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足のつく海

わたしのほうが好きだけれど、あのひとのほうが愛が深いなと思う。

あのひとにふれるたび、己の底の浅さを思い知る。知識も思考も経験も足りなくて、出会って6年経つのに差が1年も縮まってくれず、いつまで経ってもその背中に追いつけない。もうすぐあのひとが生まれた冬が来て、2か月だけ歳の差がひとつ広がってしまう。

***

2月に再会してから1週間ほどずるずると甘やかなメッセージのやりとりを重ねながらも、触れられながら落とされた「好きだよ」をまだ信じきれていなかったころ、遠くのあのひとから唐突に追い打たれた「大好きだよ」に、わたしは武装も仮面も脱ぎ切れていなかったくせに、頭が真っ白になってうっかり心のいちばん素直なところから返事をしてしまった。あのときにっこり笑って「ありがとう」とはぐらかすべきだったのは分かっている。「先生の存在にいつも助けられています」とでも足しておけばなおよかったのも分かってはいる。言うに事欠いて、返した言葉が「わたしも」なのがわたしの弱さだ。でも、あのひとがまっすぐに投げてくれた言葉を、あの日受け取らないでいることができなかった。

その「わたしも」は、いつの間にかごく自然な顔をしてわたしの中に着地していて、わたしは「好き」を口にする女になりたくなってきてしまった。ぽつぽつと口をつきはじめたのは「先生のそういうところが好きだなと思います」のほうが早くて、けれどこれすらもわたしが本人に言えるのは珍しい。あのひとはわたしを肯定し安心させる行為として、「きみのそういうところが好きだよ」を昔からたくさん伝えてくれていて、わたしはそれに何度も救われて支えられてきたくせに、わたしからはずっとなにも言えなかった。本人に関するわたしの嗜好を伝えるということはわたしにとっては明確に「関与」で、ある種の一線を越えたふるまいになってしまう。わたしは他人に関与することに臆病だ。けれどあのひとは、わたしがあのひとのどこを好こうが嫌おうが、あのひと自身を変えはしない。これはなによりつよい信頼かもしれない。

4月、飛行機に乗って会いに行く馬鹿な女をやってしまったあと、うっかり「話すたびに先生のことが好きだなと思います」を零したら、「わたしも好きだよ」が返されて、その瞬間、ああ、言わせてしまった、と思った。今思えば、わたしの姑息な期待を見透かされた気がして恥ずかしくなったのかもしれない。ほしければまず与えよという言説があるけれど、あのころわたしが先に投げる「好き」は、「好きだと言って」という懇願が隠しようもなく滲んでいて、わたしは己のその浅薄さに耐えられなかった。「わたしも好きだよ」がほしくて吐くわたしの「好き」が、不純で嫌だった。あのひとの「好き」のほうがちゃんと尊くて、わたしの「好き」が悲鳴でしかないことを知っていた。「寂しい」と伝えつづけてしまっているだけの悲鳴の中身を汲み取らせるのが、身勝手で嫌だった。

「好き」は言いたくなくて、かといって言っても詮無い「会いたい」も、あのひとの瞳の奥にもう同じ感情のない「寂しい」も零せず、こうしてわたしがそれらすべてを塗り籠めた「せんせい」しか言えなくなった時期は、半年ほど続いた。あのひとは最初の一度だけ、それにすら「好きだよ」を返してきて、わたしを泣かせた。ひらがな書きで感情を察してくれるところも、好きだ。どちらが始めた物語なのかはよく分からない。わたしのほうが多く紡いでいる自覚もある。けれど、必要不可欠なものをくれているのはいつもあのひとだ。等価交換でない関係性はわたしを不安にさせるけれど、わたしにあげられるものにたいして価値がないことも知っていた。あのひとに消費されたいけれどあのひとを消費したくない。4年前のあのひとの寂しさや心の穴がむしろわたしを居心地よくさせたように、もしあのひとが今なんらかの加害性をもったら、わたしはとても安心してしまうのだろうなと思った。

