隊長のビールと坊ちゃんのワイン 17.
第一話から読む
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ネフェルは率先して丸太を運んだ。
デメトリア周辺の海岸線は砂地が少なく岩だらけで、ただ歩くだけでも足場が悪い。そこを丸太や大荷物を担いで運び、少しばかり平らな場所に櫓を組むのは、訓練された軍人でも辛い作業だ。
「隊長、来ますよ!」
見張りからの合図でネフェルは担いでいた丸太をその場に下ろす。位置に付けと命令を出し、隊員を海岸線に沿って並ばせた。
「ここももうすぐ完成しますね」
「ああ、もう一息だ。今日中に全部組み上げるぞ」
隊の今の任務は、この櫓を完成させることだ。
一部の新兵は「隊長自らそんなことを」と戸惑いの顔を見せたが、すでに何年か共に過ごした隊員は何も言わずネフェルに付いてきてくれる。
百人隊は軍団の基本単位だ。ネフェルはその隊長であり、戦闘時以外でも所属兵の世話をするのが仕事。村での生活はもちろん、後方支援でも部下に背中を見せるのが、ネフェルのやり方だった。
口で指示するよりやって見せる方が早い。頑張れとか、怯むなとか、言葉を選んで声をかけるより、自分が先に駆けて行く方がこいつらは付いてくる。他の隊長や貴族の流儀は知らないが、ネフェルはずっとそうしてきた。
「ダーッ! 疲れた!」
宿営地に戻って一番に叫んだのは、今日もパセルだった。
デメトリア市の城壁の外側、街道と海岸の間の土地に、ビッシリと簡易小屋が建てられている。この十日ほどで急ぎ建設された、ネフェルたち兵士のための休息地だ。
一般兵は人数いっぱいに詰め込まれているが、隊長であるネフェルと、名目上貴族の子息であるパセル、そして軍医の役目を担うヤコモは、三人でひとつの小屋を使っている。
一日中丸太を運び続きていたネフェルとパセルは、小屋に入るや否や薄い敷物の床に転がった。
「お疲れ様。東はまだ大丈夫?」
ヤコモが顔を上げて、すぐにまた手元に視線を落とす。小さな窓辺で何やら書物を読み耽っていたようだ。
「ああ、たまに挑発しにくる船はあるが、本気で上がってくるつもりじゃなさそうだ。櫓と柵もほぼ完成したし、そう簡単には上陸されねえだろう」
ユリアンがデメトリアを去ってから十日で海賊団の襲撃があった。それから更に十日間、断続的に小競り合いが続いている。
「村から差し入れが届いてるよ。多分ビールじゃないかな」
ヤコモが小屋の隅を指差した。入口近くに甕が五つも並んでいる。
「よっしゃ、気が効くじゃねえか」
「待て待て、俺らだけで飲むわけにはいかないだろう」
そのまま甕に口を付けそうなパセルを止めておいて、一旦小屋を出る。ネフェル率いる百人隊、通称アルゲアス隊は八棟の簡易小屋を割り当てられている。甕が五つあるなら、なんとか全員に行き渡るだろう。
城壁の西にある村から、東の端の宿営地まではおよそ二マイル半。おそらく荷車で運んで来てくれたのだ。
隊員に声をかけてビールを分け合い、ようやくネフェルも自分の小屋で腰を下ろした。
今日も暑かった。疲労を自覚した体に流れ込むビールは効果抜群だ。ネフェルは何も考えずに杯を傾け、一息に中身を飲み干す。
「増援、まだ来ないの?」
ヤコモはビールを辞退した。それは重労働に出ている隊員の取り分を増やそうという気遣いではなく、酒を飲むと頭が鈍るからだそうだ。ヤコモは宿営地では酒を飲みたがらない。
「あんまり期待できそうにないな」
ネフェルが肩を竦めると、パセルが吠える。口の周りについていたビールの雫が飛び散った。
「なんで今回に限って全然いないんだよ、アルバ軍は。艦隊が一気に包囲してくれりゃ、すぐなのによ」
ケメト特別州の海域で変事があった場合、帝国領土のサイプレス島からアルバ東方軍の援軍が派遣されるのだが、今回はその数が極めて少ない。別任務のため島に船がないというのが帝国側の言い分であった。
「別任務ってなんだよな?」
