#それぞれの10年

早めに始まった春休み。
もちろん卒業式も終わってません。

いつ卒業式が行われるのかなかなか学校からは連絡がきません。

そして、母の携帯に学校から連絡があり
うちの学校の体育館は一部破損していて使えない為
隣の学校を借りて簡易的な卒業式を行いました。
何の思い出もない教室。バスケ部だったので何度か練習試合で体育館は使った記憶がありますが別に思い入れのない体育館での卒業式。

先生の袴姿はなくパンツスーツ。
リハーサルは親の前。そのまま卒業式。
何それって感じでしょ。何それって感じだったよ。
おめでたいって感じではなく常に何があっても動けるように先生方は常に注意を払っていて大変だったと思います。

泣いていた友達を見てよく泣けるなって思ってしまうくらいあっけらかんとした感じの卒業式でした。

そして何日か後の高校の合格発表。
私は内陸の学校のため普通に合否が出ました。
私は無事志望校に合格していました。

帰ってからニュースで沿岸の高校は全員合格!
というニュースを見て泣きました。
良かったねって、失った友達や家族もいる中
命を繋いだ友達みんなと一緒に過ごしていけるなんて
なんて素敵なんだろうと今思い出しても目頭が熱くなりますね。

何日かして沿岸の祖母の家に片付けの手伝いをしに行くことになり車で向かいました。
自衛隊の方々やボランティアの方々のおかげで
道はある程度通れるようになっていましたが
何度も通ったことのある道、街、景色が全てが
ぐっちゃぐちゃで瓦礫の山。
ある場所にあるはずの船が建物に突き刺さっていたり
電柱が真ん中からへし折られていたり
お家は粉々。線路はわけわからないところでぐちゃぐちゃになってるし
父の通っていた高校は2階まで水がきていたようです。
下宿先だったであろう場所も🤦🏼‍♀️
私の大好きだった街の風景は無くなってしまいました。
未だにYouTubeで津波の動画を見ると昔の記憶が蘇り知っている場所だからこそ
そこに住んでいる方々の悲痛な声をきいて本当にやるせない気になります。
どうか皆さん助かっていてほしい。そう願ざるを得ないです。

祖母の家は割と海からも川からも離れていたので無事でした。
いとこの家は一階の天井くらいまで水に浸かり
取り壊すことになっていました。
地震当日は祖母の家で過ごしていたみたいです。
私は面識がないので分からないのですが
遠い親戚のおうちに上がりお仏壇を拝みました。
3.11に亡くなった方でした。

中学3年の春休み。非力でわがまま娘だった私は
いとこの家から持ち出してきた泥だらけの家具などを洗いに手伝いに来たわけですが
特に手伝えることがなく小物を洗っていました。
そんな中おじさんおばさんが優しすぎて何もしなくていいと
明るく弟に車のおもちゃをくれて遊んでもらったりして逆に喜ばせてもらってしまっていました。

もっとやれることがあったのに初めて見る泥だらけの家具などを見て何をどうしていいか分からなくほとんど見るだけで
帰りにはとても後悔しました。

何日かして友達と好きな俳優の映画を観に行きました。
帰りの電車でトルコ人のレスキュー隊の方々に会いました。
地震は大丈夫でしたか?というようなことを聞かれ
私たちは大丈夫だったと答えたような気がします。

その夜、ご飯を食べてる時テレビで芸人のサンドウィッチマンが
宮城県の避難所を回ったり変わり果てた土地を回ったり
救助活動を行ってくれている方々の取材をしている番組をたまたま見ていました。

必死に救助をしてくれる方々がいること
世界からも助けに来てくれていること
自分は手伝いに行ったのに何も出来なかったという悔しい感情
でも助けてくれて救いに来てくれてありがとうという感情
色んな感情があふれて涙が止まりませんでした。

救助に来てくれてる方々も何かしら代償を追うのも覚悟できてくれていて
それを考えると本当に申し訳なくて嬉しくてありがたいことです。
本当に東北を助けに来てくれた方々や支援物資を送ってくれた方々に感謝です。
ありがとうございます。

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