滑らかな身体とその敵

「色ボケしてるときのお前は愚かで可愛いよ」と、長くわたしを見てきた男は笑う。我ながらそう思う。

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「髪を切ったよ」「早く見たいな、会うのが楽しみ」

そんな言葉が恋人の口から溢れることに新鮮な驚きを覚える秋、恋人は、週末ときどきわたしの部屋を訪れるようになった。恋人宅のほうがキッチンが広いのだけれど、調理器具や使い勝手では慣れた自宅が勝る。

ベリーをたっぷり入れたパウンドケーキを焼いておいたから、お気に入りの紅茶を淹れてティータイムにする。わたしはダージリンよりはアッサムが好きだ。「紅茶っていいね、ほっとする。魅力に目覚めたわ」などと恋人は呑気に宣うけれど、わたしがパッケージで提供するこの時間ごと、気づけば溺れていればいい。これは、ちいさな、呪いだ。

わたしが性愛以外の文脈で男に提供するものは、だいたい全部ノスタルジー由来なのがタチの悪いところだと思う。わたしが幼いころ、母はよく家でお菓子を作ってくれた。焼き上がるにつれて家中に漂う甘い香りを、わたしは幸福と認知していた。一人暮らしももう8年目になり、すっかり自分なりのライフスタイルが確立されてしまったわたしと、そのノスタルジーとの間にはそれなりの懸隔があって、どちらを追うのが幸せなのかは分からない。そのノスタルジーはかつて確かに欲しかったもので恋しかったものなのだけれど、いまさらそれだけが「わたし」ではないとわかっている。でも、それが「わたし」ではないわけでもないともわかっている。ひとときの戯れに近いかたちでわたしのノスタルジーに相手を付き合わせることは、巻き込み事故に近いのかもしれない。

恋人のこともわたしと恋人との関係もあまり深く知らない人から、「彼、育ちが良さそうだよね」と言われて、ああ、わたしが恋人のことを好きになった一端はそういうところかもしれないな、と思った。何も知らない人からもそう言われてしまうような風情が、恋人の平生の所作には滲んでいる。育ちのいい人はいい意味で衒いがなくて、わたしのノスタルジーにうっかり共感しがちだ。このパッケージには、中毒性がある。


次の週末、健康診断を間近に控えた恋人に、昼はいくらとサーモンのクリームパスタを振る舞い、夜は一緒に餃子を包んでビールを飲んだ。恋人の下腹部には、わたしと付き合いはじめてからすこしだけ脂肪が乗った気がする。自宅で使うパスタは実家暮らしのころのままずっとディチェコのフェデリーニ一択なのだけれど、恋人に出すと毎度「細い」と言われ、確かにスパゲッティだとかスパゲッティーニだとかよりは細いよな、と思うなどする。恋人はさして食に興味のないひとではあるものの、白ワインをリーデルのヴィオニエ/シャルドネとショット・ツヴィーゼルのグレースのシャルドネで出したり、赤ワインをリーデルのオヴァチュアの赤用とピノ・ノワール/ネッビオーロで出したりして遊ぶと、味の差異を明確に言語化してくるあたりにセンスを感じる。

食後の満足感の中で、「ねえ、こないだの紅茶片手にケーキ食べるやつまたやりたい」と恋人が吐いたので、これはもうわたしの勝ちなのではないか、と思いたくなるけれど、身体に惚れさせて、手料理に惚れさせて、一緒に過ごす時間に惚れさせても、「わたし」に惚れさせている自信などない。それでもノスタルジーがやめられないわたしは手癖のようにラムレーズンを漬ける。来週末またケーキを焼こう、と思う。


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関係を切る労力すら割けずに曖昧なまま残してきた交際相手にもらったイヤリングを、恋人といるときに片方落としてしまったので、ああ、もう潮時だな、と思った。わたしは嫌な女なので、「なにを落としたの?」と問うた恋人に、「イヤリング。でも前の彼氏にもらったものだから、失くしてしまってもいいの」と返した。そしたら恋人は、「いや、ものに罪はないから。あれ可愛かったし」と笑って、芝生に膝をついて一緒に探してくれた。結局見つからなくて、それでよかった。