「そんなことボクらが知らされるわけないでしょ」
パセルの不満はもっともだが、ヤコモの言う通り帝国側の事情は属国であるケメトにはなかなか入ってこない。
ただ、その少ないアルバ軍船が最前線で海賊の攻撃を防いでくれているおかげで、ケメト軍の戦闘での被害はほとんど出ていなかった。
襲撃は変則的だった。
敵は日の出と共に前線のアルバ海軍に襲いかかるが、日が高くなる頃には撤退を始める。ネフェルたちが整備している海岸線を冷やかすように近づきはするが、ただの挑発だ。その後は真っ直ぐ北へ向かう船、東寄りに向かう船と散り散りになって、帰って行く地点も分からない。もちろん近くの港、島、岩場に至るまで、目の届く範囲に海賊の拠点がないことは探索済みだ。
そして奴らはまだ日が昇らない真っ暗なうちに舞い戻ってきて、気付くと目の前にいる。
皮肉なことに、夜も煌々と輝くフヴァル島の大灯台が、闇夜の接近の手助けになっていた。かといって火を消せば味方も夜の海で迷う。
アルゲアス隊はまだ戦闘には参加していない。隊は陸上での騎馬、戦車術に長けているため船には乗らず、後方の補給や、海岸防衛の整備に従事していた。
「そういや、坊ちゃんは元気なんかな。結局アルバ市に帰ったのか? モレアに行ったのか?」
「どうだろうな。そのうち便りが来るだろう」
パセルの気楽な問いには曖昧に答えておく。ネフェルも知らないのだ。おそらくモレアに向かったのだろうが、そのまま上陸したのか、他の土地へ渡ったのかまだ報せはない。
ヘラスは監督府に預け、アルゲアス家から世話人を出した。順調に回復していることをユリアンにも伝えたいのだが。
「ネフェルの判断が早くて正しかったね。あと少しで本当に帰れなくなっていたもの」
しかしユリアンが随分あっさりと従ったことが、ネフェルは気にかかっていた。
*
翌日も夜が明けるや否や、海賊とアルバ・ケメト軍の小競り合いが始まった。
アルゲアス隊が配置されたのは、デメトリア市から東に五マイルほどの海岸線。対峙する船の影がよく見える。
アルバ帝国が派遣してくれたのは三段櫂ガレー船が五隻と、二弾櫂ガレー船が十隻の合計十五隻。ケメトの軍船は三段櫂が五、二段櫂が二十。
海賊団は目算でおよそ四十隻と少し。数は多いもの中型の帆船ばかりで、アルバ・ケメトの海軍とは明らかに戦力差がある。しかし、海賊が正面からぶつかってくるわけではないので、艦隊も力を持て余しているようだった。
「今日もこのまま睨み合いですかね」
「あいつらホント、何がしたいんだか。気持ち悪いっすね」
隊員たちも退屈そうに遠くの船を眺める。担当していた櫓と柵が組み上がり、あとは海岸から周辺海域の見張りと防衛が任務だった。
ネフェルは遠見用の水晶を覗いた。読書用より一回り大きく、目の前拳一つ分ほどの位置に掲げると、船が二マイルは近付いたように見える。
海賊船の中でも大型の一隻を挟み撃ちにしようと、ケメト・アルバ両陣営の船が並走していた。標的の海賊船が急にケメト軍の方へ舵を切り、衝突を避けるためにケメトが失速した。二隻の息が合わなければ挟み撃ちは無理だ。あえなく海賊船は挟撃をすり抜けた。
帝国海軍は天下に名を轟かせているが、ケメトは海軍が弱い。それはそもそも帝国側との協定で、軍船の数を最小限に抑えているからである。
「あーあ、ダリィ」
パセルが大口を開けてあくびをしたので、ネフェルはその脳天を平手で叩いた。
「いってえな、なにすんだよ!」
「ちゃんとしてろ馬鹿」
敵方には、明らかになんらかの策略がある。こうしてデメトリア近郊に軍備を割いている間に、国境の他の場所を攻撃して侵攻するか、それ以外に何事かを起こすつもりに違いない。
だがしかし、それを突き止める手立てもなければ、目の前の海賊どもを蹴散らす軍備も不足していた。
「あれ? なんか逃げてないか、海賊共」
櫓の上で会場を見張っていた兵士が声を上げた。ネフェルも慌てて手元の水晶を翳す。
「見えますか?」
