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零したくない、溢れたくない

心の箍が外れた夜には、自分と似たようなタイプの男にばかり吸い寄せられてしまうような気がする。本音の読めない男。心のドアに辿りつくまでに無数の暖簾がぶらさがっている男。わたしを損なう可能性のある男。

***

男の腕の中で怠惰なときを過ごしている。腕枕だけでは飽き足らず、もう一方の手が背中に絡みついている。深夜過ぎから降りつづいていた雨はいつのまにか上がっているようで、薄く開いた窓から僅かに鳥の声が漏れてくる。男は眠っているはずなのに、わたしが身じろぎをするたびに、その腕が有無を言わせぬ強引さでわたしを引き寄せなおす。何度も何度も、繰り返し、執拗に。

昨夜もその手は同じように強引にわたしを抱き締めた。強引さゆえにその手に惹かれてしまう自分を、正しいとは思わない。なのに、その強引さが何を隠しているのかを知りたい、と思ってしまいそうになる。普段は磊落気取った男だけれど、そのポーズの裏側に、ちょっと類を見ないほどの繊細さと傷つきやすさと真率さが息づいている気配に、わたしは気づいてしまったので、しまったので、こうして、目を奪われる。

諦めることはいつもとても痛いから、諦念の匂いのするひとには興味がある。どこでどれだけ血を噴くような傷を重ねて、その挙措を身につけたのか。そしてその中で、なにをまだ諦められていないのか。


そういえばまた、好きな女のいる男と寝てしまったな、と思う。もう何年も彼女がいないことと、ここ数年ひとりの女性に片思いをしていることは風の噂に聞いていた。ひょっとすると女を抱くのは久しぶりだったのだろうか。「きっつ…」と苦しそうに眉根を寄せていたことだけをくっきりと覚えている。正常位から対面座位に抱き起こされたとき、アルコールに霞んだ視界の端で、鮮やかな色彩が躍った気がした。


男は、夜はバーで働いている、と言っていた。そのバーにはわたしも行ったことがあるはずなのだけれど、男に関する記憶はとても薄い。美容師・バーテンダー・バンドマンが「付き合ってはいけない男3B」だというのは有名な話だから、いずれとも付き合ったことはない。けれど、身体を重ねる分にはどうやらこれでコンプリートしてしまったようだ。

馴染みのバーもあるし、女ひとりでふらっと初見のバーに立ち寄ることも躊躇わないタイプなのに、どうして今までバーテンダーと寝るシチュエーションにエンカウントしなかったのだろうか、とぼんやりと考えてみて、わたしにとってたいせつな場所をきちんとたいせつにしてきた、ということなのかもしれないな、と思った。だとすれば今のわたしのこの挙動はなんなのだろうか。この狭い町を、たいせつにしているはずなのに。


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宵の口に始まった飲み会で、わたしが業務用のエアコンの強い風当たりを避けて男の隣の席に腰をおろしたとき、男とわたしは、初対面ではなかったけれどお互いの名前は曖昧にしか記憶していない程度の距離感で、ふたりの間の温度はまだクリアに乾いていた。けれどいつものわたしなら、エアコンの冷風よりも、男が吐き出す紫煙の方をより強く忌避していただろうから、やっぱりそこにはすでになにかが底流していたのかもしれない。

アルコールに浸されて少しずつ饒舌さを手に入れたわたしたちは、言葉のやり取りを重ねながら連鎖的に酒量を加速させる。そうこうするうちに酒席の端でテキーラのショットグラスが回され始め、1軒目を出るころには誰もが一定の酔いを表情に滲ませていた中でも、男は一瞥して「ああ、酒癖が悪いな」と分かる酔い方をしていたように思う。2軒目のカラオケに向かう道中で引き寄せられた肩は、結局入店した後も解放してもらえず、人目を憚る程度の自制心すらも失くしてわたしを抱き寄せたりわたしに崩れ落ちたりする男を、ただひたすらにいなしつづけた。


飲みの席でぽろりと零された「澪はいい子だな」を嬉しいと思ってしまうし、二次会の途中で示し合わせもせずに2人でふらりと抜け出して、店の外の暗がりで抱き寄せられてキスを落とされたあとの「かわいいなあ、おい」に胸を高鳴らせてしまうような安易な女だ。

感情の乗らない、けれどやさしいキスだった。やさしさを愛だと履き違えられるほどの幼さを、持ちつづけていられたとしたらある意味幸福だったかもしれない。


***


薄く目を覚ましたらしい男が、曖昧にわたしに触れなおす。その肌から薄く燻されたような香りがして、ああ、そういえば喫煙者だったな、と思い出す。キスからは、特に煙草の香りはしない。唇から顎のラインをなぞり、喉から鎖骨、肩へと舌を這わせたところでわたしは、昨夜視界の端に踊った極彩色に再会する。

つよい画なのに、舌でなぞったら溶けてしまいはしないだろうか、と不安になるくらいに一本一本の線は嫋やかだ、などと思っていると、くるりと視界が反転した。男は胸元に顔を埋め、ぬるい温度でわたしを溶かしにかかる。舌と歯の間に挟まれるのは、そのわざとらしさも含め、好きだ。空気の黙らせ方が上手いとか、体位の変え方がスムーズだとか、結局経験値でしかないそういう手癖をつい愛してしまうわたしはわたしで、崩れるように絡みつくように甘えるように身体を預ける方法を確立してしまっている。

相変わらず片手はわたしを捕らえたままで、やがてもう片方の指先が臍を迂回して緩やかに南下する。たしかめるようにぐるりとなぞって水音を立てたあとは、過不足ない圧が一定のリズムで執拗に続き、しがみついてふるえるだけでは声を抑えられなくなったわたしは、色の乗ったその肌にかじりつくように唇を寄せた。愛撫されながら頭を撫でられて、わたしはなにかを赦されたような気持ちになり、安心して、弛緩する。


いつの間にかまた雨が降り始めている。限界に近い湿度の中で、後ろから抱きしめられながらもういちどねむった。目が覚めたら胸の谷間にじっとりと汗が滲んでいた。男の寝顔は無防備だったけれど、わたしの僅かな動きさえも鋭敏に察知してその腕の鋳型に嵌めなおすこの男の無意識は、たぶん、すこしも無防備ではない。

昼近くなっても雨は止まない。その肩に踊る鮮やかな龍を子細に観察して、「ゲド戦記」のノコギリソウが連れているハレキを脈絡なく想起した。龍と共に生きていくという覚悟がどのようなものか、なにかと共に生きていくという覚悟がどのようなものか、わたしにはうまく想像できない。けれど、この男の目覚めのとき、真っ先にその肥料になりたい、と漠然と願った。だとすると、わたしの魂も命も、今この男の肩に蟠っているのだろうか。


そのまますこしずつ体勢をかえながら、言葉もなく夢うつつを往来し、ただ1日を抱き合いつづけた。焦燥感は、ない。ときおり、どちらかの甘えたような戯れ方に、もう一方がくすりと笑う音だけが雨音の隙間に響く。あおむけのわたしを腕で抱き寄せるだけでは飽き足りなかったのか、足まで使って絡みついてきたので、身体の上に乗った男の左足をそっと抱きしめてみた。

抱きしめた腕から零したくない男と、抱きしめられた腕から溢れたくない女の上で、時間の流れる音が、やさしかった。



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