二度目の「せんせい」にあのひとは「どうした?」と聞いてくれて、まだ感情をうまく言語化できなかったわたしが「どうもしてない」「してなきゃだめですか」と駄々を捏ねるのに、「いーや、なんもなくてもいいよ」と笑ったあのひとは、三度目の「せんせい」には「ミオちゃん」と返してくれて、わたしはやっと得た等価交換に安心する。それはあのひとのやさしさの上に成り立つ等価交換でしかないのだけれど、わたしは愛されることよりもまずは、受け入れられることに飢えていたような気もする。不穏な悲鳴を愛さない男の背中ばかり追いかけてきたけれど、あのひとは、不穏な悲鳴はきちんと不穏な悲鳴として扱おうとしてくれていたのだな、と思った。

見慣れなかったカタカナ表記の自分の名前を見慣れるほどに「せんせい」と呼んでは「ミオちゃん」と返されるのがお約束になったころ、またわたしはうかうかと「せんせいが名前を呼んでくれるの好き」などと一歩踏み込んでしまう。「わたしもミオちゃんに呼ばれるのは嬉しいよ」が返されて、呼びつづけてしまっている執着を申し訳なく思うとともに、長らく「せんせい」としか呼べていない罪悪感を思い出して胸がちりちりと痛んだ。2月からはその呼び方がわたしの最後の理性のような気がして、崩さないでいようと思っていたけれど、いつかあのひとを名前で呼べる日が来るといいな、と思っている自分がいることも知っている。「名前で呼んでいいですか」と問うたら、たぶんわりと嬉しそうな顔をしてくれるのだろう、となんとなく思う。カタカナ表記の自分の名前はさして好きではなかったはずなのに、あのひとがくれるものならばと愛してしまったから、苦手だったこともあのひとにつづくものであれば愛せるのかもしれない。

「先生」と呼ぶわたしをあのひとは昔すこし嫌がって、好きな相手を名前で呼べないわたしが駄々を捏ねてこの呼び方を引き摺るのに「困った子だね」と眉根を寄せていたけれど、今ではすっかり板についてしまったようで、すんなり受け入れてくれている。記号として見られていないのが嬉しいくせに、わたしは記号を押しつけて逃げている。受け止める胆力がないのはわたしだ。あのひとは昔から、わたしの表皮につきまとう記号などなにひとつ見ていなくて、ただわたしの血がどこへ向かって流れているかだけを見て愛でてくれる。自分がいちばん記号に縛られていることを自覚しているからこそ、あのひとの隣でかろやかに自由でいられる気がするのだろう。

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夏前にはわたしはときどき、「わたしが勝手に好きなだけ」に類する、受け取られなくても返されなくても傷つかないような予防線を張り巡らした狡い台詞を自棄気味に投げつけるようになっていて、あのひとは変わらずさらりと「わたしも好きだよ」と返してくれるのがまだ少し嫌で、でも以前ほど嫌ではなくなっていた。同時に、わたしの試し行動に付き合いつづけるあのひとの胆力を、試しつづけてはいけないと分かってもいた。けれどまだ言葉が見つからず、「できるだけ長く好きでいて」と甘えてしまったわたしはほんとうに救いようがない。「嫌いにならないで」が言えないわたしの、精一杯の駄々だったのだろうと思う。永続するものなどないと知っている。けれど、能うかぎり好きでいてほしい。あのひとがくれる「わたしも好きだよ」を指でなぞっては、小さな不安をつぶしている。

夏が来て、「せんせい」が「こっち向いて」でしかないと悟ったわたしにあのひとは相変わらず甘くて、「ちゃんとそっち向いてるから安心して」と笑うので、わたしはついに「せんせい」と「せんせいあのね」を使い分けはじめてしまった。「こっち向いて」も「おはなし聞いて」もあのひとは過たずに受け止めてくれるので、わたしは安心する。呼べば応えてくれるうちは寂しくないから、呼んでほしいと思うのは贅沢なのだろう。この距離で願えるのは、「今わたしのことを考えて」くらいで、「ふとした瞬間にわたしのことを思い出して」とまでは願えない。甘えて世話を焼かれるという非対称を甘受してしまったから、甘えた連絡をするのはいつもわたしだということも受け入れざるを得ないのだろう。