わたしたちはわりとお互いのex-の話を平然と口に出すし平然と聞く。わたしがトイレの壁一面に貼っている絵葉書の中に、昔の男からの個展の案内が混じっているのを、恋人は笑って見ている。恋人は、昔の彼女から海外旅行のお土産にもらったというTシャツをよく着ている。わたしはときどき昔の男と電話をするし、恋人は男友達とのZoom飲みで歴代彼女についてよく話す。胸がまったく波立たないと言ったら嘘になるのだけれど、特に苛立ちもしないのは、わたしのほうがいい女だと思っているからかもしれない。傲慢な話だ。

「初めてだったらよかった」とかいう言説の存在は知ってはいるものの、誰がなんと言おうと、いちばん綺麗なわたしを抱いているのは恋人だと思うし、恋人のいちばんセクシーな顔を知っているのはわたしだと思う。けれど、「なにもかもが経験済みになっていくと熱量が落ちる」と呟く恋人に、すこし、寂しい、と思った。だから、あなたが知らないことをできるだけたくさん、わたしと経験してほしい。


***


なんとなく後ろから愛されたい気分のわたしを、恋人はなぜかただしく酌み取って、俯せたわたしを執拗に舐め上げたり、頸や耳に舌を這わせたり、獣の姿勢で腰を押さえつけながら貫いたりした。恋人はベッドの上でこれといった指向性を見せない、きわめてノーマルなひとなのだけれど、以前ぽろっと「バックは征服感があるのがいい」と呟いていたことがあって、ああ、わたしは恋人に組み敷かれて征服されたい、と思う。恋人がそういうことを考えているという事実は、純度の高い喜びとしてわたしの胸を刺す。恋人に抱かれるのは気持ちいいけれど、直接的な快感よりも、恋人がわたしを抱きたがっているという事実のほうが何倍もわたしを欲情させる。

ぐちゃぐちゃにされたあとに恋人の胸にしがみついて呼吸を整えていたら、頭上で濡れた指を口に含んだ気配がして、わたしのなかのなにかがまた決壊した。ぐずぐずに蕩けて崩れたわたしをなだめるように背中を撫でるその手にさえ快感を得てしまうから、「落ちついた?」と問う恋人の声に答えを返す余裕すらない。もしかしてこれまで抱き潰さないように手加減されていたのではないかという恐ろしい可能性が脳裡を過り、それならそれでもっと知りたい、と思う。

ゆっくりと愛撫することを覚えた恋人は、ひとつひとつの触れかたを咀嚼する時間をわたしにくれるから、脳でセックスをするわたしは、与えられる刺激の何倍にも快感を増幅させて、そうしてひとりで狂ってゆく。ひとつひとつの喘ぎも、ひとつひとつの身悶えも、枕を掴む指先もシーツを蹴る爪先も、相手を欲情させるためだけに精緻に緻密にコントロールしてきたつもりでいたけれど、なんのことはない、ただ己の欲情を深めるためだったのかもしれない。どこまでも自己愛まみれだったのはわたしだ。

わたしを抱き始めたころ、恋人はよく、「澪も気持ちいい?」と「澪も気持ちよくなって」とかいう言葉をかけてくれて、わたしはそれ以降、恋人にどんな触れ方をされようとすべて「きもちいい」に変換されるようになってしまったし、わたしに「きもちいい」しか与えなくなった指先を、もう嫌えるわけなどない。だから、この指先は、わたしを容易く幸福にした今日と同じ軽やかさで、いつかわたしを容易く傷つけるだろう。


休憩がてらに「自己愛性人格障害の特徴」なるリストをひとつずつ読み上げていたら、恋人に「澪じゃん」「それも澪じゃん」「あ、澪じゃん」と混ぜ返されて大変に楽しかったけれど、そうこうするうちに恋人が悪戯に触れてくるせいで、わたしはまともに文字を追えなくなってしまう。「どうしたの、続き読んで」と耳元で囁かれて、ああ、こういうこともできるひとなのか、と息を飲む。やがて強まりすぎた快感に思わず「ストップ」と請うたら、「んー、ストップしなーい」と口角を上げられて、その表情に腰が蕩けるかと思った。恋人の知らなかった一面をまたひとつ知り、うれしい、と思う。

