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父性の砂糖漬け

くちのなかで転がす、昏い欲望。わたしには、甘い。

第二夜

つまみ食いは一口目が一番美味しいから、ほんとうはもうあれきりでもいいかなと思っていたのだった。恋愛をしたいなら後朝に連絡をしたほうの負けだとわかっているし、勝ち負けでしか恋愛を測れないわたしは所詮、勝ち負けのある恋愛しかしたことのない女だ。けれど、今わたしたちの間にあるのは、恋でも愛でもない。

軽くジャブを打ってみたら気の利いた返しをされた挙句、「天候不良のせいで、仕事は明後日に延期になったよ」と追い打ってくるあのひととは、綺麗に遊べるという安心感がある。読書を好むひとかどうかは知らないけれど、ハイビスカスの咲く町で、吹きすさぶ潮風に閉じ込められた生温い数日を若い女と絡まって過ごすのも、辻仁成か村山由佳あたりの書くくだらない小説じみていて悪くないだろう。

***

窓を揺らすつよい雨風の音を聴きながら、小さなテレビの中でゲルギエフが振るウィーンフィルを2人でぼんやりと眺めた。最後の曲が「展覧会の絵」だったので、プロムナードを織り交ぜながら進行する作品の構成をあのひとにすこしだけ話した。「卵の殻をつけた雛の踊り」が一番好きだと言ったのは、別に鳥が好きなあのひとへの阿りというわけではなかった。好きなものを愛するときのまっすぐさもまた、あのひととわたしがこの町に流れついた理由のひとつかもしれない。

話の切れ目にあのひとは、馴れた猫でも抱き上げるような気安さと優しさの同居する手つきでわたしを後ろから抱き、すこしずつ意思をつよめるその手に、わたしはやがて耳と目を失った。


ベッドの上で非言語的な勘でもって合意しあえる相手が、とても好きだ。

頭を少し押さえられただけで首筋から鎖骨へ、さらに下方へと舌を這わせ始めることとか、軽く喉を突き上げられただけで、目の端に生理的な涙を滲ませながら奥まで咥え込むこととか、腰を支える手の位置を少し変えられただけで上体の角度をゆるやかに沿わせることとか。

下着だけは自分で脱ぎたくないわたしの下着を丁寧に剥がしてくれることとか、挿れられた瞬間の快感を反芻しきるまで動かずに黙って待っていてくれることとか、バックでしたときに1ミリの迷いもなく指を口元に差し出してくれることとか。

言語を介さずに己の意思を伝えることを知っている人。言語を介さずに相手の意思を受け取ることを知っている人。


「変態」とベッドの上でわたしを形容するあのひとの言葉は、すこしの嘲りも咎めもふくんでいなくて、「俺を欲情させる」というコノテーションすらもなくて、ややもすると「かわいい」と聞き間違えそうになるくらい、ただやさしく差し出されたのだった。戸惑ったわたしが「だめ?」と問えば、あのひとは「当たり前のことだよ」と低い声で応えた。それは今までにわたしが受け取った、もっとも純粋で穏やかな肯定だったかもしれない。

いつの間にか雨は止んでいた。仄暗くあたたかくやわらかな、海の底に揺蕩うような夜だった。


***


明け方ふと目を覚ましたら寝顔を眺められていた、というシチュエーションを、愛せる相手と愛せない相手がいる。愛せる相手を選ぶのは、わたしの内なるファザコンである。父性不在の家庭で育ったわたしは今も、「父親」像と寝ては、穴のあいた器に代替品の愛と安心を注ぎ足している。

事後、入眠前の繰り言として、「ハタチも過ぎて、自分の生きにくさを親のせいにしちゃだめだと思うんですよ」などと自嘲気味の内省を何の脈絡もなく口走ってしまったけれど、あのひとも、育った家庭の機能が全きものではなかったことはその後知った。初めて会った日に「子供はほしかったけれど、なかなかできなくてね」と語っていた明け透けさに、どこか不透明なものを感じていたわたしの嗅覚は、どうやら正しかったらしい。


父親になれないあのひとは、少しいびつにわたしを抱く。

己の中の父性を持て余して、わたしの中の女を抱きながらわたしの中の幼児性を愛で、そしてときおり、わたしのからだの、わたしのためのものならざる部分を揺り起こして器にしたい、という昏い感情が、春の洪水のようにその瞳の奥から溢れ出てくるのが見える。

「そんなに人肌恋しい甘えん坊だと、ひとりで生きるのが辛いだろう。早く誰かにもらってもらえ」とあのひとはわたしの髪を弄ぶ。あのひとがもらってくれるわけでもわたしがもらってほしいわけでもないから、ことばはそのまま、宙に泳ぐ。その舌の根も乾かぬうちに、抱きながら「このまま俺の子を孕むか」と独り言のように問うてきた声音は冗談めいていたけれど、ああ、このひとはほんとうに子供がほしいのだ、とその瞳の色を読めてしまったわたしには、ただ黙ってあのひとを抱きしめることしかできなかった。

「俺の子供を産んでほしい」という言葉は、これまでにも何人かからぶつけられたことがあるけれど、今回受け入れる余地はなくとも少しだけ理解できるような気がしたのは、あのひとを父親向きの男だと思ったからだ。ジェンダーロールを適切に受容して、適切に父親をやれるだけの度量を育てたひとだと思う。自分のせいではない物事に対して「ごめんね」と言える男は、父親向きだ。引き受ける覚悟と、赦す強さのある男。適切に父親をやれる人間が適切に父親をやらないのはこの世の損失だと、適切に父親をやれない人間が適切に父親を放棄した結果の産物であるところのわたしは、思う。あのひとが子供をもてずにいることはきっと、世界にとって、とても惜しいことだ。

わたし自身は、子供はほしくないと言い切ってきたし、実際、父親探しがやめられないうちは、わたしが子供をもつことはないだろう。けれど、動物であるわたしを見たあのひとが、「時が来れば気が変わる」と言うから、一応その言葉を心の片隅に置いておくことにする。



持て余されて煮崩れかけていたあのひとの父性に、行くあてのない甘さをまぶして砂糖漬けにしようと思う。無意味な甘さだけなら、都合よく溢れるほどに持ち合わせている。すみれの花ほど軽やかでも、少女に戻れもしないけれど、そうやって糖衣された父性はよく日持ちして、わたしの心の穴を、ほんのすこし、あまやかに、ゆるやかに、埋める。

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