隊長のビールと坊ちゃんのワイン 20.
第一話から読む
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「おかしいとは思ったのです。急に半数をデメトリアに送るなど……」
塩湖の真東に宿営する警備隊長・ピアイは落胆を見せたが、すぐに顔を上げてネフェルと向き合った。
「しかしアルゲアス隊の素早い加勢、心強い限りです」
ピアイは特別大柄ではないが、肩幅が広く胸も厚くがっしりとしていて、威厳と気品のある男だった。鼻の下と顎に黒々とした髭を生やしている。
ネフェルより年が上だが、家名のためか個人的な癖なのか、丁寧な言葉で接している。
「実はすでに巡回兵から、東より武装した一団が近づいてくるとの報告が」
「数は?」
「およそ千と」
ネフェルの体に力が入ったのが分かった。ユリアンは千人がどれ程の脅威かすぐには分からなかったが、その反応で事態の重さを理解する。
「手短にだが紹介させてくれ。義弟のヤコモ、医療に詳しい。同じく義弟のパセル、まだ若いがやる気と勢いは人一倍だ」
アルゲアス隊の生え抜きの精鋭たちと、警備隊長の補佐官たちが互いに紹介される。そして最後にネフェルが押し出したのはユリアンだった。
「ユリアン・クラディウス・フィレヌスと申す」
トーガの裾を持って右手を胸に掲げ、浅く膝を折る。すでに緋色のトーガの存在は分かっていただろうが、警備隊の面々は名を聞いた瞬間ハッと息を飲んだ。
「クラディウス・フィレヌスの……」
「いかにも、ケメトのアルバ駐留軍の司令官はボクの叔父である。縁あってネフェル殿の世話になり、この度は共にケメトを守るために馳せ参じた」
「アルバ軍は何故ケメトを離れてしまわれたのか」
「叔父上にはお考えがある。もちろんボクは詳しく知らされておらぬが、叔父上は今、最悪の事態を避けるために最前線に立っておられるはずだ」
ピアイが頷き、側近たちもそれに倣うようにユリアンに礼を取った。
東の防衛線が見える場所まで案内すると言って一行は移動する。その間も隊員たちはユリアンとは距離を取り、目を合わせたり会話をする気はなさそうだ。
当然、内心では納得していないだろう。司令官の縁者とはいえ若造が来たところで役には立たないし、詳しいことは知らないが分かってくれと言ったところでアルバの真意が伝わるとは思わない。
ユリアンは怯まず胸を張っていた。ここで委縮しては意味がない。アルゲアス隊長の前で言ったことは本心だ。
物見に上ったネフェルが思わずといった風に笑った。
「久しぶりだが、何も変わらないな、ここは」
「何もありませんから」
宿営地の小屋はどれも高床の作りだ。砂に埋もれないためと、見通しをよくするためだろう。さらにその上に付けられた物見からは東の砂漠が一望できた。
ユリアンは持ち歩いている遠見筒を覗き込む。
「これが砂漠……」
「もっと東の方は砂ばかりになって、オアシスもなくなるんだ」
ほとんどが岩場だ。灰白色のゴツゴツとした岩がどこまでも広がっていて、その間にぽつりぽつりと草地があった。時たま背の高い木も生えているが、総じて荒涼としている。
草木が密集して存在する場所がオアシスだと言うが、ユリアンが見渡した限りではそこまで緑が固まっている場所は見つけられなかった。
「この辺りは塩泥棒はよく出るが、大軍が攻めてくるには向かない場所だ。やたらに見晴らしがいいんで、大人数が砂漠を渡って来たら二十マイル先でも分かる。だから常駐で千人、予備兵は五百人しか置いてない。何かあれば近くの別の軍を動かすか、アルバ駐屯軍の手を借りることになっていた」
「だが今ここは手薄になり、他の軍からもすぐに補充はできないのだな」
ユリアンの指摘に、ネフェルはどっしりと頷いた。
「その通り」
警備隊の本隊千人のうち五百人がすでにデメトリア市に入っており、急ぎ呼び寄せた予備兵二百人を足しても七百人。そこにネフェルの百人隊と、アルゲアス将軍が寄越してくれた五十人、ユリアンが連れて来れたのが二十人。
総勢、たったの八百七十人。
東から近づいているという敵はおよそ千人。数では負けている。
ユリアンは遠見筒を下ろして、相変わらず硬い表情の警備隊たちの方へ体を向けた。
「海と同じで敵の狙いが攪乱だけならば、一度に攻め込んでくる数は少ないのではないか? 何日も挑発を続けたり、短時間で戦闘を切り上げたり」
