隊長のビールと坊ちゃんのワイン 16.
第一話から読む
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その日の晩、ネフェルは村の一同を集めてビールを振る舞った。
「今日は俺の番だ」
どうやら昨夜ユリアンがワインを調合したので、今度はネフェルが手を入れたビールを出す番だという意味らしい。
屋敷の小さな前庭に、見慣れた甕が並べられている。中身はもちろんビールだ。
サーラや屋敷の兵士たちが薪や鍋の準備を始めている。煮炊きの気配を察知した村の子供たちが、魚や肉にありつこうと大人より先に集まっていた。
「今夜も宴会ですか。最近豪勢ですね」
「毎日はやめてくださいよ隊長さん。うちの人、今日も一日寝てて役に立たないったら」
「あっはっは、飲む量は自分でどうにかしろ」
歓迎の声も不満の声も、ネフェルは豪快な笑い声で追い払った。
「この間新しいビールを仕込んだだろう。坊ちゃんに飲ませようと思って、少し手の込んだのを用意してたんだ」
「どこが違うのだ?」
ネフェルはもったいぶってゆっくりと柄杓を持ち上げながら解説した。
「まずパンとたっぷりのナツメヤシを入れて、泡が立ってから三日寝かせて、赤粘土の粉と追加のナツメヤシを入れてさらに一晩置く。濾してからさらに一晩置いたのが、これだ」
「ナツメヤシが随分たくさん入るのだな……」
「ああ、だから甘いし酒も強い。少し水で割って、最後にこれを入れる」
ネフェルは一杯ずつビールを移し、少量の水を入れてから、スパイスの粉を一つまみ入れた。
昼間、乾物食品店で購入したものだ。ネフェルの買い物とは、ビールの材料だったのだ。
「なんだこれ? なんかいい匂いするな」
杯を手にしたパセルが鼻をひくつかせる。
答えたのはユリアンだ。
「コレアノンという植物だそうだ。これは種子の部分で、炒って乾燥して粉にしてある」
乾物屋で興味を惹かれ、店主に詳しく植生を聞いておいた。
「いい香りになるだろ? これを入れるのと入れないのとじゃ全然違うんだ、このビールは」
ネフェルが誰よりも先にビールを飲んでしまい、なし崩しに宴が始まった。
ユリアンはナツメヤシたっぷりのビールを少々警戒しながら口にした。先日のワインにも少量だけ入れてみたが、あまり量が多いと口に合わぬのではと思ったのだが、それは杞憂であった。
ナツメヤシたっぷりのビールは大変刺激的だった。
普段出されるビールより強く発砲し、甘味と同時に苦みがあり、さらにネフェルが欠かせないと言ったコレアノンの香りが鼻に抜けていく。コレアノンの種子はオレンジの皮のような香りと、香ばしさ、そしてほんの少しの青臭さがある。発砲と味と香りが混然一体となって、ユリアンの目を大きく開かせた。
「美味である!」
ユリアンが思わず叫ぶと、ネフェルはがっちりと拳を握った。
「時間がかかるんであまりやらないが、俺のとっておきだ」
今宵も村人は思い思いに酒食を楽しんだ。
ユリアンがビールを気に入ったことにネフェルはかなりの上機嫌で、ビールの作り方を細かく説明してくれた。パンに使う大麦の挽き具合でも味に違いが出るのだと言われ、ユリアンは興味深く聞き入った。
「そういえば、ピュートーにはキュケオンという酒があり、それも大麦から作っていたはずだ」
「へえ、ビールに似てるのか?」
「それが味も香りもまったく違うのだ。大麦を粉にせず、そのまま水に浸して作ると聞いたが」
飲んでみたいとネフェルが言い、作り方を調べようとユリアンが請け負った。
「あんたら本当に酒の話ばっかりだな」
魚を骨まで噛み砕きながらパセルが笑い、隣のヤコモが三度頷く。飲兵衛どもとからかいながらも、二人ともしっかりナツメヤシたっぷりのビールを飲んでいる。
今日は豚一頭のような豪華な肉の料理は出てこない。しかし湖で取れた魚はたくさんあって、大きなものはそのまま焼き、小振りなものはスープの具になった。
