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夜を越えるための夜

寂しくて苦しくてやりきれない。空腹なのに食欲がない。眠いけれども入眠できない。好きな男のキスで窒息死したい。もしくは誰かに夜を埋めてほしい。酔った勢いで「ひとりで眠れない」という駄々を捏ねられる相手はいつも、いちばん好きな人ではない。

それでも、誰かの腕に抱かれていないと、わたしは今夜をやり過ごせない。

***

ひとりの夜に耐えられない日々が続いている。

「一杯飲もうぜ」という連絡が渡りに船で、誘われるがままに男の家を訪れてみたら、「星空撮りに行きてえ」と男が腰を上げたので、ロングワンピースの裾を気にしながら、丘の頂上へと続く長い階段を上った。ポーチに1万円札と充電器とコンドームだけを入れてこうして出かける夜を、わたしはさほど嫌いではない。満たされることと擦り減ることは、案外に紙一重だ。

すたすたと先を歩く男は、それでもランタンを後ろ手に掲げていて、優しいな、と思う。揺れる灯りを無心に追っているうちに、いつの間にか丘の向こうから月が顔を出していた。

海を見晴るかす頂上には、木製を模した無骨なテーブルと椅子が置かれていて、日中ならば尾根伝いの遊歩道を歩く人々が景色を眺めながらひととき足を休めるのだろう。星屑が一面に散りばめられた空と違って、夜の海は水晶体を染めてしまいそうなほどひたすらに漆黒だ。何の救いもなく、ただ黒い。海面にゆらりと伸びる月の道だけが煌々と輝いている。

男はわたしに構わずカメラの設定を調整しては空を見上げていたけれど、狙う構図を撮るにはまだ少し月が低いようで、小さく舌打ちをしてカメラを置いた。

椅子に腰を掛けた男の膝に招かれて、素直にその腿を跨ぐ。この男になら、もう無遠慮に距離を詰められても平気だ。この男の前では素直に振る舞えるのに、どうして好きな男には言いたいことのひとつも口に出せなかったのだろう、と答えの分かりきった問いが脳裏に浮かびかけるのを圧殺する。

肉厚の唇が掬い上げるように迫ってきて、救い上げられるように吸い寄せられた。この男の唇や手のひらの温度はいつも、わたしが生きることの苦しさを束の間減らす。

膝の上に乗せていたわたしを、やがて男は軽々と抱き上げてテーブルの上に座らせる。ただの肉塊になってしまえるなら、それほど楽なことはない。この男がさらりとわたしを持ち上げる腕の力強さや、ごく自然にわたしを抱き枕のように抱いて眠ることに、安心することはあっても恋をすることはないと思えるのは、ちゃんとときどきどうしようもなく粗雑な扱いをしてくれるからだ。たとえばこうして、月明かりの下で抱こうとするような。

この男にとって、わたしはその程度の女だし、その程度が今のわたしにはちょうどいい。

前開きのワンピースのボタンがひとつずつ外されて、あたたかな唇が首筋からゆっくりと下へ這い、安易にひらかれた脚のあいだに男の顔が埋まる。「いつもより濡れてる」と笑われて、ああ、この男はもうわたしの「いつも」を語れるくらいわたしを知ってしまったのか、と思った。

声を殺しきれないわたしを「可愛いな」と笑う男は、わたしが与えられる快感を受け止めきれずに「こわい」なんて甘えた台詞で縋り付いても、「大丈夫だよ、ここにいるから」と100点満点の宥め方をする。

夜気が絶えず肌を撫で、瞼を閉じても月光が網膜を焼いて、そのざわつきが、与えられる刺激に集中させてくれない。精神だけがどんどん溺れてゆくのを自覚する。この状況そのものが、わたしにとっては愛撫のようなものだ。わたしは声を殺せず、俎上の鯉のように、なされるがまま、与えられつづける刺激にひくひくと跳ねるしかない。嫌がるそぶりを見せてみたところでそんなものは媚態に過ぎず、それらすべてが快感なのだからどうしようもない。

何度目かのつよい快感に目を見開いたとき、男の滑らかな肩越しに月が目に飛び込んできて、ああ、うつくしいな、と思った。こうして月明かりの下で抱かれたことを、わたしはこれからときどき甘く思い出し、そのたびに少しだけ救われるのだろう。男がただしくわたしに与えることができるのは、きっといつも記憶だけだ。


与えられきったあとで、テーブルの上にくったりと四肢を投げ出すわたしに、男は相変わらず臆面もなくレンズを向けた。断続的に注ぐシャッター音の中で、カメラマンの被写体になること、画家のモデルになること、音楽家のモチーフになること、インテリア好きなひとの部屋のアイテムのひとつになること、それらすべて、きわめて乱雑で、けれどきわめて真摯な愛撫であった、と懐かしく思い返すなどした。そういう意味で、思い返して反芻することを妨げない男とばかり寝てきた気がする。

与えられた記憶は、わたしだけのものに変容する。


***


まだ人の揃いきっていない宅飲み会場で、男は人目を盗んでわたしの唇を奪った。唇を離したあとに、ルージュが移っていないかを鏡でさっと確認する仕草がコミカルで、ああ、いい男だな、と思った。芝居がかった男のことは、とても好きだ。

今この男に触れていないとうまく呼吸ができないわたしは、気心の知れたメンバーなのをいいことに、背中を男の肩に預ける。男は黙って受け止めてくれる。ひとりの男が、「そんな女だとは思わなかった」というようにほんのりと眉を顰めたけれど、きみだってわたしと寝たくせに、あときみの隣のその彼女のことが好きなくせに、と可笑しくなってしまう。

