自分年表を文章化してみた

プロローグ 〜幼少期から学生時代〜

暗い幼稚園、小学校、中学校時代

1981年11月、私は両親の第1子、長女としてこの世に生を受けた。

 父は東北片田舎の次男坊(4人きょうだいの末っ子)、母は中部地方で一人っ子として育っており、二人は東京で出会い結婚に至った。こうして書いてみるだけでも、育ってきた環境が真逆の二人である。
 私が1歳半で下に弟が産まれ、私が3歳の時に私たち家族4人は東北の片田舎にある父の実家へ引っ越し、そこから父の両親(祖父母)との生活が始まった。

 母は短大在学中に単身アメリカへ留学するなどアクティブであり、仕事でも上昇志向が強く男性に負けない勢いで仕事をしてきたタイプだった。そんな母が専業主婦となり東北の片田舎で生活を始めるということは、ずいぶんとストレスの大きい環境であったと今になればよく理解できる。父も仕事を頑張る人であったが、家庭は全て人まかせ、さらに両親には強く言えないタイプであった。

 私はといえば、産まれた時から超の付く人見知りでおとなしい子供だった。母曰く、「手がかからない子供」で、母のその時の環境を思えば親孝行な娘だったようだ。当時は布おむつであり、私は弟が産まれる前になんとしてもおむつを外したいという母の希望から、スパルタでおむつを外されたようだ。(1歳半で)
 当時は体罰という概念は薄く、だいぶ母からは叩かれた。もちろん私を大切に育てるが故の行動だったとは思う。しかし、母の感情は激しく怒ると手が出るためいつも怯えていたし、下に弟もいて甘えるのが苦手だった。私はずっと「母を困らせ、怒らせてはいけない」と小さいながらに思って生活をしていた。

 3歳で幼稚園に入園。他の子供達がわあわあとお友達と外で跳ね回って遊んでいる中、私は室内に残り一人で本を読み過ごす子供だった。外で遊ぶのはとにかく嫌だった。なぜなら、人と取り合いになったり喧嘩をしたくなかったから。それならその環境は人に譲って、離れた所で一人で過ごしたかった。そして何より本が大好きだったから、というのが理由である。
 その当時、人と違う行動をする子供というのは先生の目についたようで、母は私について「さっぱり外で皆と遊ばない子です」と指摘されたようだ。母もそう言われて困ったようだったが、なぜか一人で本を読むという行為はは否定されなかった。

 小学校に上がると妹が産まれた。妹とは歳が離れていたため、自然とお世話をするようになり、母が仕事を始めたのもあって家事も少しずつするようになっていった。
 小学校では友達との付き合いが苦手だった。基本的には友達の言うことを聞いていた。その時は苦手だという感情や言葉も知らなかったし、ただ窮屈だった。
学校に行くことが好きじゃないだなんて、母に言うなどとんでもない。というかそんな思考もなかった。ただ周囲がそうしているから学校に行っていた。しかも、キチンと勉強をしてある程度の成績をとらないと、母から怒られるので勉強していた。出来なくても分からなくても、そんなこと誰にも言えない。自分は人より出来が悪いから人の倍は頑張らないといけないし、自分が頑張るしかないんだと段々考えるようになっていた。

 唯一の楽しみは、学校が終わったら町の図書館に寄って本を借りに行くことと、家へ帰って絵を描いて過ごすことだった。図書館では司書のおばさんが良くしてくれ、唯一外で落ち着いて笑顔になることが出来た。
 新聞広告の裏が白い紙を見つけておいては、そこに絵を繰り返し描いていた。
 4年生の時に絵本を作る授業があったのだけれど、そこでクラスで一番早く、上手に完成させることができた。私の感覚としては、とっても楽しくてあっという間にスラスラと出来てしまった感覚だった。ただそれだけなのにこんなに周囲から褒められるなんて、と驚いたのを覚えている。図画工作や美術の授業は、リラックスして楽しむ事ができた気がする。

