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夏の相克

この男はわたしのものにはならないけれど、わたしに「初めて」をたくさん経験させてくれる。たとえば人に見られながらするセックス。たとえば星空の下で抱かれること。たとえば、好きな男の前で他の男に口づけられること。

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好きな男の触れ方を、この男の指先に塗りつぶしてもらおうとしているのを自覚している。正確には、自慰をするときに好きな男を思い出してせつなくならないように、わざと先回りして上書きをしている。好きな男には、わたしを思い出して自慰をしてほしいと願ったくせに。

けれどいまわたしが思い出すのは、欲を絡め合わせるだけのこの男の触れ方でいい、と思う。声にならない声で「好きだよ」と言い聞かせるような好きな男の触れ方は、いまは思い出したくない。好きな男に抱かれないこの身体などただの贄に過ぎないから、いろんな人の眼前にこれ見よがしに投げ出してしまったりもするのだけれど、身体がいくら裸になろうとも、いま、心を裸にしてはいけない。いまのわたしの心は、あまりにもたやすく傷ついてしまう。


「おいで」と男が蕩けるような笑顔でわたしを呼ぶからおとなしく跨ったら、「素直か」と噴き出された。わたしに恥じらいを求めるような男でもないのになにを今さら、とこちらもつい笑ってしまう。

この男はいつも、適切な粗雑さでわたしを笑顔にしてくれる。「俺は真面目風ビッチが好きなんだよ」と嘯く男に、「わたしは真面目風真面目だからね」と真顔で返したら、「お前は俺の好きなタイプの真面目風ビッチだよ」と笑われたけれど、真面目が好きな男にはビッチ風真面目を装っているしビッチが好きな男には真面目風ビッチを装っているだけだ。その程度の演技力は身に着けた。相手の表面を少し剥いで掘り下げたときに、思いがけず自分の好きなものが出てくると結構ぐっと来るのを、わたしはよく知っている。

わたしがうっかり壊れてしまいそうになるくらいに執拗に前戯をしてくれたから、内壁がしっかり男を欲しがっている。「前戯をちゃんとすると俺が早漏になるんだよな」と苦しそうに眉を顰めて、「ストップ」を聞けないわたしに、男は、折れる。この男は、騎乗位で果てられるのをわたしがあまり好まないことをいつの間にか見抜いているから、最後にはちゃんとお互いの視界を反転させて主導権を手の内に戻してくれる。

やがて荒い呼吸とともに、「ストップっつったのに動くなよ馬鹿かお前は」なんてぶつくさこぼしながら、男はわたしの臍のくぼみに溜まった精液をちゃんと拭ってくれる。

動いてはいない。ただ、男の動きに合わせて内壁を吸い付かせるように蠕動させていただけだ。わたしと寝る男には、ちゃんと気持ちいいと思ってほしいし、それを伝えてほしい。だからこそ、セックスの最中に声を失わずにちゃんと喋ってくれる男が好きだ。この男は、「気持ちいい」と有声音で伝えてくれる。思わず漏れた独り言にも似た呟きではなくて、ちゃんとわたしに伝えようとして発話された言葉として、わたしの耳に届けてくれる。いまのわたしには、それがどうしようもなく嬉しい。

だからこそ、相手に快感を与えるための努力は惜しまないし、触れたいし、舐めたいし、「ねえ、きもちいい?」と、喘ぎ声に混ぜて問うてしまう。それにきちんと「きもちいいよ」と返してくれることを知っているから。

「俺と相性いいと思う?」とこの男は衒いも恥じらいもなくただ己の愉しみの質のためだけに真正面から問いを投げてくるので、わたしもそれを愛するものとして、素直に返さざるを得ない。この男と寝るのは気持ちいい。この男は、一般的な「女体」というものをよく知っているし、個別具体的な「わたし」を理解しようともしてくれる。普遍的な「セックス」を愛しているし、偏在的な「いまここでわたしとするセックス」を楽しもうともしてくれる。わたしが奔放であることを許してくれるし、わたしになにを求めもしない。わたしをちゃんと楽しませてくれる。

ただそこに、「わたしでなければだめなのだ」と錯覚させてくれる熱はない。そこが、好きな男との決定的な差だ。

「うーん、あなたは合わせるのが上手いなと思った」。「なんだよそれ」と男は笑ってわたしの背中を撫でる。残念ながらわたしも、相手のストーリーに合わせて自分のストーリーを構築し提示するのが得意な方だ。総論としてセックスは好きだし、各論としてこの男と寝ることも好きだ。合わせあったわたしたちは、いったいどこに流れつくのだろう。その岸辺は果たして、わたしたちそれぞれが心の奥底でほんとうに望んだものと、どれくらい乖離しているのだろう。


***


ややもすれば沈んでしまいそうな心を持て余してばかりいても仕方ないので、浴衣を着て盆踊りに出かけたら、男が大声で名前を呼んで手招きをした。雑踏の中、準備よくレジャーシートを広げて場所取りをしてくれていたらしく、しっかり缶ビールも買い込まれている。好きでもない女のためにこれだけできるのだから、本質的にお祭り男なのだろうと判断して、遠慮なく楽しませてもらうことにする。

