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せんせいあのね

だいじょうぶ たぶんだいじょうぶだと思う
だいじょうぶじゃないかな ま ちょっと覚悟はしておけ

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悲しいことばかり連絡してしまうのをいい加減やめたくて、教えてくれた本を読みましたとか、共通の友人に会いましたとか、動物写真家の個展に行きましたとか、マティス展に行きました昔送っていただいた一筆箋がマティスだったけれどお好きだったでしょうかとか、他愛もないやりとりの種を毎日探している。悲しい理由はわたしの中にしか探せないけれど、叶うならばあのひとの目に映る世界のうつくしさのほうに、わたしも目を向けていたいと思う。あのひとはわたしにとって、行動の動機を与えてくれるひとになってしまった。

そうやって連絡する口実はいくらでもつくれるけれど、あのひとが口実にすら誠実な解釈を返してくれるのがときどき心苦しくて、近ごろはもうばかみたいにただ「せんせい」と呼ぶだけのメッセージを送りつけてしまうことがある。いつもあのひとに解釈を強いているけれど、結局のところ伝えたいのはいつも、会いたいだとか触れたいだとかのどこまでもシンプルな欲求でしかないのかもしれない。

最初のうちは「どうした?」と問いかけてくれていたあのひとは、わたしが語る言葉を失ってただ甘えてしまいたいだけなのを早々に察して、「澪ちゃん。」とか「好きだよ。」とか、名前にすら丁寧に句点の打たれたやさしさを投げてくるので、わたしは安心して愚かなままでいられる。こんなに素直になってしまったつまらない女でも好きでいてくれるのだとしたら、それはなんて甘美なことなのだろう。

あのひとはこんなにも、「好き」をことばにしてくれるタイプだっただろうか。言葉の背景を読もうとすることが癖になっているわたしは、最悪を前提としておくことも癖になっていて、あのひとのメッセージの含みのなさに逆にいつも戸惑ってしまう。あのひとがわたしにくれるものは、わたしがこういう関係に期待しているものを遥かに超えていて、そしてそこにべつに嘘はなく、だからそのぶん分からなくなる。もらっているのに、ときどき不安になる。

あのひとは昔からやさしかったけれど、4年前にはそんなにも濁りのない「好きだよ」は言われた記憶がないなと思い返してふと気づく。4年前のわたしは、そんなことばをほしいとは思っていなかった。あのひとに抱かれていてさえうまく鎧を脱ぎきれなかったから、ベッドの上での戯言以外の「好き」を落とされたところでその直球を受け止めることも飲み込むこともできず、ただファーストインプレッションとしての「面倒だ」という感想に任せて数歩後ずさりしてしまっただけだっただろう。

そしてなんとなくあのころのあのひとはまだ、寂しい女を抱いて夜を埋める狡さだとか、ほどほどのところで線を引く節度だとかを、前面には見せないものの心のどこかに持ち合わせていたような気がする。わたしだとて甘えきらない警戒心を十二分に備えてはいたけれど。

言つて欲しい言葉はわかつてゐるけれど言へば溺れてしまふだらうきみは

永田和宏

永田和宏でいちばん刺さった、というか抜けない棘になってしまっているのは、この歌かもしれない。あのひとは、いまのわたしなら溺れないと思ってくれているのだろうか。それとも、いまのわたしになら刺さってしまってもかまわないと思っているのだろうか。いまのわたしは、「ずっとすきでいてくれる?」なんて聞きたくなっている程度には、あのひとの「好きだよ」を信じてしまっているのだけれど。

懐いた相手にはとことん懐くけれど、懐いても信用していない状態というものはあって、というかわたしのこれまでの懐きかたはたぶんすべてそれで、それはリスクテイクする覚悟と言い換えることもできる。「このひとの嘘さえも許容する」という覚悟。「このひとはきっと嘘をついているけれど、それでもいい」という覚悟。でもあのひとのことは、もう信用してしまったのだ。あのひとを信用したほうが癒えるという己の直感を信じていこうと思う。あのとき身体のほうから脱がされてしまったから、いまあのひとの前でこんなにも裸のままの心でいるのだろう。