ユリアンは匙で掬ったヒツジマメを、篝火に照らしてよくよく眺めてみた。薄黄色の豆は、炎の色を受けて赤茶色に見える。スープの味は店のものより少し薄い。
濃くて甘いビールと、素朴な豆のスープはよく合った。
何人かの兵士が、今日は早めに切り上げろと奥方に急かされて家に帰っていった。
「それでな、坊ちゃん」
人が減って賑やかさが落ち着いてきた頃、ネフェルがそう切り出した。
「なるべく早めに、できれば明日にも支度を初めて、可能な限り早く帰ってくれ」
「いきなり何言い出すんだよ、ネフェル?」
ユリアンより先に口を開いたのはパセルだった。純粋な疑問の中に、わずかに険が混じっている。
「昨日イリホルから聞いたんだが、やっぱり海の動きがきな臭い。この三日、海上警備が不審船を一隻も見てないんだ」
「はあ? 不審船がいないならいいじゃねえか。安全だろ」
「不自然だ、ということであろう」
ユリアンは杯を砂の上に置いた。
海賊はどこにでも存在し、その数は無数とも言えるが、ほとんどの場合一隻一隻が孤立している。大きな集団でも、十隻も持っていればいい方で、海賊同士は商売敵であり、日常的に潰し合いも起こっている。統率の取れた動きなど取れない。
それが揃ってデメトリアの近海から姿を消したという。
「なんで海賊どもはいなくなっちまったんだ?」
「おそらく……海賊にとって大きな儲け話がある。つまり、彼らを大金で雇い入れた何者かがいるということだな?」
ユリアンの言葉にパセルが顔を上げ、ネフェルが頷いた。
「話が早くて助かる。その儲け話に乗った奴は雇い主の元に行って、乗らなかった奴は警戒してデメトリア近海から離れた、っていうのが俺たちの見立てだ」
ネフェルは器に残っていたビールをグイと煽った。
「そこまで分かったら、俺が坊ちゃんにどうして欲しいかも分かってくれるよな? アルバ市まで帰るには遠いだろうから、とりあえずモレアに戻るのがいいんじゃないか。伝手が多いんだろう」
ユリアンはネフェルに正面から向き合い、ほとんど見えない表情から何かを読み取ろうとした。焚き火ひとつでは、ユリアンの目に映るのは人の形の影だけ。火の当たる右側が明るく、反対側は闇に溶け込みそうだった。
「だが、ヘラスはまだ歩けぬのだ。とても船には」
「うちにこのままいてもらってもいいが、招集があれば世話人が減るんでな。監督府に移動してもらおうと思う。そのあたりは俺に任せてくれ」
「ねえネフェル。つまり、デメトリアに海賊が大挙して攻め込んでくるかもしれない、ってこと? ちょっと現実味のない話だけど」
ヤコモが首を傾げた。
「大挙して来るかは分からないが、海賊を集めてるやつがいるのは確かだ。放っておけば、港から民間船が出せなくなるかもしれん」
「ああ、なるほど。そうなる前に、クラディウスさんに急いで帰ってもらった方がいいってことだね」
ヤコモは納得した様子で杯を持ち直した。
ネフェルは再度ユリアンに向き直る。
「落ち着いて準備ができたら、また戻ってきてくれ。その時はワイン二十本くらい土産にな。また坊ちゃんのワインを飲ませてくれよ」
顔は見えないので、耳を澄ませる。
ネフェルは自分よりユリアンの方が誠実だと言ったが、人間の誠実さを比べることなど出来はしない。ユリアンも自分なりに誠実であろうとし、ネフェルもまた、彼なりに誠実であろうと振る舞っている。そしてネフェルの声には、言葉には、確固たる意志を感じた。ユリアンにとってそれは誠実さと同義であった。
彼はその誠実さでもって、大きな体を折り畳んで頭を下げる。
「頼む、坊ちゃん。黙って俺のいうことを聞いてくれないか」
「相分かった」
もっと抵抗するとでも思われたのだろう。ネフェルが勢いよく顔を上げ、パセルとヤコモも意外そうに息を飲んだ。
「分かってくれるのか」
「貴殿の言う通りにしよう。戻る時には必ずワインを二十本、準備する」
ユリアンが頷くと、篝火の薪がパチリと音を立てて爆ぜた。
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