キタニタツヤのオールナイトニッポンX(第11回・スペシャルウィーク【ゲスト又吉直樹さん】)2024.6.10)①

・今回の又吉さんゲスト回の告知ツイがリツイート・いいねを稼いでいる。ANN・ANN0・ANNX全番組のスペシャルウィーク告知ツイの中でもかなり上位、月曜日の中ではトップ。ありがとうございます。
いや、ありがとうございますじゃないな?別に放送がトップだったわけじゃない、告知ツイが面白かっただけだ。笑

・これだけ(又吉さんと)写真撮れと言われると、逆に撮りたくなくなってくる。笑 さっき美容室行って、ちょっとだけ小綺麗にしてきた。ちょっとだけ反骨心の表れで。見た目以外でも創作をする人間ではあるから、共通点や相違点を探していけたら。

(又吉さん登場。メインのクリエイティブのお話にボリュームがあるので、その他はさらっと書きます。)

・又吉さん、キタニを認知。「なぜ来てくださったのか?」の問いに、「髪型だけじゃなくて、色んな面白い活動されてるんでお会いしてみたいなと」。「でも8割髪型で呼ばれてんのやろなって。笑」 

・又吉さんは元々クセ毛だが広がっていくパーマで、めちゃくちゃ短髪にするか伸ばすかしないとだから、パーマでパーマを抑えている。根元はストレートパーマをあてている。キタニは完全にクセ毛だけど何もしていない。

・キタニが大学受験の際、東大駒場キャンパスを歩いていたら、大学1-2年生がめっちゃ野次馬で、遠くから「イエス・キリスト!!」と声が飛んできた話(当時丸いメガネをかけていた)、ソニーから武道館までこの髪型でと言われたが、実際武道館ライブをやったら今度は「次はさいたまスーパーアリーナね」と言われた話等々。

(以下、キタニと又吉さんのクリエイティブ論。
キタニ=キ、又吉さん=又 で主な内容を書きます。
キタニさんの発言だけ「おれ」など平仮名表記なのは敢えてです。)

キ 今回の放送が決まって初めて『火花』を読んだが、作り手が先に完全に世に知られている状況でその後に作品が出るから、自分もそう思ってしまい、たくさん言われたと思うが、これって又吉さんの話なのでは?と。

又 そうですね。

キ ぼくも最初は思ったが、(又吉さんの)Wikipediaの経歴からしても全然違う物語だし、もちろん自分が書いたものだから自分も反映されると思うが、これは物語だと思った。
でも、こういう鑑賞にあたってのフィルター、鑑賞が純粋なものではなくなるということが、又吉さんが又吉直樹の名前で書く以上、そこから逃れられないというのが最初から決まっている、それって怖くないか?というのがあって。

又 もちろん、それで読んでくださる方もいるから、一概に全部が嫌なわけではないが、確かに僕の体験談として読まれることが多く、書いたときはちょっと嫌だった、違うのになーって。でも、ほかの人が書いた小説読んでても、例えば共感したり、すごくわかるなーとかは僕自身(の話)でもあるなって、他者が書いたものですらそう感じるから、自分が書いているものだと僕ではないけど僕の部分も含まれないと(おかしい)。

キ 書きながらそこに自分を読み取ってしまう?

又 全く自分と別というのはなかなか(難しい)。2作目は芸人とは全然違う劇作家という設定で書いたが、それもやっぱり自分の体験を元に書いてると思われることが多かったから、その次に書いたものは、過去の作品と同じように僕っぽい語り方とか物の考え方をするが、途中で明らかに僕みたいな芸人がもう一人出てくる。あれ、二人出てきた!?みたいな。その頃にはもう、何書いてもそうなるから、むしろそれを最初からある効果として取り入れて。

キ 利用したんですね!

又 増えた!みたいな面白さもあるのかなと。どちらの人が読んでも楽しめるようにしたつもり。

キ 自分は音楽を作った結果、最終自分が歌うという芸能の行為をしてゴールで、それがハナからあるから、自分を書くのが前提になっているところがある。
『火花』には神谷というカリスマ性をもった、その中にその人の思想が出てくる。あれは、書き手の何個かある人格を切り分けたものが出ているのかなと思った。
漫画家先生と話していると、ネットで見かけた"こういう人いるよな"をそのまま書いている人もいるが、その点どう思うか?