 小学校5年生で、目立つ女子達に目をつけられていじめが始まった。性格がおとなしく、なんでもはいはいと言うことを聞く私はそれはもう格好のターゲットだった。
 外見や服をバカにされる、都合よく呼び出されて遊びに付き合わされる、万引きに付き合わされる(私は、これだけはやらなかったけど彼女らを止めることはできなかった)、中学校に入ってもそれは続き、彼女らと同じ部活動だったため小学校5年から中学校にかけては暗黒時代ど真ん中。生きててよかったと思えることは何一つなかった。本を読んだり絵を描くことも段々と減っていった。
 いじめもエスカレートし、段々陰で突き飛ばされるなど外力を加えられたり、お金を取られたり、交換日記を公開させられたり、黒板に変な似顔絵を描かれたり…。それでも休むことなく登校して部活も参加していた。もちろん部活(テニス部だった)では万年補欠で、いつまでも上手くならない。さらにからかわれるというループに陥っていた。勉強はしていて真面目タイプだったため学級委員にも選ばれた。心底嫌だったけど先生に嫌とは言えず、周囲の同級生からはさらに面白くない、と私を取り巻く学校環境は悪化していった。
 もちろん母には言えない、言ってもがっかりされるだけだし、そんな自分を恐らく受け止めてはもらえないだろうと思っていた。学校では委員にも選ばれる優等生で、家庭では頼りになるお姉ちゃんでいないといけなかった。そもそも先生に相談すると言う考えもなく、ただただ現状を受け入れて毎日を過ごしていた。中学校3年生になり部活が終了したことで、彼女らとの関わりも薄くなり自然といじめはなくなっていった。

 高校は学区内の女子高に進んだ。田舎の進学校(と言われてはいたが実際はそこまででもない)であり、ここも母から「あなたは絶対にこの高校にいくの」と小さい頃から言われ続けていたから選んだだけだった。むしろそれ以外の高校を選ぶなんて考えられなかった。結果的には高校は楽しく過ごせたので良かったけど、私は「自分でやりたい事や行きたい場所を選ぶ」と言う経験が皆無のまま高校生になったのだった。

高校から専門学校

 高校は女子校ということや、人数も一気に増えたことからいろんな人がいていじめられることも無くなった。
 推しが出来て、推し活を始めたのもこの頃。友達と一緒にファンクラブに入って、コンサートやラジオの公開収録、雑誌を買い漁り読みふけり…本当に楽しかった。漫画も読んでイラストを描いたり、楽しんでした。
 部活も入って、部活の友達とも仲良くなり友達と仲良く穏やかに過ごせるって、こんなに学校が辛くないんだと初めて体感した。技術はなかったので部活で選手としては活躍できなかったけれど…。(バドミントン部に何故か入った)
 その中でも一人の一つ上の先輩によく可愛がってもらうようになった。
 名前はM先輩。M先輩は副部長で、技術もあって穏やか、控えめな人。周囲からの信頼も厚く友達も多い先輩。本当に大好きだった、まるで恋のように(笑)
 多分私が尻尾を振って目をキラキラさせた犬のように見えてたのかもしれない(笑)M先輩と遊びに行ったり、手紙を交換したり。仲良く過ごした。

 M先輩が高校3年生になって、進路を決める時がやってきた。
M先輩は「作業療法士になるんだ」と私に教えてくれた。?作業療法士って??

これが私の「理学療法士」との出会いだった。

 その頃時を同じくして、同居していたおじいちゃんが脳梗塞で左片麻痺の後遺症が残ってしまった。まだ麻痺は軽かったのでリハビリをして退院してきた。そこで初めて「リハビリテーション」という存在を知った。
 こんなすごい仕事があるんだ!と、これ以外の職業に就くことを考えられなくなった。
 「M先輩、私は理学療法士を目指します!」

 M先輩も喜んでくれた。M先輩は無事に専門学校へ受かり、ひと足先に作業療法士への勉強を始めた。よし、次は私の番だ!
 その頃、(1990年代終盤)学校の数や定員は今に比べると少なく、正直受かるか?微妙だったが猛勉強をして見事M先輩と同じ学校の理学療法科へ進学することができた。最初、母親には学費が高くてものすごい反対されたが、最終的には受験勉強を頑張る私を見て、受験を認めてくれた。

 私の人生で初めて「自分で決めて自分で勝ち取った結果」になった。

 専門学校でもいろいろな出会いがあったし、いじめみたいな低俗なこともなかったので穏やかに学校生活を過ごすことができた。

 本当に勉強ばかりしていて、あまり遊んだりと言うこともなかったけれど。特に出来が良いわけでもなかったけれど、授業や学校は真面目なので進級も問題なくできた。国家試験も無事に受かることができた、
 振り返ってみると、理学療法士になるよりも学校に入る方が自分の中では大変だった印象だった。

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