呼べば応えてくれるひとがいないと生きていけなかった時期もあって、けれど今もうそれほどひりついてはいなくて、だから、あのひとに引っ張ってもらっているうちに、ひとりで生きていける女になれるだろうか。自分を救えるのはいつだって自分だけだと痛いほど知りながらあのひとに甘えているし、あのひとはわたしのそういう自覚を知っているからこそわたしを甘やかしてくれる。大好きだから、いつも応援しているから、己の心のままに正しく生きろ、と。そのためならいくらでも甘やかす、と。

期待に見合うように生きようと思ってはいる。それはときどき、とてもくるしいけれど。あのひとが寄り添ってくれることがうれしいのも事実だ。今まで誰も、そこまで引き受けてはくれなかったから。この関係性は、これまでの人生でいちばん、心からほしかったものだ。あのひとの言葉尻に、「ひとりで生きていけないくせにひとりで生きていこうとしているタイプが好き」が匂ったのは、わたしの勘繰りすぎではないと思う。たぶんあのひとは、好いた相手に関与していたいのだろう。

わたしはあのひとを海だと思っているけれど、あのひとにとってのわたしはおそらく、野生の生きものなのだろうと思う。元気に翔んでいてほしいという願い。たとえそれが遠く離れた場所でも、きみのいちばん好きな場所で羽ばたいていてほしいし、そういうきみが好きだという祈り。どこまでも真っ直ぐなそれを向けられたとき、愛されているなあ、と思ってしまった。思ってしまったのだ。あのひとが愛するものをずっとそうして眼差してきたことを知っているから。

隣で眠れない夜は寂しいけれど、たまに会いに行く渡り鳥でいるから、たまに会いに来てほしい。たまにでいいから、抱いて眠ってほしい。

***


動物の種名をいつも律儀に片仮名表記するあのひとがいつの間にか、「トリ」だとか「ヒト」だとかと同じトーンでわたしのことを「ミオちゃん」と表記するようになって、その文字列を見るたびに心にぽっと灯がともるような気持ちになる。そう呼ぶひとは初めてで、あのひとだけの「ミオちゃん」でいよう、と思う。あのひとのくちからこぼれるわたしの名前は、いつもわたしのことしか指していなくて好きだ。

名前を呼ばれるたび、記号ではないわたしがあのひとの意識にちゃんと存在しているのだと言われているような気がしてうれしいわたしは、たぶんどこまでもたやすい女だ。名前を呼ばれると、そこにいていいのか分からなくて不安なままふわふわ浮いている「わたし」が、ああそこでいいのだ、と、今呼ばれているのはわたしなのだ、と思える。あのひとの隣にいると、自分の輪郭が少しずつ濃くなって魂の容れ物として安定してゆく気がする。あのひとの柔らかな輪郭がわたしに安心して手を伸ばせる余白をくれるから、わたしは自分のただしい輪郭を探すことができる。

平生あのひとに話しかけるときには基本的に「先生」と表記しているけれど、甘えたいときには「せんせい」表記になるわたしを知ってか知らずか、あのひとはわたしを甘やかすときだけ一人称の「私」が平仮名表記「わたし」になる。硬い文章を書くときの一人称は当然に「私」だろうからそれが出がちだけれど、「わたし」はわたし向けの一人称であってほしい。そしてときたま、傷跡を見せてくれるときのあのひとの一人称が「俺」になる、その表記揺れが愛しい。あのひとの「わたし」と「俺」の間の径庭を辿りたい。


長い時間と多くの言葉を費やして、けれどそれよりもひたすらにその態度と生き様を通して、あのひとがわたしに教えてくれたことがたくさんある。好きだよ、と言われるとうれしいこと。幸せだったな、を共有すると満たされること。ありのまま剥き出しで無防備なわたしでいても怖くないこと。好きなものを衒いなく好きでいていいこと。感情過多な人間のつもりでいたけれど、わたしはこれまでずいぶん自分の感情を蔑ろにしてきたのだと、感じるすべてを感じるままに脳内のあのひとに語りつづけて3ヶ月経って実感している。受け止めないと進めないこともあるのだと知ることは、自分を赦すことかもしれない。

