのセックス仕草が結構好きだ。


いちばん快感を拾いやすいところを執拗に撫でられ転がされ弄ばれて、珍しく「ああ、このまましてくれたらいけるかもしれない」という糸口の予感に震え始めたところで、指先は、つい、とそこを離れてしまい、なかで何度か緩やかに抜き差ししてから、またそこに戻ってくる、という意地悪な往復を繰り返す。焦れたわたしはその指先を追い、擦りつけるように腰を揺らし、その指先を離したくないと請うように襞を蠢かせ、その指先にさらなる熱を呼ぶように声を鳴らす。

昂りを分かりやすく鳴き声や腰の動きに反映させるわたしのいちばんの願いはたぶん、「いかせてほしい」ではなく「コントロールしてほしい」で、それをきちんと読み取ったこの男は、ぎりぎりのところで器用に指先を滑らせて、適切にわたしをいかせない。

「こんなに硬くして」と笑われることも、「なんでこんなに濡れてるの」と詰られることも、「なか、びくびくしてるね」と実況されることも、「声、うるさい」と咎められることも、すべてはわたしを煽るスパイスでしかなくて、ほしくてほしくてほしくて、脳がしろく染まってゆく。

触れて。分かって。統制して。許して。支離滅裂な願いたちが歪に綯い合わされて、心身のコントロールを手放してしまいたいわたしの手首を縛る。それらの願いはいつも、まっすぐ相手の方には向かわない。ただ、この手首の紐を引いてほしい。そのまま乱雑に、けれど欲を込めて組み敷いてほしい。


***


騎乗位で果てたあと、男は枕元の一眼を引き寄せて手早く調整し、特に断りもなくレンズをわたしに向けた。避けも咎めもしなかったのは、投げやりな気持ちになっていたせいと、リスク管理を誤ったときのダメージはわたしより相手の方に通りやすいだろうと冷静に判断したせいとがほとんどだけれど、心のどこかでこの男の眼にわたしがどんなふうに映っているのかを知りたいと思ってしまったのも否定できない。

乱れた髪に剥き出しの肌。快感に蕩けきった己に、かろうじて輪郭だけを付与する。燃え残ったわたしを、シャッター音が容赦なく焼く。


なにひとつわたしに仮託しない男は、画面を確認して「うん、いい顔だ」と満足げに微笑んだ。カメラマンの被写体になること、画家のモデルになること、音楽家のモチーフになること、インテリア好きな人の部屋のアイテムのひとつになること。それらはすべて、きわめて粗雑で、けれどきわめて真摯な愛撫だと思う。

画面の中は、わたしが見せたいわたしを正確に反映したモノクロで、ああ、この文脈の中で生きるのはとても快適だ、と思った。



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