又 例えば神谷という芸人の語りは、書きながらそういう感じになってしまって、それを後で読み返し、「何言うてんねん、こいつ」みたいな、全然俺と違うタイプの芸人やなと感じたりして。
でも、今度はそれを読者として、「この言葉はどういう意味があんのやろ?」って考えて、あ、なるほどこういうことかと、それがまた影響してその先を書いていけるみたいな。

キ あー何かそれいいですね。文章って結局最後自分の手から離れるし、自分はある程度作品から切り離されるからそういうことができるというか。ぼくには難しいんですよね、それが。

又 『火花』でいったら、語り手の徳永が後輩、その後輩と先輩の芸人同士の関係性で物語が進んでいく。
その後輩が面白おかしく物事を考えるくだりがあり、それを担当の編集者さんが読んでくれて、その部分が「すごく面白くて笑った」と言ってくれた。
そこで一回僕は考える。
僕は『火花』書いたとき芸歴15年目の芸人で、色んな舞台にも立ち、作中の徳永という若い芸人よりキャリアを積んでいるから、徳永は果たして僕の担当編集者さんを笑わせることができるのか?と。

キ ハハハハ!あ、リアル追求したんですね。

又 笑ってくれたのは僕や。僕が書いた部分で。

キ それは是としなかった?

又 それは是とせずに、ギリ笑われへんぐらいのリアリティみたいな、芸歴と合わせた部分を考えながら書いていた。

キ そこはでも、物語なら超そういう面白いヤツがいてもいいわけだが、そこをリアル準拠したのは(なぜか)?

又 それは僕が芸人として舞台に立つ中で、天才といわれる才能豊かな人も同世代にいたが、にしても芸歴とその活動内容のバランスみたいなもので。

キ あーそっか。徳永の状況と乖離するから。そんだけ面白かったらもっと売れちゃってるとか。

又 そうですね。もっと違う芸風だったら言えると思う。もっと元気とか。

キ 今風の言葉で言ったら解釈違いみたいな、ちょっとこのキャラはこういうことしない、みたいな?

又 そうですね。それぐらいの距離感では(ある)。
でもたまに自分と全く同じやなという部分もあったり。
コントだと妖怪とか、人間じゃないものを演じることもあるが、でも化け物にさえ部分的には感情移入するから、それと一緒、距離感は。

キ そこの距離感の調整ができるというのは、コントも小説も何かいいなというか、歌はほんとに最終演じて、で、しかもお客さんはこの音楽家がこういう音楽家で、こういう経歴を経ているからこそ、あるいは経ているのにも関わらずこういう音楽を出力してるというその物語全体、文脈含めた物語全体がコンテンツとして面白いという風に消費されてるな〜と思って歌ってたり、自分も聴くときにはやっぱりその人間性が出てるアーティストに熱くなるみたいなのがあるから、そこを自分とどうしても距離をあまり広めに取れないのが、自分の作風の幅を狭めているみたいでちょっと嫌だし、でも歌うときあまりかけ離れていると、それこそコント的な面白さになっちゃうんじゃないかとか。

又 そうなんですよね。だからそれもあって、小説のジャンルで私(わたくし)小説ってあるじゃないですか。自分のことを題材にして、でも名前や設定変えたりしてても私小説に含まれるみたいな、日本の伝統的な小説のスタイルではあるけど古いということもあったり。でもさっき出した話と矛盾するが、その私小説のジャンルで括られることはあまり嫌じゃないというか、俺の話じゃないけど、自分の話としても、そう思われても別にいいというか。その中にちゃんと自分の何か経験なり入っているし、キタニさんがおっしゃってる自分の作品との距離をあまりにも空けすぎると信頼感がなくなる、聴く側が難しくなるというのはある。

キ それでいうと、聴く側・観る側として、何かの話で読んだが、又吉さん、作り手にとって理想的な鑑賞者たろうとする姿勢、観る側も面白がろうと頑張れみたいなことをおっしゃってたと思うが、ぼくは鑑賞者側をそこまで信用しきれないというか、もう色々やって楽しんで楽しんで!あれもやる、これもやるよ!みたいな。良くないお節介のホスピタリティが働いてしまうきらいがあって、何でそういう風に思えるんだろうというか。

又 例えば友達とご飯食べに行って、日常的に使うご飯屋さんでも高級なお店でも、まずいまずい言いながら食べる友達とご飯食べに行きたくない。人が作ったものはとりあえず頂きますと言って食べて、美味しかったと言って、その中の全てが同じように最高ではないかもしれないが、そこを美味しがるというのは、割と小学生ぐらいから誰でもできることなんじゃないかと。その中で、より自分は好きだとか、よりこれが辛かったらとか、野菜がもっと多かったらとかあるんやろうけど、その皆まで言葉にせんでも、「だからダメだ」じゃなくて、基本的には美味しく食べようとしたいというのが根底にはある。

