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東山動植物園 上池 竜の忘れ水について

はじめに

 2013年11月発刊の同人誌『でらこわ怪談~またいりゃぁせ~』に、「彼女が竜を殺すとき」と題した掌編を投稿した。その際、愛知県名古屋市の東山動植物園、「上池」について調べたのものの、そこから長らく手つかずのままにしてしまった。
 このまま眠らせていても勿体なく思い、調べたことを公開しようと思った次第である。

「竜の忘れ水」の伝説について


 昔、上池に棲む竜が、母親を亡くし悲しみにくれる娘に、その悲しみを忘れさせようと「忘れ水」を与え、娘が平穏を取り戻すことができたとの伝説があります。(尾張千夜噺)
忘れ水小公園の立て札
 むかしこの上池には大きな竜が住んでおり村人たちの信仰を集めていました。ある夏のことこの村の娘が母親を亡くして悲しみに暮れていました。見かねた竜は天に昇って聖水を手に入れ娘に与えました。すると娘は悲しみを忘れ元気を取り戻したということです。以来上池の水は「忘れ水」と呼ばれ大切に守られてきました。「尾張千夜噺」
忘れ水小公園の碑

 東山動植物園の、ボート乗り場のある「上池」の一角が「忘れ水小公園」となっており、上記の立て札と碑が存在する。内容が若干異なるので、書き出してみる。
 立て札には「昔、上池に棲む竜が、母親を亡くし悲しみにくれる娘に、その悲しみを忘れさせようと「忘れ水」を与え、娘が平穏を取り戻すことができたとの伝説があります。(尾張千夜噺)」。
 碑には「むかしこの上池には大きな竜が住んでおり村人たちの信仰を集めていました。ある夏のことこの村の娘が母親を亡くして悲しみに暮れていました。見かねた竜は天に昇って聖水を手に入れ娘に与えました。すると娘は悲しみを忘れ元気を取り戻したということです。以来上池の水は「忘れ水」と呼ばれ大切に守られてきました。「尾張千夜噺」」とある。
 ちなみに正面には「寄贈 東山遊園株式会社 1998年6月30日」と記されている。
 さて、2010年からは東山スカイタワー5階の展望室に「竜の忘れ水」をモチーフにしたモニュメントが存在する。

 ここの記述も引用させてもらおう。「悲しみを忘れさせてくれる上池竜
 昔、上池には竜が住んでいて、小さな社も有りました。
ある年、この社に母の病気が治るようにとお参りをする娘がいました。
しかし、願いは叶うことなく娘の母は亡くなってしまいました。
その娘の悲しみは尋常なものでなく、不憫に思った竜神は、娘に忘れ水という霊水を与えました。
この水の力により、娘は悲しみを忘れる事ができました。<江戸時代後期「尾張千夜噺」より>

どうやら、後々に伝説の内容が変化して、
「悲しみを忘れるから人間関係を忘れる」、「縁を切る」へ変わってしまったらしいのです。」とある。

 「竜の忘れ水」は『尾張千夜噺』からの引用であることがわかるのだが、残念ながら本書籍を見つけることは叶っていない。ただ、『尾張千夜噺』の引用をした書籍は存在する。

尾張千夜噺について

 (財)名古屋都市センター 編『名古屋とっておきの話』(経営書院 1997年)という書籍がある。これは名古屋都市センターが「名古屋とっておき大賞」と銘打ち、1996年9月から11月にかけて公募した「名古屋にまつわるとっておきの話」をまとめたものである。
 この43~45ページ、「東山にまつわる俗信について」(名古屋市 川嶋敏祐 38歳)の中に「江戸後期の読物」として『尾張千夜噺』の引用がある。少々長いがそのまま引いてみよう。
「昔、上池には大きな竜がいた。ふだんは池の底に静かに潜んでいたが、周りの村が日照りに苦しんでいる時には天に昇り、雨を振らせたりしていた。だからいつしか村の人々の信仰を集め、池のほとりには小さな社まで建てられるようになった。
 ある夏のこと、この社に百日詣でをする一人の娘がいた。母親の病気快癒が目的だった。しかし不幸にして短命、母親は満願の日を待たずにこの世を去った。
 娘の悲しみは非常なもので、見るに見かねた竜は、ある夜天に昇り、雨水のもとになる霊水を手に入れ、池に帰ってきた。
 その霊水はまたの名を「忘れ水」と言い、人間がそのまま飲んだ場合は、ありとあらゆる悲しみを忘れさせるという効験があった。
 竜はその水を娘に与えた。おかげで娘は母を亡くした悲しみを忘れ、平静を取り戻すことができた。
 それ以来、上池の水は「忘れ水」としてもてはやされるようになった。」
 筆者はここから、縁切りの意味が強じ、「東山公園でデートをすると必ず別れる」というジンクスの由来と紐づけている。また、他に類似の話が残っていないか調査をしたが、『尾張千夜噺』以外には見当たらなかったことも述べている。

 『名古屋とっておきの話』には「名古屋にまつわるジンクスについて」という調査を行い「東山公園でデートをすると別れる(二人でボートに乗ると別れる)」は86人(92%)が知っていたという結果を掲載している(p159)。当時はよく知られたジンクスであったが、東山タワーのモニュメントになったように、次第に「パワースポット」としての側面が強調されるようになったと推察される。
 やはりキーとなるのは『尾張千夜噺』である。「東山にまつわる俗信について」での引用は現代語であるので、是非とも原文を確認したいところであるが、一つ問題がある。「上池」は江戸末期では「源蔵池」と記されているからだ。

源蔵池について

 千種区婦人郷土史研究会 編『千種の歴史』(愛知県郷土資料刊行会 1981年)によると、享和元年(1801年)に名古屋新田頭、兼松源蔵、小松源兵衛が築堤したとある(p85)。もともと上池と呼ばれ、下池である蓮池に流れていたともあるが、この呼称はどうも、東山公園が開園した後の呼称のようでそれ以前については確認できていない。
 確認できる限りで下記のようにまとめてみた。

「源蔵池」の呼称とそれ以降について

 メモを怠って何時のものか判断できないのだが、東山公園内に「源蔵池」と記された地図のコピーを所持している。東山公園開園当初は「源蔵池」だったことは間違いないだろう。ちなみに、当時鶴舞図書館に私が問い合わせた結果もリファレンス化されている。こちらについても「上池」の呼称は1937年以降となっている。

 また、小林元 著『千種村物語-名古屋東部の古道と街なみ-』(山星書店 1984年)にも同様の記述があり、また、一度よそから村民を入植されたものの定着しなかったことが書かれている(p180~181)。つまり、そもそも人が少なかったと推察される。このあたりは余り当時の資料まで踏み込めていない。

まとめ

 「源蔵池」の経緯を鑑みると、地元の伝説として「竜の忘れ水」が存在するには少々無理があるように考える。ただし、余所での噂話として採集された可能性もあるので、一概に否定はできない。『尾張千夜噺』や類話の情報があれば是非とも伺いたい。

 何はともあれ、『尾張千夜噺』は各所でそのまま引かれている事が多く、『名古屋とっておきの話』の「東山にまつわる俗信について」がその初出らしいということまでは記載されていないのだ。「孫引きはするべきではない」ということは主張しておきたい。

 


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