キス魔であること以外に取り立てて特殊性をもたない恋人は、おそらくその特殊でなさゆえに、いかなる特殊性をも一定程度器用にこなす。サディスティックな仕草も、マゾヒスティックな喘ぎも、恋人とは矛盾しない。

わたしが脱がせかけたTシャツを顔と手首に絡めたまま放置したら、そのままおとなしく視界を塞がれたまま無防備な脇の下を晒して喘いでくれる恋人は、案外にロールプレイが上手なひとだ。攻守が交代したときの流れで珍しく目隠しをされたこともあったけれど、わたしは昔誰かとの同様の行為に覚えたのと同じ焦燥と解放の綯交ぜになった快感をもう見いだせず、恋人は「うーん、気持ちいいけどいつも気持ちいいからなあ」と目尻に笑い皺を刻んだ。わたしはおそらくその言葉から、行為そのものによって得た快感よりも多くを受け取った。

「いってほしいって言わないと無限に抱きつづけるよ」と笑われて、恋人はわたしの上でこんな顔をするひとだったかしら、と脳のどこかがまた疑問符を提示するけれど、そんなことももううまく考えられない。珍しく少し強引な抱き方をしたのは、わたしが手首を押さえつけられることや胸の尖りに歯を立てられることすらも快感に変換してしまうくらいぐちゃぐちゃになっていることに気づいたからだろうか。


「身体の中で抱えきれなくなった快感を喘ぎ声にして逃しているから、喘げないと快感が許容量を超えてしまう」と言ったら、「ああ、だから抱きながらキスをすると苦しそうなのか」と恋人はなぜか嬉しそうに笑い、「やめないけどね」と付け足す。その瞳の奥に、ロールプレイの範疇を越えかけた淡い嗜虐が見え隠れする。わたしに絆されて「普通」を逸脱していくひとを隣で見ているという事実に、背筋に熱が走る。恋人は、不穏な性癖などひとつももたないくせに、ときどき驚くほどの精度でわたしの倒錯を満たしてくる。

刺激を求める小道具を必要としなくなるのと前後して、わたしはベッドの上で恋人の顔を見られるようになってゆく。後背位はコンテクストとしてもごく身体的な意味でも気持ちがいいから、「バックで突きたくなる身体」というわたし評は嫌いではなかったし、セックスは全部後背位でいいとすら思っていた時期も長かったけれど、恋人と寝るようになってから、キスで互いの吐息を飲みあえないことをどこか寂しいと感じるわたしになってしまった。撓む恋人の眉根をこっそり覗き見られないのは悔しい。抱えきれない快感を持て余して縋り付けないのは切ない。自分の喘ぎ声にすら欲情できるタイプではあるけれど、わたしはいま、「抱かれるわたし」に溺れるよりも、「わたしを抱く恋人」に溺れていたい。


眠りかける恋人を、そっと甘噛みする。キスをするのが好きなひとだから、きっと肌に歯を立てるのも好きになるだろうと信じて、まずはわたしがその肌に歯を立てつづけて3ヶ月、恋人はわたしが与える痛みに少しずつ慣れはじめる。煽りに乗ったら負けだと思いながら恋人の肌に友人が歯型を刻むのに耐えていた日々も、思えば遠くなった。わたしだってずっと、恋人に歯型をつけたかった。

見えないところにつけた、わたしの歯並びの形の丸い痕に、どうか消えないでと願う。倒錯していると笑うなら笑えばいい。だってわたしのものだ。このひとはいま、わたしのものだ。

わたしがいつも触れられたいようにしか触れていないことを恋人はもう知っているから、きっとそのうちわたしに歯を立ててくれる。恋人がわたしを痛くするなら嬉しい。わたしに恋人の痕をつけてほしい。物理的な傷をつけたくなるほど、愛しいと思われたい。

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