見出し画像

高校辞めたあとどうしたかの話

どうもこんにちは。みいです。
昨日の中学の不登校時代からのその後を共有します。




1.高校進学


昨日の記事でも書いたように、親の懇願により高校に進学することになった。
近所の適当な私学に通うことになったのだが、ここで問題が発生する。
通常のクラスではなく、特進クラスに受かってしまったのだ。
たまたま入試で少し成績が良かっただけで、ひとつ上のクラスになったのだ。

このクラスの何が問題かというと、拘束時間である。
朝は7時半、終わりは6時、テスト前なら8時くらいまで。
そのおかげで部活にも入れないし、バイトは禁止だし、なんてことだ。
入学してすぐ志望大学のヒアリングをされたことにも引いた。
昨日まで中学生だったクソガキにいきなり大学のことをきかれても。。。って感じだった。

とにかくこの拘束時間と、中3の知識がまるっと抜け落ち、基礎のないままうける高校の授業は過酷を極めた。

そうしてまた、学校に行かなくなった。
高校一年生の夏休みにあった、課外授業と体育祭の練習というダブルパンチで私の中の我慢メーターが振り切れた。
何をやっているんだろうと。
知りたいことを知るためにやるような楽しい勉強はできないし、体育祭の練習もグダグダで正直きもちわるいと思ってしまった。
そう、つまりこの高校にいることは時間の無駄だと気づいてしまったのだ。

2.通信制高校へ転入する

そうなると、学校を辞める、いわゆる『退学』しかないと思っていたが、当時の担任の先生が、『通信制高校』に『転校』する道があると勧めてくれた。悲しいことではあるが、この高校は退学者も多く、少しでも多くの人に高校卒業をしてほしいという気持ちから、転校を勧めているとのことだった。

これは本当にその後の人生に大きく影響を及ぼすアドバイスだったといえる。
当時の私と親も通信制高校がどこにあって、どうやって入るのか、そもそも入れるのかというレベルの知識しかなかったのだ。
調べてみると、当時は特に通信制高校が拡がりつつある時期で、通える圏内にいくつか通信制高校があることを知った。

私はもう気力がなかったので、親がいくつか電話して一番良さそうなところに見学に行くことになった。
高校らしくない自由な雰囲気と、元気な先生たちは物珍しく感じ、どうせ行くならここでいいと思い、入学に至った。
たしか、作文と面接だったと思う。

今夏の甲子園で、北北海道代表になっていたクラーク国際記念高校などが代表的な高校であるといえよう。


3.スクーリングに行く

通信制高校は、全国に支店のようなものがあり、普段は最寄りの支店に通うのだが、年に何日か本店に行って単位をもらう必要がある。
法律上、本店がいわゆる高校に値することがほとんどだ。

私の場合、年に一度5日くらい本店に行く必要があった。
泊まり込みで全国の支店から来た生徒たちと寝食をともにする。
そしてその間する勉強は、いわゆる人間教育みたいなもので、自分の夢について考えたり、チームワークを形成するようなレクリエーションがあったり、自然と触れ合う時間があったり。

細かくは覚えていないが、知らない人たち(先生も知らない)と一週間弱ともにすごし、乗り切ったという自信を得たことは大きかった。
そして、全国に同じような悩みや不安を感じている人がたくさんいることも心強い事実であった。


4.進学を考える

最初こそ全然学校に行かなかったが、段々と友人もでき、週5で通えるようになっていた。
そして高3の夏。
友人も就職、進学など進路を考え始めていた。
私は何がしたいのか?
ここまでなんとか中学、高校と必死に生きてきた私には何かやりたいことなんてないし、考える気持ちの余裕がなかった。

ここで、先生たちと共に考えてみた。
そうすると、中学時代に思ったあの憤りを解明したいと思っている自分がいることに気付いた。
なぜ、学校に行かなかっただけでこんなことにならなければならないのだろうか???
この問いに対する答えが知りたい。
どうしたら解明できるのかわからなかったが、この時点で大学に進学しようと決めた。
4年間かけてこの問いを解明したいと。

5.大学受験

そうして大学受験を始めるのだが、当時の私の通う通信制高校では一般入試で大学進学する人は圧倒的少数で、周囲の友人もほとんどが推薦入試、専門学校、留学、就職など早い段階で決まっていた。
進学希望先は、この地方ではまあまあとされる私立大。私の高校では過去この大学に進学した人はいなかった。
今の学力では絶対に受からない。

幸い文系3教科だったので、ここでエキスパートによる軽い塾が開かれることになった。
土曜は本来自分が通う曜日ではなかったが、土曜だけは国語のベテランの先生につきっきりで古典を叩き込んでもらった。
英語も同様。
そしてもう一教科は大好きな地理だったので、先生は必要なく自分でいつまででも勉強していた。

平日の学校終わりは、駅の近くのカフェで勉強していた。
女子高校生がコーヒーとケーキで何時間も居座っていたので今思うと申し訳ないのだが、当時のお店の方たちはいつも気持ちよく迎えてくれた。

普通の高校と違って一人で学校の端っこやカフェで勉強する日々。
一人で心折れないのかと思うが、自分のペースですきなだけやれるので全然苦にならなかった。
むしろ自分のペースで学ぶことの楽しさを知り、これが中学から今まで自分が求めていたことなのだと知った。

冬になり、どうしても足りないところの保険として予備校の冬期講習に各教科一週間ずつ通った。
ここでは国語の先生がありえない差別発言を繰り返していたので初日で行くのを辞めた。お金は戻ってこないので親には謝った。

なんやかんやありながらも合格点ぎりぎりでなんとか合格し、無事大学に入学した。
そこからの4年間もいろいろあったが、自分の意思で入った学校なので最終的には自分の抱えていた疑問を卒論で解消することができたのだった。


6.まとめ

中学、高校の不登校が自分に訪れるのは当たり前だったように思う。
もともと小学校の時から集団が苦手だった。
集団というより、集団に馴染むために自分を抑えるのが苦痛だった。
それが限界に来ただけの話だった。

そしていろんな遠回りをしつつも、いろんな人の助けを借りて今日まで生きている。
家族、友人、先生に恵まれたことがとてつもなく幸運だし、感謝している。

後日談にはなるが、受験時に勉強したカフェで今働いている。
あのとき働いている人たちが、てきぱきしながらにこにこしているのが強烈に印象に残っていたからだ。
プロとして、自分で考え、お客様のために決断し、行動している。
それが私が今もなりたい人間の一つである。
遠回りしなければ巡り合えなかった理想の姿。
10代では苦労した分、それ以降は遠回りしながらも納得いく形で生きている。

納得して決断して出た結果なら、自分の責任。
自分の責任の範囲でなら何をしても良いと考えると、明日からどこに住んでも何を手放してもいいのだ。
結果的にそんな大人の自由を教えてくれた10代の自分にがんばったねと言って終わろう。



長くなりましたが、これで終わりです。
不登校の経験の有無に関係なく、あなたの身近にきっと不登校はあります。
少しでも何かの足しになればと思います。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
ではまた明日。


#不登校 #通信制高校 #みい日記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?