「一緒に過ごせて幸せでした」に「わたしもだよ」と返されることとか、あのひとの「好きだよ」に「わたしも」と返すこととか、そういうことの繰り返しに救われてしまうのはなぜなのだろう。「同じ感情を共有している」ということに安心するようになってしまって、わたしも随分人間らしくなったなあと思う。昔あのひとがくれた映画のDVDの中の、

Happiness only real when shared

Into the Wild

をわたしは当時うまく咀嚼できなかったけれど、ここに来てようやく沁みるようになっている。あのひとと過ごした時間やあのひとに共有した感情がいちばんリアルだ。経験するより先に文字や音楽や映像として知ってしまった情報の方が桁違いに多かったわたしにとって、実感として理解できる感情が増えていくということを、成長と呼んで肯定してよいのかどうかはよく分からない。わたしの「会いたい」とあのひとの「会いたい」の温度差は分かっているつもりだし、非対称が悲しいと思うのは贅沢だ。あのひとの心拍数は昔から変わらないままで、揺らいでほしいとは思わない。その安定感があるから好きでいられる。

なにが悲しくてなにが寂しいのか、あのひとに語りつづけたおかげで随分言語化できたから、これからは、なにがうれしいのか、なんでうれしいのか、に目を向けていきたいと思う。「ありがとう」や「うれしい」をたくさん伝えていこうと思う。素直に伝えられる相手がいることを幸せだと思うし、ちゃんと言葉をくれるひとのことを大事にしようと思う。

あのひとの好きなわたしでいたい。強がらず、無理もせず、斜に構えもしない、どこまでもシンプルなわたしでいたい。それは案外ずっと願いつづけてきた「透明になりたい」と同義なのかもしれなかった。

***


相変わらずの「せんせい」に「ミオちゃん。」が返されたので、「せんせいに名前を呼ばれるの好き」をわたしはもうなんの捻りもレトリックもなく伝えてしまうのだけれど、「わたしも嬉しいよ」がなぜかその日は素直に受け取れなかった。呼ぶのはいつもわたしで、わたしはすこしも強くなれない。あのひとの「わたしも」という応答にいつもすこしだけ突き放された気になるのが妙に増幅されて、持て余した末に「せんせいはわたしを甘やかしすぎなの」と駄々を捏ねてみたら、また爆弾が降ってきた。

「駄々もかわいいけどね」

安心させろと強請るわたしを可愛いとは思わないのだけれど、わたしの不安の芽に対してここまで徹底的に絨毯爆撃をするのもどうかと思う。あのひとのわたしを甘やかすときの躊躇のなさだとか、わたしの試し行動すべてを捻じ伏せてゆく胆力だとかは、いったいなにに根差しているのだろう。わたしは無償の愛という概念を信じていないので、自分が提供できるものがないほうが不安になる。

あのひとは、わたしに好かれたらうれしいのだろうか。自分の好意でなにかを贖えるとは思っていない。だってそれは等価交換ではない。わたしの感情にそんな価値はない。こんな、執着と承認欲求とコンプレックスと性欲と愛着障害を煮詰めて煮溶かしたような感情が、あのひとにとって意味のあるものだとは思えない。

「そういうとこですよ!よくないのは!」とまたわたしは照れ隠しをしてしまうけれど、震える指先で「うれしいけど!」を添えておいた。「うれしいことはうれしいと言う」はいまだにわたしには難しいのだけれど、こういうところは成長かもしれない。それがまたあのひとを焚き付けるだけなのだとしても。

「あはは、しかられるのも嬉しいね」とあのひとは案の定わたしに甘くて、与えられつくしてなお不安になるわたしはもうなにも隠せず、「せんせいがやさしくしてくれる理由が分からなくて困っちゃう」「わたしなんにも返せないのに」と思考を曝け出してしまう。