夏の終わり、たくさんの口実を引っ提げて会う約束を取り付けたわたしには、やっと吐ける「はやく会いたい」は麻薬のようだった。心にもないことは言えないひとだとは思うものの、「早くおいで」も、耐えきれず言わせた「待ってるよ」も、わたしに強請られなければ言わない台詞だろうと思う。けれど、あのひとの中にわたしと同じ温度の「会いたい」はなくとも、会えれば嬉しいというのは嘘ではないのだろう。「会いに行くし、連絡もする」をもうわたしは疑わない。

***

会うたびに、ひとつフェーズが変わるなと思う。「せんせい」が少しずつ減りはじめ、代わりにわたしはたまに勇気を奮い起こしてシンプルに「好き」を伝えてしまうようになった。「せんせい」と平仮名で呼べば「ミオちゃん」と片仮名が返ってきて、「好き」と甘えれば「わたしも好きだよ」と穏やかに返されるということは、おそらくそこにどのような裏表もなく、ただ感情を共有する幸せを知っている成熟したひとがきちんと愛情の確認をしてくれているということなのだろうと思う。4年も受け取れなかったけれど、そういう類の言葉をふたりで積み重ねてゆくことを、今幸せだと思う。それぞれ勝手に決めたちいさな様式美が勝手に守られつづけてゆくことが、わたしを安心させる。吹けば飛ぶような名前のない関係を、維持しつづけようとする意思を尊いと思いたい。

言ったら負けだとでも思っているかのように「好き」を言えなかったわたしが、こうして「好き」と甘えられるのは、先にあのひとが好きだと言いつづけてきてくれたからだ。ちゃんと好きだと言ってくれるひとでうれしい。もっと軽やかに遊びたいのだろうという勝手な憶測で自制していたこともあったのだけれど、なんだかもういいと思ってしまった。なにもかも、先に好きだと言ったあのひとのせいにしてしまおう。わたしに好きだと言わせるところまで来てしまったあのひとのせいにしてしまおう。

ときどきぐちゃぐちゃになってしまう感情を、すべて「好き」という言葉に丸めている。「好き」が言えなくて「せんせい」と呼んでいたけれど、「好き」と言えるようになったので、「会いたい」と言えなくて「好き」と言っている。どれほどの価値もないそれを、あのひとがまっすぐ受け取ってくれることに救われる。「わたしも好きだよ」はまだ言わせてしまっているなあと思うのだけれど、約束ごとのように返してくれるあのひとのやさしさを、うれしい、と思う。ときどき情緒不安定になるわたしを最短で宥める方法を、もうあのひとは知っている。「わたしも好きだよ」を強請るわたしのことも、あのひとは受け止めてくれる。

あのひとの言葉はお守りのようなもので、こっちを向いてほしくてメッセージ画面を開いたらあのひとの「わたしも好きだよ」が視界に飛び込んできて満足して閉じる、を何度も何度も繰り返している。一方あのひとは衒いもなく30分以内に返信を寄越してきて、ずるい。あのひとからのうれしいメッセージはすぐに読んでしまうのがもったいなくて、あのひとはたぶんメッセージの未読既読を気にしたりやりとりを読み返したりしないひとなのだろうと思うから、わたしは安心してしばらく未読スルーを続けられる。1文字1文字うれしくて、1文字1文字だいじにしたい。あのひとの返信の早さは愛だし、わたしの返信の遅さも愛だと思う。

「好きだよ」の文字が浮いて見える程度には馬鹿で、あのひとにとってわたしからの連絡などあってもなくてもべつに一向に構わないであろうことを分かってはいても、あのひととどうにかして繋がっていたくて、なにかをやりとりしていたいと思う。けれど「好きだよ」で思考停止してしまうわたしは、あのひとになにを伝えたいのかなにを伝えればいいのかもう分からなくなってしまって、メッセージを書いては消し書いては消ししている。あのひとが「わたしも好きだよ」だけ切り分けてメッセージを打つところが好きだ。たいてい一人称は「私」なのに、「わたしも好きだよ」のときだけ「わたし」になるところも好きだ。甘えたわたしが漢字を開きがちなのに付き合ってくれているのかどうかは知らないけれど。