「なんとなく……もしかして、援軍かもしれん」
ネフェルの視界の奥。北の海の向こうから、船が増えたように見えた。アルバ帝国から増援があるなら、この方角だ。
ちょこまかと動き回っていた海賊船の動きが乱れる。
そして、敵の船の多くが東に舵を切った。いつもなら正午までは小競り合いを続け、それから東へ逃げていく。
「援軍っぽいですね」
「アルバが来てくれたんですよ」
ネフェルたちの前に、数隻の海賊船が近づいて来た。
戦闘状態を解いてどこぞのアジトへ帰る前に、こうして冷やかしと挑発をするのはいつも通りだった。
「ああ、くそっ、ホントに腹立つなアイツら!」
ネフェルは警戒した。パセルは毎度ながら挑発に怒っている。
海賊共は手を振り、頭を振り、おそらくおかしな顔をしたり手を叩いたりして、侮辱の踊りを踊っていた。まだ距離があってよく見えないが、全力で馬鹿にしようとする気持ちは伝わってくる。よくあれだけ全身で感情を表現できるものだと感心すら覚えた。
そのうちの一隻が随分と陸に近付いた。漕ぎ手二十人ほどの小型船だ。船体と同じくらいの大きさの帆柱に、三角形の帆が張られている。
射程圏内に入ってくれば弓を引く準備は出来ている。ネフェルの合図で隊員が一斉に弓を構えた時、パセルが柵の上に飛び乗った。
「パセル! この馬鹿!」
「うるせえんだよテメエら! いい加減黙りやがれ!」
柵の上から放たれたパセルの矢は踊っていた男の上半身、おそらく肩のあたりに命中した。矢の勢いそのままに男は背後に倒れ、船の縁を乗り越えて海に落ちた。
と同時に、近くの隊員ふたりがかりでパセルを引き摺り下ろした。こちらの矢が届くということは、向こうの攻撃も届くのだ。柵の上など恰好の的。
パセルが落下したのを見て、ネフェルは号令を発する。
「打て!」
今度は無数の矢が船に襲いかかった。ギャッという悲鳴がここまで聞こえてくる。またふたり海に落ちた。多くの漕ぎ手が櫂を手放している。すぐさまケメト軍の船が近づき、一隻分の海賊たちが捕虜となって引き上げられた。
*
援軍が来た。
ネフェルのもとに正式に報せが届いたのは、引き上げた捕虜をすべて縛り上げた頃だった。
駆け付けた伝令がネフェルの前で膝を付く。
「我が軍を助けに入った一団の責任者が、ネフェルメリラー・アルゲアス様に目通り願うと申しておりまして」
「やっぱりアルバ軍の増援だったか」
ネフェルの脳裏に、食えない笑みのレグルス・クラディウス・フィレヌスの顔が浮かんだ。
気さくな同年の司令官は、打ち解けてなお腹を見せてくれない。しかし彼は優秀かつ、責任感の強い男だった。レグルスなら何か手を打ってくれるだろうと、ネフェルは期待し、信じて待っていたのだ。
「はっ、それが、帝国籍の船であることは間違いないのですが……」
伝令の答えは歯切れが悪い。
「帝国籍の船ってことは、アルバ軍の船だろう?」
「それが、軍、という感じではなく。とにかく、援軍には違いないのですが」
それ以上の情報が聞き出せず、ネフェルは急ぎ港へ駆けつける。ヤコモとパセルも何事かとついて来た。
港には緋色のトーガを纏った人物が待っていた。
おかしい。レグルスも立派な貴族だが、司令官として船に乗る時にトーガを着ない。普通は鎧だ。
堤を渡っていくと、その貴族の背格好が分かってくる。ネフェルはまさかと冷や汗をかいたが、さらに近づくと髪の色が分かり、はっきり顔立ちが分かる頃には足がもつれた。
ユリアンだ。
おかしいと思ったのだ。聞き分けがいいように見せかけて、これと決めたら頑固で譲らないユリアンが、あっさりデメトリアを離れた時点で、もっと疑うべきだったのだ。
「約束通り援軍を率いて参った。急いだ故ほとんどハッタリだが、奇襲くらいは出来るものだな!」
そんな約束はしてない。
動揺のあまり、ネフェルは何もないところで盛大に転んだ。
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