隊長のビールと坊ちゃんのワイン 13.
第一話から読む
https://note.com/miosan303/n/n667d9b1af522
ヘラスは起き上がって食事を取れるようになってきた。
「午後の時間は、どのようにお過ごしに?」
そう聞かれ、ユリアンは考え込んでしまう。
そういえば何をしていただろうか。ヘラスの様子が気にかかる間はずっと部屋にいたし、先日のようにネフェルに連れ出されない限り、何をするということもなかった。
一緒に看護をしていたパセルが、ユリアン非難の目を向けてくる。
寝台のヘラスが珍しく焦りの表情を見せた。
「まさか日々の鍛錬も中断されておられるのですか」
「ああ、そういえば。いつもそなたらに鍛えてもらっていたな」
アルバの邸宅でも、留学先のモレアでも、午後になると何かしらの鍛錬をしていた。相手はだいたいヘラスで、デメトリアに来てから一度だけレグルスも付き合ってくれた。
「読書は……?」
「持って来た蔵書も燃えてしまったからな」
「だから、ヤコモに言えばなんか貸してくれるって言ってるだろ」
パセルの言葉に、ユリアンは拗ねたように横を向いた。分かっているが、何もする気が起きないのだ。書物を借りても読まずにいては失礼というものだ。
「鍛錬なら付き合ってやってもいいぜ」
パセルが随分と楽しそうな声で言った。ユリアンを投げ飛ばしたいという気持ちを隠そうともしていない。遊んでやる、ということか。
思惑に付き合ってやる必要はないが、外で過ごせばヘラスも安心すると思えば、ユリアンは頷いていた。
「表の庭でいいよな」
家の正面は砂交じりの土の地面で、すみに日除けの屋根があり、少しの荷物が積まれている。それ以外はただただ平らな庭だ。
「戦車競技ってわけにはいかないよな。レスリングでどうだ? ギュムナシオンでもやってるだろ」
「気遣い感謝する」
ユリアンは早々にこの時間を終わらせようと腰紐を解いた。襟を掴んで豪快にトゥニカを脱ぎ捨てる。
「そう来なくっちゃ」
パセルもトゥニカを脱いだ。
しばしの睨み合いのあと、先に動いたのはパセルだった。ユリアンも大きく後れを取ることはなく組み合う。
いきなり引き倒されはしなかった。おそらくユリアンの力量を見ているのだろう。
拳が飛んで来ないなら、あとは我慢比べだ。忍耐はあまりないが、執念には自信があった。こうと決めたら頑として動かない頑固さがあった。悔しいと思ったらやり返す性質だった。
悔しいという気持ちをしっかり胸に抱いたのは久しぶりだった。
普通に腕を引いただけでは倒れない。足を払うのが通常だが、そんな動きは簡単に止められるだろう。
互いの腰に腕を回したままじっと耐えた。パセルは何度もユリアンを持ち上げようとしたが、腰を落として踏ん張った。頭をパセルの胸に付けて腕に力を込め続ける。
ポイボスの咆哮が二人の背を焼いた。密着した肌の間にも次々に汗が滲む。焦れたようにパセルが体を振ったのをユリアンは逃さなかった。
腕を引き、押し付けていた頭を突き上げる。仰反る形になったパセルは当然体重を前にかけなおそうとした。それを許せばユリアンは押し潰される。足を払う動きにはすぐ対応された。しかしユリアンはそれを見越していた。足を取ることは早々に諦め、しっかり両足を地面につくと、素早くパセルの体から手を離して両手を胸の前に突き出した。
パセルの体はまだ残った。しかしユリアンがそのまま体重を前にかけると、潰れるようにパセルの体は倒れた。馬乗りになったユリアンは最後まで気を抜かず、パセルの両肩をしっかりと地面につける。
すると、パンパンと手を叩く音が響いた。
「やられたな、パセル」
いつの間にかフェルが観戦していた。
「自分より小柄な相手に、そんな腰を高くしてちゃダメだ。坊ちゃんはしっかり腰を落としてたから持ち上がらなかっただろ。そもそも油断してるから、全部が後手に回ってた。それじゃあ勝てない」
「くっそー!」
ネフェルの指摘に、パセルは拳で砂を叩いた。
「それにしてもパセルをひっくり返すとは、やるなあ坊ちゃん。普段、他にはどんな鍛錬をしてるんだ?」
「剣、弓、槍、乗馬の基本訓練。神殿詣でを兼ねた山の登り下りなどである」
「なんだよ、俺らと変わらない鍛錬してるんじゃないか」