「先生の『好きだよ』がうれしくてのたうちまわっていたら今週が終わりました」はわりと現状文字通りで、「でもホントなんだよ」とあのひとが笑うので、あのひとがわたしに嘘をつくとは思わないのだけれど、それがウソでもホントでもわたしはせんせいが好きよ、と思ってそのまま伝えてしまった。わたしがどれだけ不安定に揺れてもあのひとが揺らがないでいてくれたことにずっと救われてきたから、あのひとの心の底になにがあろうともわたしのあのひとに対する感情を揺らがせないでいたい。あのひとの手のひらの上で踊っているだけなのだとしても、それでもいいと思った。わたしが強がる日も甘える日もあのひとの対応は変わらずやさしくあたたかくて、そうやって安定していてくれるから、わたしは北極星を目印にするようにして自分を立て直せる。

「せんせい」は「こっちを向いて」であるとともに、「わたしのことまだすき?」だったのかもしれないと、最近言わなくなって気づいた。「ちゃんとそっち向いてるから安心して」と返されたことがあって、それはあのひとがわたしの用語法に乗ってくれただけで、たぶん「ちゃんと好きだから安心して」だったのだろうな、と思っている。「こっちを向いて」と縋りたくなるのは不安だからで、あのひとはわたしの不安を取り除くのがとても上手なので、わたしはこのごろすこし安心して、シンプルな「好き」が溢れるまであのひとを呼ばないでいることができる。

***

あのひとが忙しそうにしていたから、勝手に気を遣って勝手に連絡しなくて勝手に寂しくなった。愛は酸素のようなものなので、薄くなると息が詰まる。毎回新鮮に呼吸困難に陥って、こうして情緒がどうかしてゆく夜の正しいやりすごしかたはいまだに分からない。「先に息が続かなくなるのは、きっとわたしだ」という4年前の自分の予言を文字通りなぞってしまっていて笑える。あのひとからの連絡を待とうちゃんと待とうと思って思って、これまではいつも結局待てなくて、だって、確かめないと息が、息ができない。あのひとから連絡が来ないからといってあのひとがわたしを好きでなくなったわけではないということは、頭では分かっている。ただ、息ができない。不安を理性で殺すのはいつも難しくて、泣く。

こんなに寂しがりなのにどうしてこんなことをしているのだろう、の答えはたぶん、こんなに甘えん坊だから、でしかない。昔なら「寂しいのは嫌」でやめられたのに、ただ、わたしの心の穴のかたちにぴったりとはまるあのひとは、寂しくさせる以上のものを与えてくれるので、わたしは泣いてるし期待してるし依存しているけれど、まだひとりで生きている。片手間に愛されるのは得意だし、どんなに忙しくとも返事をしてくれることは分かっているからこそ、あのひとの日常を侵食したくなくて堪えている。こういうときのために甘えて甘やかされる手軽な愛情の確認仕草をたくさん育んできたはずなのだけれど、愛されたいという強欲を、もう十分愛されているという卑屈が埋める。息が長くなりたい。細く、長く、与えられるものに満足して、我儘も泣き言も言わずに、ちゃんと笑っていられるようになりたい。自分で引き受けた寂しさならば、すこしは引きずっていけるだろうか。

3日ほど息を殺して泣いていたらあのひとのほうから連絡が来て、あのひとはほんとうにわたしのことをよく分かっている、と思う。「わたしが諦めたら終わってしまう」は、あのひとはいつもわたしを尊重してくれるしものごとに執着しないひとであるという意味ではまだそのままだけれど、能う限り細く長く紡いでいこうという意思は、あのひとにもそれなりにあるのかもしれなかった。送ってくれた写真は光の速さで保存したけれど、たまに真面目な顔をしているあのひとを見ると、翻ってわたしを見るときのあのひとの眼差しはいつもとてもやさしいのだということに気づいてしまう。

