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心と身体と

離れたくないというあなたの言葉にはそれなりの真実が含まれていると思うし、離れたくないと叫ぶわたしの心が嘘を吐いているとは思わない。けれど、わたしは敢えてその悲鳴を無視してこの街を出る。不穏な悲鳴を、これ以上愛されないために。

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Episode 9.  February 2019 ver.2

結果的に離れざるを得ない選択をしたのはわたしだったし、決めたことを翻すつもりもなかったから、揺らいでいるあなたの前で揺らがないように、たぶん随分気を張っていた。苦し紛れでしかないその「好きだ」に、言語にせよ非言語にせよ、答えを与えてしまわないように。苦し紛れでしかないこの心の中の「好き」を、うっかり舌に乗せてしまわないように。

あなたと「次」を約束したことは一度もない。というよりたぶん、約束して会ったことすら一度もない。それでも緩やかに繋がりつづけてきたことに何らかの意味を見出そうとすること自体、きっと間違っているのだろう。お互いがお互いを同じ温度で必要としていた、ただそれだけだ。

宿なしのままあなたを誘って、半ば確信犯的にあなたの家に転がり込んだとき、「荷物置いてていいよ。他所に泊まってきても構わん。来るか来ないかだけ連絡をくれ」と言われて、ああ、あなたはほんとうにわたしのことをよく分かっているなあ、と思った。そういう意味で、あなたとの初めての約束は、これと、「鍵は出かけるときにポストに入れといてくれ」だった気がするし、そのことがなぜかとても嬉しかった。

夜、あなたの仕事部屋から漏れてくる光だとかマウスのクリック音だとかキーボードの鳴る音だとかを暗い階段に座って感じるともなく感じていると、父が閉じこもっていた部屋のことを思い出して、つい不安定になってしまいそうになる。わたしを抱かずに海外ドラマで時間を潰しているらしいあなたを察知して、わたしの存在の軽さを何度も自分に言い聞かせた。ひとりで過ごすことが確定している夜の寂しさと、来るかも分からない誰かを待つ夜の寂しさが違うことくらいは知っていた。けれど、触れたいひとが手の届くところにいないことの寂しさと、手の届くところにいるひとがわたしに触れないことの寂しさが違うのを、わたしはあの日々の中で初めて知った。

あなたがいまほんとうに求めているのはわたしではない。あなたがいまほんとうに愛しているのはわたしではない。わかっている。足場をなくして寂しいだけだ。あなたも、わたしも。あなたがわたしに触れないとき、その背中にわたしは触れられない。触れたらなし崩し的に巻き込まれてしまう。もしくは巻き込んでしまう。それは中長期的に見て、わたしたちにとっておそらく、さほど幸福なことではない。いま溺れてしまうのは、とても容易いけれど。

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しばらく居候していたあなたの家で、リネン類をまとめて洗濯した。肌触りよくくったりと馴染んだカバーの紐を解いて引き剥がすのに合わせて、あなたの哀しみが軽くなればいいと祈った。洗濯後、乾いたカバーをかけて紐を結ぶたび、あなたにわたしが刻まれればいいと願った。あなたはその後、わたしの匂いの染みたリネンを洗えずにいるのだと告白してきたけれど、さすがにもう洗濯しただろうか。

あなたはわたしがすこし洗い物だとか掃除だとかをしておくだけで、目敏く気づいて感謝の言葉をくれるし、出先であなたのことを思い出してなんとはなしにチョコレートなど買って帰るだけで、過剰なまでの喜色をその目尻に浮かべるから、そのストレートさが嬉しかった。その手の可愛げは、平生のわたしに圧倒的に欠けているものなので、深い学びがある。


あの紐を何度も結んだりベッドを整えたり部屋の掃除をしたりした人を、あなたはどんなふうに抱いたのか、とか、その人とあなたがどんなふうに生活をしていたのか、とか、悪趣味な想像をしたことがないといえば嘘になる。好きな男がいい男であってほしいのと同様に、「好きな男が愛した女」がいい女だといいな、と思う。わたしが他人のものである男と殊更に関係を持つのは、相手が全きものとして完成している家庭を持っているにもかかわらず、何らかの形で殊更にわたしを必要とし、心のなかにわたしの居場所を作ることが嬉しいから、かもしれない。それがどれほどの広さでも、相手にとって、そこはわたしのための場所だから。

それでもほんとうは、あなたがいま寂しいことに、わたしは直接的にか間接的にか一部加担してしまったのではないだろうか、と己惚れ混じりにずっと思っている。それが的外れな自惚れであればいいとずっと願っている。あなたを不幸にするつもりなどなかった。そう、なかったのだ。わたしに触れるその手を許したあの夜も、わたしに触れる唇を許したあの夜も、寒さに耐えかねて抱きついたあの夜も、寂しさに耐えかねて泣きついたあの夜も。あなたの肌に痕を残したことはたぶん一度もないけれど、それでも、あなたの胸で泣いた夜、あなたのスーツに僅かに付着したわたしのアイシャドウのラメを、わたしは払わずにわざと見過ごした。

