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挙句の果ての感傷

消費しあった時間を、お互いを愛おしんだ時間として改竄しよう。ぶつけあった欲を、優しさだったと誤解しよう。あの感傷を、たしかに恋だったと糊塗しよう。

Episode 5. January, 2019

東京の家を引き払ったあと、実家に帰ったり旅行をしたりしてふらふら過ごしてみたけれど、結局空いた時間をまた東京に戻ってきてしまった。宝石箱を雑にひっくりかえして掻き回したような夜景を眼下に、羽田に向けて下降する飛行機の中で、東京で過ごした数年間のことを思い出していた。たくさんの寂しい夜を、たくさんのひとと埋めてきた日々だった。

着陸していちばんはじめに見つけたトイレで、ルージュを引いて髪のまとめ方を変える。この瞬間を、わたしは結構愛している。東京に来てから、誰もわたしのことを知らない街の気楽さを覚えた。この煌びやかで雑然とした街を、ときどき吐き気がするほど嫌いだと思う。それでもこの街はいつも、何者でもないわたしを何者でもないままに優しくその懐に隠してくれた。

あなたの最寄り駅のコインロッカーにスーツケースを投げ込んで、飲み会を1件挟んであなたと待ち合わせる。相変わらず、ハイボールを飲んでばかりいてろくに食べない男だなと思う。深夜に食べる焼肉、メガ盛りのハイボール、紡がれる言葉の心地よさ、このひとにある種の好意を抱かれているという無意味な安穏、このひとのことが嫌いではないというこれまた無意味な自覚。何度も繰り返した予定調和的な光景を、わたしたちは今日も律儀になぞりなおす。


これまで、あなたと会うのはいつもわたしの乗換駅で、あなたの最寄駅はどちらからともなく避けていた。けれどこの夜、あなたの最寄駅でひとしきり飲んで店を出たあと、わたしの手を引いて家路を辿ったあなたの横顔には、なるようになれという捨て鉢と、暗い家に帰るのは寂しいという悲壮とが同居していたから、わたしは黙って手を引かれた。

手をつなぐときはわたしが手を後ろから回したいんだよね、とぽろっと話したとき、あなたは「何が違うのか分からん」と鼻で笑っていたけれど、以降あなたがわたしの右手の掬い上げ方を一度も過たなかったことを、わたしは知っている。そういうところが好きだ、と思った。すこし泣きそうになったのは、コンビニのネオンの眩しさと、冷えた夜気の鋭さのせいだ。


***


わたしがここ半年通い詰めた、大好きなマスターのいるバーから徒歩10分圏内の住宅街。昔の恋人が常客だった中華料理屋から交差点をふたつ挟んだ裏路地。以前好きだった男と行く約束をして結局行かなかった餃子屋の角を曲がる。東京という街に関するわたしの記憶はたいてい、男と紐づいているのだな、と改めて思う。


始めて見る景色と初めて知る心境を曖昧に持て余しながら蓮っ葉な演技をしつづけるのは、それなりに精神が擦り減る。わたしに触れる手や唇の熱に溺れてしまえれば楽なのに、それ以外のすべてがわたしの邪魔をする。去っていった人は案外安いトリートメントを使っていたのだな、と意地悪な感想を抱きかけて、ああ、これ以上醜くなりたくない、と目を瞑る。わたしの髪から香る知らないシャンプーの匂いも、わたしを包むあなたの部屋着の手触りも、くったりと肌に馴染む寝具も、スパイスだと思わないと死んでしまう、と思った。

蠍座の男の、生涯かけて愛する女になりたかった。なりたくて、なれなかった。


あなたは、奪うように包むようにわたしを抱いた。1秒たりとも主導権を譲らずに。けれどわたしがしてほしいことを適切に拾い上げながら。貪るように触れたり、痛いほど舌を絡めたりすることの多かったあなたが、ゆるゆるとわたしのからだの線をなぞるように指を這わせたり、触れるだけのキスを落としたりするようになってゆくのがすこしくすぐったくて身を縮めた。殊更にわたしの好きなやり方を探すようなことも、昔はしなかったのに。