「いや、海に比べて逃げ場が少ないし、こっちが増援しやすい陸戦で、たった千人で長期戦に持ち込むとは思えないな」
ネフェルの指摘に、今度はヤコモが口を挟む。
「でも向こうは、アルバ軍がいないこと以外にまだ情報はないよね? 警備隊が普段の半分になってることまで知ってるのかな」
「その可能性は低いと思われます。半数が移動したのは七日ほど前ですが、急いでいたこともあって分散していましたし、賊が情報を掴むのは困難です」
ピアイの言葉には三人ともが頷いた。
ケメト国内でも急なことで混乱しているのだ。砂漠を密かに渡ってきた目の前の千人が、そこまで精度の高い情報を持っているとは考えにくかった。もしパルサワが情報を得ていたとしても、砂漠の行軍に届くには早すぎる。
「ヤツらの狙いですが、領土でないならやはり、塩湖の占拠でしょうか? どちらにせよ、我々は堅守以外に選択肢はありませぬが」
ピアイが両の拳を堅く握る。
塩は時に、銀より価値が高い。ケメトはここの塩だけで、年間一千デナリウスの商売をしている。当然アルバ帝国も買い手のひとつだ。
ヤコモが不機嫌そうに首を傾げ、腰に両手を当てた。
「ほんの少し占領するだけでも、うちは大打撃だよね。砂とか煤を撒かれたら、製塩の被害がとれほどか、計算するのも頭が痛くなる」
「なるほど。では、占拠までされずとも、近隣の村を焼かれてしまえば被害は同様であるな。製塩の担い手や、輸送手段などが被害を受けても同じことだ。ピアイ殿、この周辺に製塩業に関連する集落はどのくらいあるのだ?」
「東側だけで大きな集落が三つ、人口は合わせて一万一千人ほどです」
ピアイの回答に、ユリアンとネフェルは同時に大きく頷いた。
「防衛線は集落から東に、少なくとも三マイルは取りたいな」
ユリアンは道中に叩き込んだ地図を頭の中に広げる。塩湖と集落から三マイル。つまり、まさに今いるここである。村を守り、塩湖を守り、援軍が到着するまで持ちこたえなくてはならない。
「もう少し人を増やせぬのか? 近くの町から徴兵するなどして」
この辺りは小規模な集落しかないようだが、道中には大きな町がいくつもあった。王都からの大規模援軍とまでいかずとも、数百人程度であれば増員はできるのではないだろうか。
「俺は百人隊長だぞ。そんな権限あるもんか」
「私もあくまで警備隊の隊長……本部の許可なく徴発は、とても」
首を振る二人の隊長をヤコモがじとりと睨んだ。
「もっと出世しておくべきだったね」
「耳が痛いなあ」
ネフェルは片手で自分の耳を塞いで見せた。
援軍を待たずに人数を増やして、多勢となって敵を迎え撃つのは無理なようだ。
「人も足りないけど、物資は足りてるの? ボクらは本当に身一つで来たから、兵糧とかないんだけど」
「それも課題です。備蓄はありますが、デメトリアへ発った兵が少し持ち出してしまいましたので、心もとなく」
ピアイがこめかみを揉んだ。
警備隊には当然、食料などの備蓄はある。しかしユリアンたちは小麦の一袋も持たずに来たため、その食料を分けてもらわなければならない。戦いが始まれば、訓練時より多くの食料、飲み水を支給しなければ士気も上がらない。
ユリアンはしばし思案した。
後で金を払うと言って買い集めることもひとつの手だ。クラディウスの名を出さずとも、アルゲアス家でも、軍が支払うと言ってもことは足りる。しかしそれも徴発だと指摘される危険がある。後でピアイやネフェルが軍紀違反で裁かれる危険は、なるべく減らしたい。
「食料や物資は、村々に頭を下げて回るしかないであろう。あくまで民の善意であったと言い張れば、強制徴発にはならぬ」
「いい案だな。そうか、民の善意ってことにするか……」
ネフェルが勢いよく背後を振り返った。
「パセル。お前、今すぐ脱隊しろ!」
それまで黙って近くに立っていただけのパセルが、突然名指しされた上突拍子もないことを言われ、文字通り飛び上がった。
「ふざけんな! なんでだよ!」
「坊ちゃんの食料調達と同じ作戦だ。お前は除隊して、退役軍人になる。つまり一般市民だ。しかし故郷を守るために、地元の有志を募って自警団を作り前線に駆けつける……あくまで自分たちの村を守るため、自発的に、個人の意思で、敵と戦うことを選ぶ。これでどうだ?」
知らず、喉が上下した。ユリアンは緊張する口元でなんとか笑みの形を作った。