法被をざらりと羽織った男は、時折ふらりと消えては、まるで親鳥のように焼き鳥やら大判焼きやらを買い込んできてわたしに与えてくれる。ひとりで過ごすのは苦にならないほうだけれど、この狭い町で知り合いの目に晒されながらひとり待つのはすこしだけせつなくて、大仰な仕草を振りまきながら男が戻ってくるのを視認するとどこかほっとするとともに、人目の多いところでわたしを隣に置くことにそれなりのリスクを伴う男ばかりがわたしに寄ってくるな、と思う。わたしはそれでも相手に、そのリスクを許容してほしかった。わたしはそれでも相手が、そのリスクを許容してくれることが嬉しかった。好きな男は、そのリスクを拒絶したから。

ぼんやりしていたら、ストローのスプーンでみぞれ味のかき氷を差し出されて、幼いころの夏の日の思い出がつんと胸を過ぎる。あのころはいちごみるくも選べたな、と思いながら、その優しさにいまはただ身を委ねる。ふと、このごろ、朝職場の前でこの男とよくすれ違うのを思い出す。お互い客商売だから、笑顔を作ることには慣れきっているはずなのだけれど、この男はいつもやたらと無垢な笑顔を浮かべていて、こちらもつい引き込まれてしまう。会うと笑顔になれる相手に朝必ず会える日常は、結構尊いなと思ったりする。


友人の多いこの男らしく、ふたりのはずだったシートには次第に人が増え、いつの間にか宴会の様相を呈していた。複数で飲むときに、寝た男とこっそり阿吽の呼吸が成立する感じが肌に心地いい。ハイボールは苦手だけれど、ちょうど手元のビールが尽きたところに男が差し出した飲みかけの缶を煽るのは、それなりに気持ちのいいものだ。酔いに視界が揺らめけば、ふらりともたれかかってしまえばいい。熱に浮かされた肌に刺さる周囲の視線すらも、快感に変わりそうになる。

盆踊りも佳境を越えて、堤防に場所を移して飲み会は続く。誰しもが相当に酔いが回っている中で、途中から参加してきた好きな男は、最初は酔いつぶれた後輩を介抱などしていて、それがまたわたしの心をじりじりと焦げ付かせる。もうわたしのものではないのに、わたし以外に触れてほしくないと心が騒がしい。

テキーラのボトルが回されはじめ、うまくいなすことを知らない好きな男も、着実に酔いに引き込まれていくようだ。酔ってほしいような酔ってほしくないような、曖昧な感情を持て余す。好きな男はそんなわたしを知ってか知らずかあっさりとわたしの隣に腰を下ろし、チェイサー代わりにわたしの手元の缶酎ハイを奪っていく。その距離感が、とてつもなく嬉しくて、とてつもなく耐えられないと思った。


好きな男のほうしか見ていないわたしに焦れたのか、男は人目を盗んでわたしを暗がりに引き込み、キスを強請る。「今日は好きな男がいるから嫌」とやんわり拒絶したら、すべてを知っている男は、「ああ、妬けるな」と呟いた。瞳の奥で炎が踊るのが見えて、わたしを搦めとる腕に力がこもる。わたしの心の穴を確実に満たすその欲をありがたいとは思うけれど、愛しいと思うことはないだろう。この男はわたしの空白をたしかに埋めてくれるけれど、わたしはたぶん、わたしをさらに空白にするような男に焦がれている。この男の逞しさに捕らえられながら、わたしは好きな男のキスを思い出している。

この男だとて、その男くささやら磊落さやらはきっと多分に女を引き寄せるものだから、暗がりから出れば陽気な女の子たちが競うように肌を寄せた。そこではしゃいでいるこの男を、素直に可愛いなと思う。「わたしのおとこ」ではない男に関しては、他の女がその男に寄っていくとと「そうそう、いい男でしょう」と嬉しくなってしまうし、男が他の女に寄っていけば「多情な男は情が濃いからいいなあ」と思ってしまう。わたし以外の女に触れてほしくない、はわりと明確な指標だ。


気づけば好きな男は徹底的に酔いつぶれていて、軽く誘導すればあっさりとわたしの膝枕に頭を預けた。その重みに、どうしようもない愛しさが込み上げて、徹底的にどうしようもないな、と思う。好きな男はキスに目がなくて、わたしをわたしと認識しているのかすら定かでないまま、キスを請うように唇を寄せてきた。しばらくは指先でいなしていたけれど、それをほんとうに切望しているのはわたしのほうだから、結局耐え切れなくなってしまった。

一晩で2人の男とキスをしたのは、さすがに人生で初めてだと思う。己の目尻に滲んだ涙のわけを、今は追究しないでおく。


夜明け前に好きな男を家まで送り届けて、なんとかベッドに放り投げる。数時間後に迫っている出勤のことを考えると、自宅へ戻るべきなのは分かっていたけれど、その無防備な寝顔と確かな体温の誘惑に、わたしは逆らえなかった。


何度も眠ったベッドで、何度も抱かれた男の腕の中で過ごすこの明け方の胸の痛みを、二度と経験したくない、と思った。



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