「一言で言うと好きだから」

すべての理由として恬淡とそこに置かれた「好きだから」を咀嚼しきれず、もう溶けてしまえたらいいのに、と思う。あのひとの「好き」はまっすぐで、濁りがなくて、眩しくて、わたしはどうしていいか分からなくなる。あのひとはよほどわたしのことを信用しているのだなあと思うし、むしろ信用しすぎだとも思う。こんな愛しかたをされて狂ってしまわないでいられる女がどれだけいるだろうか。

名前を呼ぶのは名前を呼んでほしいからで、「どうしてそんなにやさしいの」を聞いてしまうのは「好きだからだよ」と言われたいからだったのはほんとうなのだけれど、ここまでど真ん中を撃ち抜かれるとは思わなかった。あのひとは、わたしのほしい言葉を知りすぎている。心の襞をなぞられることを幸せだと感じてしまったから、もうなにも隠せない。

あのひとに分かってほしくて言葉を継いでしまうわたしと比べて、その「一言で言うと」にどれだけのなにが丸められているのかを、追究するのはもう野暮というもので、だからわたしはしばらくそれを反芻したあとに、「せんせいがそういうこと言うとわたしがどれだけ嬉しいか知らないでしょう」などと八つ当たりじみた照れ隠しを返してしまう。あのひとの言葉選びはいつも正確で、「反応をひとつ間違えると手首切る」というタイプの女の子とかつて付き合っていただけのことはあるなといつも感心してしまうけれど、この感想もおそらく斜に構えているだけなのだろうとも思う。

もう大丈夫だと思ったら手を離すのだろうとか、もっと必要とされる場所があるならそちらを選ぶのだろうとか、斜に構えているほうのわたしの危機管理意識の底流が煩いけれど、4年前にわたしのシニシズムを解きほぐしはじめてくれたあのひとは、わたしがまだ残る警戒心を剝き出しにしたとしてもきっと咎めもせずに宥めつづけてくれると信じているから、わたしはもうほとんど躊躇いもなく、悲しみや不安や期待や甘えをあのひとの眼前にざらざらと並べては、すべてを撫でられている。

恋人がくれるような、父親がくれるような、ことばのやわらかな流れに、ただひたすらにやさしく洗われてゆく。あのひとに甘えて、何度も確かめて、拗ねては宥められて、うれしくて結局なにもいえないまま、たぶん回復してきたし回復してゆくのだろうと思う。

***

to be loved is to be changed

愛はおそらく今のわたしにとって、どこまでも受動態でしかない。「愛によって人を変えることはできないが、愛されているという事実によって人が変わることはある」と誰かが言っていた。わたしがあのひとに向ける感情も、おそらくあのひとがわたしに向ける感情も、恋ではないから季節でもなく、変わらず愛されてゆくのだろうという安心感にわたしは支えられている。

相変わらずあのひとの返信はひたすらに早く、手を繋がなくてもあのひとの感情に触れていればあたたかい。この世界で今、あのひととつながっている時間と記憶だけがあたたかい。あのひとに素直になったわたしが「一緒にいるときにはぜんぜんスマホ見ないのに、どうしてそんなに返信早いの」と聞いてしまったら、あのひとは「ミオちゃんから連絡が来たかも、って虫の知らせかな」とわらうので、わらうので、わたしは泣いてしまいそうになる。その虫の知らせが、ずっと機能していてほしいと願う。

ただ1日のうちほんのすこしの時間だけでいいからわたしのことを考えてほしくて、わたしはあのひとを呼びつづける。今この瞬間だけでいいから、5秒でいいからわたしにちょうだい。もう条件反射と予測変換で「ミオちゃん」って返してくれるだけでいいから、その一瞬をわたしにちょうだい、せんせい。

せんせい

せんせいあのね、おはよう。
せんせいあのね、雨だよ。
せんせいあのね、さみしい。
せんせいあのね、あいたい。
せんせいあのね、あなたにとってわたしはなあに。
せんせいあのね、わたしだけ見て。
せんせいあのね、一緒に眠りたい。
せんせいあのね、好きって言って。

せんせいあのね、死ぬまで好きでいて。


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