食料調達はただの思い付きだ。軍紀違反をすり抜けるためだけの、苦しい言い訳である。しかしネフェルはそれを、人間にも当てはめようとしている。
「動ける若いの以外でも、煮炊きや怪我の手当て、補給の荷運びも人手がいる。やる気があるやつはジジババでもいいから連れて来てくれ」
「なるほど、分かった、俺は隊を抜ける!」
パセルが高らかに叫び、そのまま身を翻して駆け出した。その足で村を訪ね、志願兵を募る気なのだ。
「して、アルゲアス殿。本営からの援軍はどのくらいで到着するでしょうか? 我々は何日間凌げば宜しいか」
ピアイの問いに、ネフェルは少し考えた。
「どんなに早くても三日だ。イリホルの宣言通りなら、今頃勅命は撤回されている。すぐに走り出せば俺らと同じようにあと三日で着く。が、みんなに三日と言っておいて遅れたら、士気に関わるな」
「五日でも危ないと思う。何があるか分からないからね」
即座にヤコモが指摘する。イリホルとアルゲアス将軍の動きが遅れている可能性もあるし、援軍の道中に何か起こらないとも限らない。ということだ。
「では、多めに見積もって十日としましょう。早まる分には問題ありませんので」
「援軍までの日数は、兵に伝えなくてはならぬのか?」
ユリアンの言葉に、その場にいた全員が驚いた様子で振り返った。
その反応に怯んでしまう。きっと、いつ援軍が来るかなど、軍部の動きは兵士に伝えられるのが通常なのだろう。しかしユリアンはこれが初陣だ。
そう、ユリアンは初めて戦場へ来たのだ。一生来るはずがないと思われていた場所に、自ら申し出たとはいえ、突然に。
「僕は、戦士ではない。本物の戦士は、十日後の援軍を“すぐに来る”と思うのかもしれぬが、僕なら十日は、長い。」
口にするか悩んだが、言わずにいられなかった。
十日と言う日数が士気を高めるのか、下げてしまうのか、分からなかった。少なくともユリアンはそれが早いと思えない。十日間、目的も定かでない得体の知れぬ敵と戦い続けるのだと思うと……怖かった。
「ボクはどちらかというと、クラディウスさん寄りの意見かな。十日をすぐと思えるかどうかは、ちょっと微妙かも。予備兵の若手なんかはかえって士気が下がるかもしれない」
ネフェルとピアイが顔を見合わせる。やはり生粋の武人と、そうでない者とでは感じ方が違うのだ。
「援軍は必ず来る。それまで俺たちが一緒に戦う。それでいいか?」
「そうしましょう。少しでも加勢が来たり、物資の補充があれば、積極的に兵に知らせるように致します」
話しは決まった。ユリアンは臆病な意見が採用されて驚いたが、ここの司令官であるピアイが納得している様子なので側近たちも反対はしなかった。
「ではまず、我が東十二隊とアルゲアス百人隊が共に塩湖、引いてはケメト全土を防衛するということを、皆に伝えなくてはなりませぬ」
ピアイは静かにそう告げると、副官たちを従えて物見から一足先に降りて行った。
すでに警備隊は臨戦態勢を取っている。警戒や巡回の兵以外を一堂に集め、さらにアルゲアス隊も並び、ピアイの指示を受けてすぐにも敵と剣を交えることになるのだ。
ピアイに続いて階段へと進んだネフェルが振り返り、ユリアンを呼んだ。
「坊ちゃんも前で話してくれないか。演説の上手いのがいると、士気が上がる。それにそのトーガも効くんだ」
ユリアンは自分の胸元を見下ろした。
遠見筒の中の鮮明な景色とは違う、ぼやけた視界を埋め尽くす波打つ緋色。
ユリアンの母は、とても厳格な武人であり、誠実な人物である。ユリアンは母に憧れ、母の教えを善だと信じて育ったし、今でも信じている。母の教えで神殿に通い、母の教えで武人になれずとも鍛錬を怠らなかった。
その教えの中に、貴族の身分やクラディウスの名をみだりに振りかざし、他人を従わせようとしてはならぬというものがある。当然だ。それはユリアン個人の力ではなく、敬うべき先祖たちの功績である。不正を働いていた以前の監督官や司令官たちは、これと真逆の行いをして、結果的に罪が暴かれ職を失った。
緋色のトーガは効くとネフェルは言った。捕虜の尋問で脅しをかけるにも有効なのだ。この色を纏っている本人は実感しづらいが、他者から見ればこれは脅威になりうる。
ユリアンはネフェルに続いた。その緋色の力を、正しく使おうと決意して。
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