「お前の『ハゲればいいのに』がどうにも『好き』に聞こえてしょうがない」と言われて、分かってくれているのだな、と思った。それを分かってもらえているならもうそれだけでいい。「好きだと言えばいいのに」と笑われたけれど、「好き」と口にすることと引き換えに何かを誓わせるような小狡い女にはなりたくない。黙りこくるわたしにあなたは、「好きだから抱かれたいって言えばいいのに」と言葉を替え、ああ、より本質だ、と思った。それならわたしにでも言えるかもしれなかった。

「お前は恋人でもセックスでもなく、安心がほしいだけなんだろう」とあなたは自分に言い聞かせるように呟いたけれど、そこまで分かっているならもう口にしないでほしい、と思う。出会ったころに、「お前は本質的にセックスが好きじゃないだろう」と言われたこともあったけれど、たぶんそうではない。あのころのあなたのことも、あのころのあなたのセックスも、好きではなかっただけだ。あのころわたしがほしかったのは、「生きている」ということの手触りだけだった。わたしがたしかにここに存在しているという実感だけだった。

今思えば、出会ったころのわたしは、切羽詰まってはいたけれど欲情してはいなかったのだろうと思う。わたしが本当の意味であなたに欲情したのは、だから、あなたの家で過ごしたあの夜が初めてだ。かつてわたしの女の部分だけをぐちゃぐちゃに抱いた男が、改めてわたしの総体を抱き直す、ということの経験は何度かあるけれど、とてもよいものだな、と思う。


あなたは、抱きしめるときにだけわたしを呼び捨てにする。抱き方がずいぶん優しくなったから、ベッドの上で縋り付いたり甘えたりできるようになった。声を出してはいけないと思いながら堪らなくなって肩口に唇を這わせたら、「噛んでいいよ」と許されたので、嬉しくて胸がぎゅっと狭くなる。けれど、ぎりぎり痕が残らないように加減する程度には心のどこかに芯があって、同じくあなたが痛いほど吸い上げたわたしの首筋も、翌日見たらなんの痕もなかった。後ろから突かれながらあなたの手を探してキスを落として、指をくちにふくんだら、頭上から吐息に乗せた「ああ、クソエロい」が降ってきて、幸せだなと思った。舐めた指は、わたしのあじがした。

物理的に激しいセックスはどこまでいっても物理的な刺激以上の強度にはなり得ないし、結局ある地点からは受け止めきれなくなって四散してしまうけれど、ゆるゆると精神ごと溶かすような抱き方をされると快感が底なしに強くなる。結局わたしは刺激でも視覚でもなく、相手がわたしに触れる意味だとか、そこに乗せてくる感情だとかに反応して欲情しているのだろう。

昔何度か寝た男は、わたしを抱きながらよく、「いつかお前が愛のあるセックスに目覚めたら面白いなあ」と笑っていた。愛は今もよく分からないけれど、器だと思われているセックスとそうでないセックスの差は分かるようになった。だって明確に、後者の方が気持ちいい。 いちばんわたしの身体しか見ていないと思っていた男が、時が巡り感情が巡る中でいちばんわたしの心を見るようになったのは、ある意味皮肉なことだ。いまのあなたのことも、いまのあなたのセックスも、ちゃんと好きだな、と思った。

誰のものでもなくなりかけているあなたの隣で、朝まで眠る。権利も資格も手にしたわけではないのに、感情が決壊しそうになる。


わたしたちは、相手に背を向けて眠るのが好きだ、という部分で嗜好の一致をみている。抱き合って眠るのは息が詰まる。腕枕は肩や首が凝る。触れ合っていると相手の寝返りで目が醒める。でも、手を伸ばしたら届くところにいてほしい。

分かり合えることはこんなにも幸福でこんなにも無意味だ。無意味なものをいくら重ねたところで意味のあるものに変わりはしないのだという事実を事実だと言い切るにはわたしはまだ幼すぎるけれど、かといってそれを無視できるほど浅はかでもない。必要とされている瞬間があるならそれで構わないと露悪する自分にもいい加減嫌気がさしてきた。


それでも、愛だった。密度の減った家で、たくさんの記憶の残るベッドで、わたしを丁寧に丁寧に抱くあなたの瞳の奥に見たものは、たしかに愛だった。わたしの見たいかたちの、愛だった。





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