意味を問うことはときに

 生きていれば、ものごとに意味を問うことがあるだろう。

「彼の発言にはどんな意図があったのだろう」

「この出来事にはどういう意味があるのだろう」

「何のために生きているのだろう」

私も、小説や映画に触れるとき、描写やモチーフの意味を考える。「意味」を追うことにとらわれすぎて、情緒的に作品を理解することができず、一緒に映画を見た友達に「お前には心がないからわからんわ」と言われたことさえある。友達は少し泣いていた。私には泣き所がどこかもわからなかった。

このように、意味を問うことはしばしば有益でない場合がある。私は経験的にそう感じている。

だからと言って「気持ちで味わえ」だとか「心を研ぎ澄ませ」などと言いたいわけではないが、とにかく「意味を問うこと」は時と場所を選ぶのだということは確かに感じている。

 今日、受け持っている高校生が読んでいた現代文のテキストに以下のようなことが書かれていた。


「我々は、キリンとクレーン車とタンポポを見た時、キリンとタンポポを同じグループに分類する。キリンとタンポポは〈生物〉であるから。クレーン車とキリンは〈首が長い〉という点において非常に似通っているにも拘らず、キリンとタンポポを〈生物〉として、グルーピングする。(要約)」


出典などは後ほど詳しく明示する。筆者いわく、外的要素が非常に似通っているキリンとクレーン車が別物と認識される一方で、外的要素が全く異なるキリンとタンポポは同種と認識されうるというのだ。続けて筆者は、この「クレーン車」と「タンポポ」の違いを通して「生物」が「生物」と認識されるために必要な要素を見つけ出している。

筆者いわく、生物が生物と認識されるためにはいくつかの要素が必要であるらしい。そのうちのひとつとして「代謝」を挙げていた。「代謝」とはざっっくり言うと「入れ替わり」のことであるらしい。キリンは、一定の周期で細胞が入れ替わる。しかし、一方のクレーン車に細胞はないし、もちろん細胞が入れ替わることもない。このような理論のうえで、キリンは「生物」であると認識され、「クレーン車」は「生物」であると認識されない、と筆者は言うのだ。

私は、「こんな定義の仕方があるのか」と驚いた。目からウロコだった。こんなの、「心臓が動いていれば生物だ」と言っているようなものじゃないか、と思った。

でも、この作者のこの思想こそが、「意味を問うこと」から脱却したものだとも思えた。「何のために生きるのか?」「愛する人のために生きるのだ」「何かを成すために生きるのだ」。これらの言説とは全く別の観点からのアプローチである。「我々は生きているから生きるのだ」「心臓が動いているから生きているのだ」。生存に対するモチベーションなんて、こんな程度でいいのではなかろうか。

死にたくなった時は、未来も過去も見ずに、ただ今「生物」であることだけに集中しようと思った。

リストカットもオーバードーズも、死んでしまわないために必要なことだった、「生物」であるために必要なことだった、と思うことにした。

「意味を問うこと」から解放されると、幾分か生存しやすくなるのだろうと私は思う。私は、今よりももっともっと「意味を問うこと」から脱却したいと考えている。厳密に言うと、時と場合を鑑みて「意味を問うこと」を行いたいと考えている。

明日も、生物であることに集中しよう。

よい夜を、


笑止です 笑止笑止の 笑止です 生きていかねば ならないですもの|澪標
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