あのひとはいつも返信が早かったけれど、「勝手に寂しかったので、連絡してくれて嬉しかったです」を言ってしまってから、すぐに返事があることよりも毎日返事があることのほうが今のわたしにとっては大事なのだと気づかれてしまった節がある。「馬鹿だな」と言われたくてそのまま伝えてしまうわたしはちゃんと馬鹿だ。「今この瞬間にわたしのことを考えてくれていないと息ができない」だった時期もあるのだけれど、あのひとが注ぎつづけてくれたおかげで、もうそれほどの悲鳴ではない。「駄々も可愛いよ」と言われ尽くした結果、わたしはほとんど駄々を捏ねなくなったので、あのひとはわたしを育て直すのがとても上手だったらしい。あのひとは、わたしが唯一健全にやれる細い細いルートを、きわめて適切な手順で辿らせてくれているのだなあと思う。

ひとになにかを問うたりなにかを要求したりするのが昔からあまり得意でないのは、相手にソナーを当てて何かを探ったり炙り出そうしたりとするより、相手が見せたいものを見せてくれるほうが嬉しいからだ。「なにかを問うてはいけない人間関係ばかりを築いてきたのではないか」という指摘は、半分当たりで半分外れだ。「なんでも問うていい人間関係」は、余白のなさに息が詰まる。かつて、断定されることが嬉しかった時期もあった。相手がわたしの枠をくれるのが、居場所を用意されるようで嬉しかったのだろう。けれどもうそう若くもなくなってしまった。4年前は余白を書きたかったのだな、と当時書いたものを今読み返してみると思う。あのひとがくれた余白がうれしかったから。今は、ただどこまでも書き起こして書き残しておきたいだけだ。わたしの感情の揺れも、あのひとの揺るがなさも。

わたしがなにも問わないのを興味がないからではなく相手の見せたいと思う気持ちを待っているからだと分かってくれているので、あのひとは最近よく喋るし、あのひとがなにかをしてくれたときに「あなたがしてくれたそれがとても嬉しかった」を丁寧に伝えつづけていたら、あのひとはわたしを喜ばせるのがとても上手になってしまった。嬉しかったですありがとう、をちゃんと言えるようになっていくことが嬉しくて感謝している。嬉しいときに嬉しいと言うと、喜んでくれて嬉しいよと言われてはまた再現性が上がるので、わたしはずっと嬉しい。

好きなひとが好きだと言ってくれることもさりながら、相手に好きだと言いたくて言えて受け止めてもらえるのが、久しぶりなのか初めてなのか分からない。いつもどれかは欠いていたような気もする。好きなひとに好きだと言っていいのは、幸せなことだ。発した言葉が受け止められて、応えが返ってくる。それは当たり前のようですこしも当たり前ではないことを、わたしはもう知っている。好きだと言いたいし、好きだと伝えることしかできなくなってしまった。叶うならばその愚かしさを、可愛いと思っていてほしい。

わたしが今あのひとのことを好きなのが、ちゃんと伝わっているといいな、と思う。言ってもしょうがないことは言わないようにして生きてきたし、望まれない感情を伝えてしまう醜悪さも分かっている。けれど、昔あのひとに「好き」を言わされたのをふと思い出して、ならいいか、と思った。わたしが4年前にベッドの上であのひとに促されるままに吐いた嘘くさい「好き」のことは、どうか忘れてほしい。そして、わたしが今「好きです」を伝えるときどれだけ振り絞っているかは、できたら知らないでいてほしい、ただ甘えているだけだと思っていてほしい、と思うけれど、たぶん分かられてしまっているのだろうな、と思う。

あのひとはわたしにとって、理由であり指針であり同志であり先達であり庇護者であり海であり光であり出口であるので、「あなたがいなければ、世界は完璧だった」の裏返しとして、わたしの世界はもうだめだな、と思う。感情が爆速で発達していくせいで、正解がどこにもない世界に来てしまった。それでも、あのひとの目に映る世界ならすこしは愛せそうで、わたしはあのひとの目を通して、世界のうつくしさすらも知っていくのかもしれない。あのひとがいない世界を生きていく自信は、いまはまだない。

最近ときたま、酔った夜更けのわたしがあのひとに酷くクオリティの低い迂遠な「愛してる」を吐いていて、翌朝読み返して死にそうになる。この世界にクオリティの高い「愛してる」など存在し得ないのかもしれないけれど、いつか辿りつけたらいいな、と思う。

足のつくことに戸惑う これまでは溺れるだけの海だったから

木下龍也

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