寂しさの可塑性

わたしたちの寂しさはすこしずつ、お互いのいろに染まる。

Episode 3. December, 2017

「最近面倒なんだよ。お前がいることで救われてしまっている自分がいて厄介だ」

特に尽くすタイプなわけでもないけれど、人を依存させるのが昔からどうも得意らしい。押せば押すだけ受け入れるのに、心の深淵は探っても探っても底が見えなくて、本質を見たくて彷徨っているうちにいつの間にかずぶずぶと嵌まり込んで抜け出せなくさせる女だ、とある人は言った。

不惑に至る男は、そんなわたしの周りでときどき、惑う。

救っているつもりはない。ただここにいるだけだ。「呼べば返事が返ってくる、ということに随分甘えてしまっている自分に気づいたよ」とあなたに言われたけれど、それはわたしがかつて人から与えられてとても嬉しかったものだから、そうやってあなたにあげられているのだとしたらある種の満足感を得てしまう。 呼んだら返事をしてくれる相手がいるという安心感をわたしにくれた人は、結局のところそれ以上の何をもくれはしなかったけれど、それでもそのころわたしにとってとてもとてもたいせつだったから、いまだに誰かのそういう相手になれる機会があると、喜んで返事してしまったりもする。呼べば答えてくれる相手だという信頼は、ただそれだけで、とてもつよいのだと分かっているから。

関係性の名前を問わず、わたしのほしいものをちゃんとくれる人のほしいものをちゃんと与えられる女でありたい。「お前は偶像として俺の妄想のすべてを叶えてくれるタイプの女だよなあ」とあなたにしみじみ評されたことがあるけれど、わたしの方もあなたに対して同じ感想を抱いていて、わたしたちはたぶんお互いに、「自分が何の苦もなく提供できるもの」と「相手が溺れたいと願っているもの」のマッチングレベルが、酷く高い。打てば響くような会話も、打てば響くような体温も、打てば響くようなセックスも。


あなたとよく行った五反田の居酒屋で、あなたがいつも頼むメニューなどもう暗記してしまっている。それでもわたしはメニュー選びをあなたに任せつづけるし、あなたはわたしに飲み物しか尋ねない。平生お酒を飲むペースすらミラーリングするタイプのわたしは、あなたといるときだけその癖を忘れる。あなたの顔色を窺わなくていいと思えるくらい、わたしはあなたの前で、ある種無防備だ。

「女がほしいの?わたしがほしいの?」と我ながら悪趣味な問いを投げたわたしに、「お前が女だからほしいんだよ」と返したあなたの言語センスはいつだって大好きだった。ベッドの上でわたしの髪がはらはらと降りかかるのを「邪魔だな」と鬱陶しそうに手で掬うあなたに、「髪おろしてる方が好きだって言ってたから」などと何か月か前の台詞を引いて甘えてみたら、「そういうことをほかの男にもちゃんと言えれば可愛いのにな」とあなたは笑った。わたしが素直になれるのは、あなたが相手だからだ。


***


気に入って愛用していたバカラのロックグラスをシンクに置きっぱなしにしていたら子供がうっかり割ってしまったと、夜中にLINEが入っていた。「まあしょうがないよね」というトーンの、諦念が丁寧にまぶされた独白がなにかとてもせつなくて、求められていないと分かってはいるのにあなたの痛みを代わりに悼んだ。壊れたものを直すことはわたしにはできないけれどそれでも、あなたのことも、壊れたその破片も、抱きしめてしまいたくなった。他責しようとすればできる事案なのだけれど、あなたはきっといつもの笑顔で許して引き受けて、よく整理された感情の引き出しにしまいこんでしまったのだろう。

とても器用なのにどこか不器用で、とても人当たりがいいのにどこか寂しそうで、とても強そうなのにどこか傷つきやすくて、人が生きる上で苦しむべき総量を、必要以上に繊細に真摯に苦しんでしまっている人だと思う。そして、あなたはそれを、他人に見せるのを嫌う。情の濃さと深さと男らしさが、あなたの傷跡を音もなく覆うけれど、それらは決して消えることなく、たしかにそこに存在しつづける。傷ついたことを、あなたさえもが忘れてしまっても。