キ 世の中の人は、例えば「嫁さん(や友人)が作ってくれた料理」だったら、美味しがりながら食べる努力をするかもしれないが、お店だったら(自分たちはお店じゃないですか)お金という対価を払ったんだから、それ相応の、そこから先のものは面白がるけど、そこまで至ってないものを面白がる義務はない、みたいな。
ぼく消費者側・鑑賞者側としてはそう思っちゃうからこそ、作ってるときも、「あーこれもこれも」って。

又 ご自身がもってる批評性みたいなものも、自分にもちゃんと向けてるってことですよね。それはそれで大事なことだと僕も思うが、それであまりにも自分に対して甘くなりすぎても(どうか)。

キ (又吉さんは)作り手としてやりたいことを結構頑固に守るタイプなのかなと思ってたんですけど。

又 自分の好きなもの・作るものにはそうですね。ただ、そういう理屈が先に立って人が作ったものを楽しもうって決めたんじゃなくて、元々すごいゲラ。すぐ笑っちゃう。

キ でも芸人さんって、テレビとかでもめちゃ笑ったりするじゃないですか。才能なのかな?

又 すぐ笑っちゃうし、音楽聴いてもすごいクる。

キ 自分の領域じゃなくても?

又 映画でも小説でもそうだし、小説とかそれがいい読者かわからないが、作者が構成した物語の記憶の展開のとこで、最後いわゆる、皆ここで泣くよね?みたいなことするじゃないですか。僕もう全然関係ない、普通の、外出たら天気良くて気持ち良くて何か今日はすごく色んなものが繊細に見える、みたいな描写を読んでるだけでグッと高まって、涙出てきたりするんですよ。

キ 想像で追体験しちゃう?

又 だから、元々そういうタイプなんで。あんまり人が作ったもの、明らかなパクリとか、これは完全に手玉に取りにきてるなってわかっちゃうとあれですけど。

キ それが見えちゃうとまたつまらないから、ぼくのホスピタリティもダメなところはダメなんですよね。テクを入れて、それがバレないようにしないといけない。「さぁ、サビがきました!泣いてください!」っていうのがバレないようにしないと、バレた瞬間シラけるじゃないですか。そこは気をつけないといけない。

又 そうなんですよね。何でも美味しいとか、何でも最高って言ってると、だんだん信頼されにくくなるというか、どっちかというと毒吐いてた方がホンマっぽいじゃないですか。

キ そうですね。

又 でも、もの見たり、もの食べたときに「マズい」って言う方が割と簡単じゃないですか。
よく言う例えが、皆で鍋を食べるとして、小皿に鍋を取り、まずはその味みて美味しいとか言うてて、ちょっとそこに俺はポン酢を足すとか、各々がちょっとだけ味変していく。それが、その鍋をそれぞれがどう楽しむかって、僕それ負けたくないんですよね。「自分の皿今一番いい状態になってるから、この出汁ちょっと飲んでみて。完璧なんできたから」みたいな。

キ 自分の鑑賞の仕方をシェアする。何かでもその解釈を、YouTubeで、この歌詞はこうじゃないかとか、あれもおれの小皿完成したからっていう(ことですかね)。

又 それが必ずしも皆に刺さるわけじゃないし、誰かがたまたまできたそれがめっちゃ美味いから、それをマネしたのを楽しむのも面白いと思う。

キ めちゃめちゃ理想的な鑑賞者じゃないですか。

又 どうなんですかね。

キ 世の中の人、意外とそうじゃないんじゃないか、いやそうなのかもしれない。信じたいけど信じられない。

又 ひどいのもあるじゃないですか。普通に水炊きみたいなのを食べにきたのに、俺はキムチ鍋が好きだから水炊きじゃ満足できひんって、ちょっと待ってくれよ、みたいな。

キ ハハハ!ちゃぶ台ひっくり返される?

又 そういう鑑賞者もいるから。

キ そしたら、キムチ鍋屋に行ってください、向かいにある赤からに行ってくださいよ。

又 全部が全部は絶対無理やろうから、でも自分が鑑賞するときは割とそんな感じでものを見るクセがついているというか、元々そういうようなタイプですかね。

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