「そんな女じゃなかったよ、あなたの前ではね」

物静かで聞き上手な女が好きな男の前、影を許してくれる可愛い女が好きな男の前、ポジティブなビッチが好きな男の前、教養のある聡い女が好きな男の前。それぞれに見せる顔などすべて違っているしすべて意識的に明確に使い分けているから、他の男に向ける顔を見てしまったからといって失望されても困る。きみの趣味嗜好に縛られる義理はない。いまのわたしを受け止められるのはきみではない。いま、きみ向けの顔は作れない。できることなら、そういうずるさすらも関係性のスパイスとして活用させてほしい。

擦り減ったわたしのしどけなさに引きずられるようにして、話題は危うい方向へと転がってゆく。背中を預けた男は、「きみら人の男寝取りがちだから」とぼやいたけれど、彼女は即座に「寝取ったの1人だけだし」と切り返し、わたしは「寝たけど取るつもりないし」と笑う。開け放った窓から流れ込む夕暮れの風に、花の香りが混ざる。「私だけを見て」を素直に言える奔放な彼女は、女から見ても、羨ましさも込みで、可愛い。

彼女の、人に迷惑はかけるけれど割り勘負けはさせない、という在り方は、人たらしのいち類型な気がする。エネルギッシュな彼女と長く一緒にいすぎると、そのパワーに中てられる。感情を素直に出せることや剥き出しの我儘をぶつけられることを、羨ましいと思ってしまいそうになる。わたしの美意識は、そういう種類の女になることを己に許さないのに。


酔いの回った帰り道、男は当たり前のようにわたしの手を引いた。手を繋いで夜空を見上げると、月はまだ山の端に隠れていて、星たちばかりが輝いていた。好きな男と海辺で何度も交わしたキスをなんとなく思い出して、繋がれていないほうの左手で「星が綺麗よ」とLINEを打ったら、さほど間をあけずに「見に行こうか」と返ってきて、わたしは何度目かの絶望をする。

「彼といると些細な絶望を感じないでいられる」ということが、わたしにとって相当程度の救いであったはずなのに、中途半端に距離が開いた今、彼はわたしに絶望ばかりを見せてくる。男は、「行きたい」と言えないわたしの右手を強く握って抱き寄せてくれる。

「泣きたいなら胸はいつでも貸すよ。そのあと抱くけどな」
「…最高じゃない?」
こういう会話ができてしまうから、わたしたちは同類なのだなと改めて思うし、この男がいてよかったと思う。

この男は、事後にわたしが甘えてすり寄って嬉しそうな顔をしていると、「惚れるなよ」と釘を刺してくるくせに、「明け方、俺が起きる前にこっそり帰るのやめて。寂しいじゃん。そういうとこ男っぽいよなお前は」なんてずるい言葉をしれっと吐いてきたりする。明け方抱き寄せられることの甘ったるさを知ってしまったら、ただの代替でしかないことを知っていても、たぶん抜け出せなくなるから、わたしはいつも薄明のうちに部屋を出てきた。


***


悲しみに酔ったわたしと人生に酔った男は、これまでにも何度も抱きあってきたし、きっとこれからも何度も抱きあうのだろう。壊れたレコードのように男の名前を呼び続けるわたしを、正体をなくしかけた男はそれでもつよく抱いた。「お前、普段は澄ましてるくせに、抱くと可愛いな」なんてまるで正気みたいな感想をこぼしながら。

本当に呼びたいのはその名前ではなくても、「わたしで傷つかないひと」に出会うとつい安心していろいろと委ねてしまう。愛を与えも求めもしなくていい男と寝るのは楽でいい。この男の体温は、今のわたしにとって己を世界に繋ぎとめる唯一の縁だ。

わたしの耳をゆるやかに愛撫しつづける男は、耳珠に触れて、「ここ、固さも弾力も、下とおんなじだな」と悪い顔で笑う。わたしは吐息を吸いなおす。「触れて」も「舐めて」も言わない男だから、放っておけばただわたしがどろどろに溶けるまで執拗な前戯をして、わたしが音を上げるまで抽送を繰り返し、「もういってほしい?」とわたしに問うて、わたしが頷けば1分以内に終わりにしてくれる。器用で、他人に期待をしていない、まるでわたしのような男だな、と蕩けた頭で思う。


わたしを一度抱き終えた男がそろそろ寝ようかなという顔になっているのを、なんとなく物足りなくてだらだらと触れたりくちに含んだりしていたら、男は「ああ、無理だ、挿れたい」とがばりと上体を起こした。求めつづけてくれることを、嬉しいと思う。一度目に腰が立たなくなるくらいの執拗な前戯に泣かされるのも好きだし、二度目に着けなおしたはずの下着を脱がされて半ば無理やりに突っ込まれるのも好きだ。


お互いに精根尽き果てて、引きずり込まれるように眠りに落ちてしまったから、気づいたら空が白みかけていた。わたしを後ろから抱いて眠る男の左手が子宮に重なっていて、ほんのり伝わってくる温もりが、あんなに抱かれたのにまだすこし、疼きを誘発する。男が起きる前にこの腕から抜け出さなければ、と思うのに、身体が動かない。その心の揺らぎを察知したのか、男は微かに身じろぎをして、緩慢に口をひらく。

「このまま抱きしめさせててよ。寒いから」

夢の中から囁きかけてくるようなその掠れ声に、わたしは結局抗えず、もうどうにでもなれと瞼を閉じた。ひとまず夜は越えた。次の夜のことは、また今夜考えればいい。

そうやって一夜一夜乗り越えていけば、いつかこの胸の痛みも忘れられるだろうか。





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