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夏が来るたび思い出す、言えなかったことば。

夏がく〜れば思い出す〜

NHKで昔、そんな歌が流れていた気がする。

私が、夏が来ると思い出すのは決まっておじいちゃんだ。
夏におじいちゃんどの特別な思い出があったわけではないけれど、きっとお盆で故人に想いを馳せることが多いからだろう。

おじいちゃんは優しい人だった。
いや、正確に言うと自分に優しく、人に厳しい人だった。

おじいちゃんのことを語るには、私の出自から語らないといけない。
(誰も興味はなかろうが‥)

私が生まれたのは、地域の特産品を売る家だった。
身バレするからあまり詳しくは言えないが、
愛媛で言えばみかん農家、
青森で言ったらりんご農家、
その静岡バージョンといえばいいだろうか。
詳細はご想像にお任せすることにする。

家はとても大きかった。
リビング以外に部屋が15個もあり(もちろんたいていは使っていない)、
庭には蔵があり、池には鯉が(お祭りで買った金魚と一緒に)泳いでいた。
地域ではお内裏様と言われていた。
お祭りの総代をつとめ、
欲しいものがあったらなんでも買ってもらえたし、
みんなそんなものだろうと思っていた。

こう書くと自慢みたいに聞こえるけれど、
当時の私はそれが普通だと思っていた。

さて、そんな家で生まれた初孫が私だった。
当然祖父母は溺愛して、いろいろなところに連れて行ってくれた。
欲しいと言ったものは何でも買ってもらえたし、
何かイタズラをしても微笑ましそうに見守ってくれていた。
私にとっておじいちゃんは「優しい人」だった。

そんな幸せも、そう長くは続かなかった。
バブルが弾け、不況が続き、会社は倒産した。
きっとそのせいもあったんだろう、両親の喧嘩は日に日に増えていった。
直接言われたことはないけれど、子ども心に「お金のことでワガママ言えなくなったなぁ」と感じていた。

結局両親は離婚してそれぞれの人生を歩むことになるのだけれど、それはまた別の話。

おじいちゃんに話を戻そう。
私は兼ねてからどうしても行きたかった大学に見事合格し(そんな家庭の状況でも私立大学に通わせてくれたのは本当にありがたかった。夢だったから。)、いよいよ引っ越しの日を待つばかりとなった。

きっかけは覚えていない。
けれど、はじめておじいちゃんと喧嘩をした。
あんなに怒られたのは後にも先にも1回だけだった。
まだ思春期気分が抜けきっていなかった私は、謝らなかった。
おじいちゃんとの間には、微妙な空気が流れたまま。
表立って言い合うこともないけれど、前みたいに他愛のない話をすることはなくなった。

そして私は引っ越した。
引越し先に向かう車の中で思い出したのは、眉間にシワを寄せたおじいちゃんの顔。
「まぁ、今度謝ればいいか。その頃には笑って話せるかな。」
いつも心の隅に引っかかっていたけれど、引っ越しで忙しいし、また今度でいいかと先送りにした。
このときの甘えを、私は一生後悔することになる。

私が引っ越してからしばらくして、母親から着信があった。
おじいちゃんが急逝したという報せだった。

私はそのときはじめて、
いつでも謝る機会はあったのに、
いつかいつかと思って先延ばしにしていたことを後悔した。

おじいちゃんは謝らない私のことをどう思っていたんだろうか。
亡くなるときに思い浮かんだのが、喧嘩した顔の私ではなくて、笑顔の私であってほしいと願うのは私のワガママだとわかっている。

夏が来るたび、おじいちゃんのことを思い出す。
あのとき、すぐに謝っておくべきだったとその度に後悔する。

いつか天国で会ったらすぐに伝えよう。

あのときはごめんなさいと。

大好きだよ、おじいちゃん、と。

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