「だから鍛錬をしていると言ったであろう」
「チッ」
パセルは舌打ちをして、今度は砂を蹴った。その姿に溜飲が下がる。少しは見返してやれたようだ。
「ひとつ俺とも手合わせ願う」
ネフェルは訓練用の木剣を持っていた。そのうちの一本をユリアンに投げて寄こす。
「剣は型しか出来ぬ」
パセルと違って、ネフェルが真面目にユリアンと手合わせしたがっていることは分かった。しかし、ユリアンに打ち合いは無理だ。
「型みたいなもんだ。俺が左右順番に打ち込むから、坊ちゃんはそれを受ける」
「それならば、出来るかもしれん」
受け取った木剣を恐る恐る構える。普段の訓練はほとんど素振りだが、打ち込む位置を決めた受けの練習もなくはない。その応用と考えればできそうだと思った。
それに、本当はもっと本格的な打ち合いをしてみたかった。
「右からだ」
ユリアンは素早く右側に木剣を構えた。
右、左、右、左……ネフェルの剣が規則的に左右から繰り出される。無造作なようでいて素早く、重かった。脇を締め、腹に力を入れて集中して受けなければよろけそうだ。
「次は下だ」
顔の横に構えていた木剣を腹の高さに構え直し、また右、左と順に差し込まれる攻撃を受ける。上段の左右の切り替えより、下に構える方が手首の捻りが多くなる。その分遅れないよう、ユリアンは一層集中した。
「もう少し大きくするぞ。上から」
ネフェルが片腕で大きく剣を振り上げた。今度は左右を教えてくれない。空から細長い影が降ってくる。白く輝くポイボスの陽光を切り裂いて、歪んだ黒い刃がユリアンの頭を狙っている。
右利きのネフェルがそのまま素直に振り下ろしたので、ユリアンは左側に構えた剣でその一撃を受け止めた。
もちろん、一撃では済まない。
同じ軌道で一打、その次は横に角度を変えてもう一打。ユリアンは左の構えの位置をズラしてなんとか防いだが、上手く力が入らずにたたらを踏み、とっさに頭を庇おうと身を縮めて膝を折った。
「そんな縮こまってたらどんどん苦しくなるぞ。もう少し距離を取れ」
ネフェルは打ち込む速度を変えることなく再び剣を振り上げた。
ユリアンは後ろに跳んだ。それはネフェルの言葉を理解するより早く、生き物が己の身を守ろうとする咄嗟の反応であった。
距離を取ったおかげで、ネフェルのほぼ全身がユリアンの視界に入った。当然剣筋は見えにくくなり、距離感も掴みにくくなったが、振り上げられた腕の動きは読みやすくなった。上段、ほぼ真上からの振り下ろし。ネフェルの巨体からのそれがどれだけ重いか。ユリアンは左手で剣先を支え、両手で受け止めた。なんとか凌ぐ。
「やるな!」
パセルの称賛に振り返っている暇はない。砂にめり込んだ両足を急ぎ引き抜いて、ユリアンは再びネフェルと距離を空ける。
次は下段だと思った。
ネフェルは刀身を自身の左側に構え、払うようにユリアンの右側に繰り出した。ユリアンも木剣を返し、予測できる場所でそれを受ける。しかし手首を捻った分反応が遅れ、遅れた分受ける位置がずれた。体勢も不十分だった。
結果、ネフェルの力を受け止めきれなかったユリアンは吹き飛んだ。
「あー、さすがに無理かあ」
パセルの落胆の声を聞きながら、ネフェルの剣先を眼前に突きつけられる。
「……参った」
「思った通り基本がしっかりできてるな。力任せの新人より対応力がある」
「世辞はいらぬ。もとより力不足だ。もし見えていたとしても、こんな重い打撃、二度も三度も受け切れぬ」
ネフェルが差し出した手を取って起き上がり、ユリアンは敬意をこめて頭を下げた。さすが本職の武人、百人隊長である。たった数本の手合わせだったが、とても相手にならないと分かった。
「だが今ので、少し分かった。下がった方が、よく見えた」
距離を取れと言われたのと、思わず下がったのは同時だった。
ユリアンはつい近づいて見ようとする癖があるが、打ち合いとなれば近づきすぎては間合いも狂う。ネフェルの全身が見えた一撃は、どう受け止めればいいか、他の攻撃よりも早く理解できたような気がする。
いっそ遠くて見えない方が、見える。それはユリアンにとっては生まれて初めての、不思議な体験であった。
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