筋金入りの自己責任論者であるわたしは、あなたが自己責任ですべてをマネージできるひとであることを信じて疑わず、あなたは一度も何かをわたしのせいにしたことはなく、わたしに何かを背負わせたこともなく、わたしはあなたに一度も何かを要求したことはなく、あなたに何かをぶつけたこともない。あなたの人生を変えうるほどのわたしであると思い上がれるほどの傲岸さはない。わたしという存在があなたの人生においてそれほどの重みをもっているとは思えない。それでも。

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決めたはずなのになぜ涙が溢れてくるのか分からない。「また泣いてた」と夜明けに近い夜更けになってからベッドに潜りこんでくるあなたは半ば呆れ顔で、「泣いてない」と強がることしかできないわたしは背を向ける。けれど、触れもしないで「だって頬が濡れてる」と手慣れた台詞を吐ける男に、わたしはほんとうは委ねてしまいたいのだ。布団の奥に潜り込むわたしを「寂しかった?」と掬い上げて、駄目押しのような「寂しかったな」を落とすのはずるい。なにひとつ答えていないのに、なにひとつ取りこぼしていなくてずるい。

「好きだと言えばいいのに」とあなたは笑う。そう言えてしまえる女ならどれだけ楽だっただろうか。わたしは今夜も、「言っても意味がないもの」と可愛げのない答えしか返せない。「じゃあそうやって毎晩泣くことに意味はあるのか」とあなたは問うけれど、その問いが答えを求めていないことくらいは分かる。あなたがわたしという器を求めていることくらいは分かる。わたしがあなたを求めていることくらいは分かる。

前戯も早々に挿入したあと、対面座位でお互いの上半身を脱がせあって、その柔らかな肌のたしかな温かさに安堵する。この10年でわたしは、ひととつながるためのツールとして己の身体性を意識し、手にし、弄び、かたちづくってきた。心に触れられることを拒みつづけながら、身体に限って「もっと知りたい」を比較的容易に許容できてきたのは、人物像も人間性も嘘まみれなのに、身体性だけは嘘をついてこなかったからだ。言葉は半ば以上偽物だけれど、身体が孕む熱だけは本物だからだ。身体の底に、心がある。身体に触れてくれることに、安心する。

正常位から対面座位に移行するときの引き上げ方の力強さは、いつだって愛しい。「セックスは裸でするものだ」というのがあなたの持論で、その大きな掌に服を剥ぎ取られるのが好きだった。身体がどれだけ裸になって、どれだけ溺れたような顔をしていても、心には頑なに鎧を纏わせたままでいる、そんなわたしですらも許容するあなたが好きだった。

喉の奥を執拗に塞がれて呼吸を封じられることから解放されたわたしが涙目で咳き込んだときに相手が発する「ごめんね」にどの程度の誠意がこもっているかで男を判断しようとするのが間違っているのは分かっている。あなたは、「悪かったな、でもお前はそれも好きなんだろう?」とすべてを見透かしたような顔で笑う。笑いながら嗜虐的な目をするから、脳が蕩ける。

実際に気道を圧迫されることそのものも気持ちいいけれど、「目の前の男がわたしの首を絞めたいと思っている」という事実が気持ちいい、のほうがわたしにとっては強いので、首に手を添えられるだけで嬉しくなってしまう。あなたは、「お前は、相手でも行為でもなく、『されてる自分』が好きなだけだよ」と早々と見抜いていたけれど。

首を絞められるのも噛まれるのも叩かれるのもわたしにとっては快感を導く刺激であることを、特に疑問に思ったことはなかったけれど、かつて何度目かに寝たときのあなたに、「それは『そうされている自分であること』が気持ちいいんだろう」と言われたのは文字通り目から鱗が落ちるようだった。あなたはときどきそうやって、わたしの中の混沌をきわめて適切に言語化する。


あなたは昔から、避妊具をつけずにわたしを抱く。「中で出したい」がひとりよがりな征服欲の極北であることをわたしは知っているから、避妊という文脈においてはそれを許さないのが今さら無意味であることを知りながら、頑なに拒みつづける。あなたにとっても、わざわざ口にするあたり、ある種スパイスでもあるのだろう。

わたしが容れられなかったあなたのその懇請をかつて容れた人は、どのように、どんな思いで容れたのだろうか。そのときあなたはそれを、どのように、どんな思いで発していたのだろうか。それらを想像しようとしてもし得ないことこそが、わたしがここにいられない理由かもしれなかった。

わたしを抱く男の顔など、誰であろうともかつて一度も正視したことがなかったのに、最後だからと思ってうっかり顔を見てしまった。目尻の皺は案外いつもと変わらず優しくて、ふと、わたしたちが満たしたかったのが欲でも寂しさでも、すべてこれでよかったのだ、と思った。わたしにとってあなたの手を放すことはとても寂しいけれど、でもそれだけだ。ただ、どうしようもなく、寂しいだけだ。


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