だれかがたいせつなものを諦めてしまうのを見るのがかなしいのは、そうやっていつかわたしの手もあっさりと離すのだろうと容易に思考がネガティブに転ぶからだとか、今さら賢しらに分析してみても詮無い話で、「こんな繰り言を笑って聞いてくれるのはお前だけだよ」と言われたけれど、そのあとわたしの戯言を笑って聞いてくれるのもあなただけだ。わたしが意図的に晒す人格の粗を、あなたは上手にいなしてくれるから、つい委ねたくなってしまう。斜め上のわたしでいても許してくれるひとなんて、いつだって愛しい。わたしが露悪的に尖らせる言葉尻を、あなたは否定するでも肯定するでもなくただ受け止める。受け流しているわけでないのが分かるのは、昔ぽろりと零した本音を覚えていてくれたりするからだ。


***


誰かを混ぜて会ったとき、「わたしの前でのあなた」でなくなるあなたを見るのが、結構痛くて結構好きだ。

あなたの専門の業界に興味を持つわたしの友人と3人で新橋で飲んだときは、専門用語の飛び交う会話をわたしは当然に追い切れず、途中からただお酒を片手にあなたの横顔ばかりを眺めていた。仕事のことを語るあなたからは、わたしを甘やかすときのいつもの表情は影を潜めていて、そこで壊れたわたし抜きで何かを産めばいいと珍しく嫉妬めいたことを思ってしまうほどにただ、正しかった。丁寧すぎるエスコートも、「少しはお前の期待に応えられたかな」という優しい言葉も、「信頼している人の信頼している人だから、この繋がりは嬉しいよ」という珍しく真っ当な返しも、わたしのためにもっと歪めばいいのにとさえ思った。この空間で、あなたとわたしとの関係性だけが間違っている。


彼女にフラれた後輩のために飲み会を企画してくれと珍しくあなたから頼まれて、わたしも会社の後輩を誘って飲んだこともあった。戦線離脱を決め込んでアルコールを呷るわたしとは裏腹に、あなたは適切に場の空気を転がした。酔った勢いでテーブルの下で足を絡めてみてもあなたは顔色ひとつ変えず、ああ、こういうことにすら手慣れているのだなと、わたしが生まれる前にあなたが生きた20年を思った。

後輩二人をタクシーに押し込んだあと、あなたと手を繋いで神楽坂の裏通りの石畳を歩いた。歩き慣れているヒールなのに、わざとその手を頼った。冬の凍てつくような空気が頬を切り、白い息とぼやけたネオンが視野の輪郭を滲ませる。寒い、と呟いたら、繋いだ手を極めてナチュラルにコートのポケットにしまわれた。いつだって、この手に触れるものだけがリアルだ。けれどどうして、リアルでないものにときどき救われてしまうのだろう。

「お前をあんまり抱いてしまうと、またふらっといなくなりそうだから、めちゃくちゃ抱きたいけど今日は抱かない」とあなたはわたしをカラオケに連れ込んだ。わたしは1990年代の懐メロを好んで歌うような女だけれど、そんなわたしを意識してかせずか、あなたは「夏の日の1993」をよく歌ってくれた。あなたの声で聴く、わたしの生まれ年を冠した曲は、今も耳に残っている。そのあと結局わたしからキスを強請ったら、「そうやってまたお前は好きでもない俺と好きでもないセックスをしようとする」と苦笑されたけれど、それなりに好きなのだ。あなたのことも、あなたとするセックスも。


***


居場所を作ってくれたから、水が高きから低きに流れるように安易に流れられた。わたしが自我を瓦解させても、その崩壊を受け止めてくれる度量があなたにはあった。その優しさに、本質的になんの価値もないことくらい分かってはいる。分かっては。それでも、あなたの腕に包まれていると、安心感で泣けてくる。

わたしが泣くたびに「泣くなよ」と抱きしめるあなたの振る舞いがただの演技だったとしても、その広い胸で泣けることとその言葉の響きの切実さがなぜかとてもとても嬉しくて、会うたびに意図的に涙腺を緩ませているわたしの方がほんとうは演技をしているのだと、わたしはそろそろ気づきつつある。わたしはたぶんずっと、誰かの胸で泣きたかったのだ。泣いても笑っても好きも嫌いも言えないわたしに、「肌が合っていくのが怖いだけなくせに」と投げられたあなたの言葉は、ときどき見透かしたようにわたしの心の防御壁を摺り抜ける鋭角さを孕む。

1人でも生きていけそうな女を本当に1人で生きていける女として扱わないでくれるひとの懐で過ごす夜はぬるく甘い。お互いの胸のうちで熟成されてきた寂しさはいつしか、相手の寂しさのかたちとうまくはまるように練り上げられつつある。

飴玉を舐めるように寂しさを転がして口移ししあいながら、そうやって更けていく夜が、甘いうちはまだいい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?